『フラクタル世界』第5話


新鮮な空気を吸うために大切なのは、息を吐ききることなのかもしれない。
闇雲に走ることで絞り切った細胞がスポンジのように酸素を取り込んでいる。
理由がなんであれ、淀んでいた空気はすっかり入れ替わっていた。
太陽も沈んで薄暗くなった森に目が馴染んでくる。
なんだかそのまま森に溶けてしまいそうな気がした。
ふと。
いや、そう言葉にする間もなかった。
気づけばぼくの足は渓流を離れ、森に向かっていた。

[人はなかなか本能に従えない生き物だ。しかし、やろうと思ってもいなかったことに足が向かった時、その瞬間だけ、本能が現れる。]

10歩ほど進んだ時、すぐに思い出した。
森はスクリーンでできているはずだと。
世界は虚像に過ぎないのだから、このまま行けば、どこかでぶつかるに違いない。
だからこれは無意味なことだ。
そう思おうとした。
けれども不思議なことに、一度動き始めた足を止めることはできなかった。
20歩。
30歩。
50歩。
100歩。
500歩。
頭の隅では数が刻まれ、他はただ壁があることだけを想像した。
何を願っていたかはわからない。
しかし、どこまで行っても、スクリーンはなかった。
正確には、見つけることができなかった。
途中、立体映像なのではないかと思って、木に手をかざしてみた。
そこに、木はあった。
木は静かに佇み、内に秘めたる心臓を鼓動させていた。

ぼくは、ふっ、と笑いが零れた。
それは世界が広がったことを喜んだわけでも、絶望が終わりを迎えたことに歓喜したわけでもない。
今までの自分を否定されたからだ。
いや。否定さえもされていないかもしれない。
ただ、ぼくが間違っていたのだ。
過去に嘆いてきた絶望は、初めから間違っていた。
こんな時、人はどう生き抜くのだろう。
その小さな、ぼくにとっては大きな挫折を、なんとか笑いで誤魔化す必要があった。

それでもぼくは、間違いは認められる人間でありたいから、過去の考えに縋ることはしたくなかった。
せめてものプライドだけは守ると決めた。
そうだ。ぼくは間違っていたのだ。
スクリーンは思い込みに過ぎなかった。
まずはそう納得しようと試みた。
「考えてもみろ。知らない世界がもっとあるのだ。素晴らしいじゃないか」と。
しかし追い打ちをかけるように、もうひとつ嫌なことが頭に過ぎる。
認めたくない事実。
それは、この物語のはじめに書き記した一文のことだ。
『ぼくには特殊能力がある。』
この物語を書き記すにあたって、ぼくはたしかにそう書いた。
その力とは、嘘のないように書けばとてもぼんやりとしていて、自分でもよく分からない。
それでも方向性としては・・・・・・・、「世界のことわりる類の力」なのではないかと当初考えていた。
けれど、スクリーンがないと知った今、すっかり分からなくなってしまったのだ。
目の前に見えているリンゴが、脳に繋がれた電極によって作り出された錯覚だと知った時のように、たったひとつの反例が、ぼくの築いてきた世界を瓦解させてしまった。
ひょっとすると、15万階のサイコロの部屋も、すべて錯覚なのかもしれない。
ならばぼくは何を信じればいいというのか。
この先に広がる果てしない森を前に、ぼくは途方に暮れた。




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