『宗教学の名著30』(島薗進)読後メモ

島薗さんによると、宗教学という学問は新しいらしい。それゆえに宗教学としての研究方法には共通した基盤が確立されておらず、哲学・歴史学・心理学・社会学・文化人類学等のさまざまな方法が用いられ、議論が集約されにくい状態であると前書きの中で指摘されている。

そして、その言葉に違わず本書で紹介されている30の著作は一般的な肩書が宗教学者ではない学者によるものが大半だ。
ざっと書き出しておく。

1.宗教学の先駆け
空海『三教指帰(さんごうしいき)』、イブン=ハルドゥーン『歴史序説』、富永仲基『翁の文』、ヒューム『宗教の自然史』
2. 彼岸の知から此岸の知へ
ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』、カント『たんなる理性の限界内の宗教』、シュライエルマッハー『宗教論』、ニーチェ『道徳の系譜』
3. 近代の危機と道徳の源泉 
フレイザー『金枝篇』、ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、フロイト『トーテムとタブー』、デュルケム『宗教生活の原初形態』
4. 宗教経験と自己の再定位
ジェイムズ『宗教的経験の諸相』、姉崎正治『法華経の行者日蓮』、ブーバー『我と汝』、フィンガレット『論語は問いかける』
5. 宗教的なものの広がり
柳田国男『桃太郎の誕生』、ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』、エリアーデ『宗教学概論』、五来重(ごらい・しげる)『高野聖』
6. 生の形としての宗教
ニーバー『アメリカ型キリスト教の社会的起源』、レ―ナルト『ド・カモ』、エリクソン『幼児期と社会』、ショーレム『ユダヤ神秘主義』、井筒俊彦『コーランを読む』
7. ニヒリズムを超えて
ヤスパース『哲学入門』、バタイユ『呪われた部分』、ジラール『暴力と聖なるもの』、湯浅泰雄『身体論』、バフチン『ドストエフスキーの詩学の諸問題』

特に印象に残った箇所をいくつか以下に抜粋する。

外面的な統制をきらうシュライエルマッハーの宗教理解は、アナーキーと言ってもよいようなところもある。宗教に親しむには確かに仲介者や指導者が必要かもしれない。だが、何かに従属した段階に留まっていてはならない。宗教生活を型にはめるような教義も経典も本来的なものではない。神や不死の観念も不可欠ではない。

(シュライエルマッハー『宗教論』の章より)

たとえば、イエスや仏陀である。『彼等の説いた教理がどうであるの、かうであるのといふ批評もあるが、吾等は口舌の真理よりも、彼等の神人たる人格に帰敬するのである』。ロマン主義的な「偉人」崇拝の立場だ。

(姉崎正治『法華経の行者日蓮』の章より)

「聖(ひじり)」は僧院の中で経典を学び修行を行う正統的な僧侶のあり方を捨て、「別所」など人里離れた拠点に住み、他方で民衆の救済・教導に力を入れる遁世僧である。
(略)
「聖」とは多くの場合、「俗聖(ぞくひじり)」なのだ。だが、それは必ずしも仏教精神に反するものではない。むしろ大乗仏教の目指すところと一致するものではないか。
『このような聖の生態は、聖が原始宗教者の仏教的変形であるということのほかに、大乗仏教は究極的には在家仏教であるから、小乗的な戒律を無用とする思想があることにもとづくのである。わたくしは大乗仏教とは一種のヒューマニズムであり、自我をすてて他に奉仕する人間愛であるとおもう。(中略)ヒューマニストとしての人間愛から社会的作善をおこなうかぎり、戒律は絶対的なものでない、という思想が聖にはあったのだとわたくしは考えている。』

(五来重『高野聖』の章より)


noteでは何度も書いているが、私は信仰を持たない。しかし、その生き方に感銘を受けた歴史上の宗教家や聖職者は何人かいる。以前に作家のオスカー・ワイルドについて、カトリック教会には批判的だったがイエス・キリストには親愛の情を抱いていたと書いたことがある。私は彼に強い共感を覚える。戒律を重んじるユダヤ教から憐れみを重視するキリスト教が派生し大勢の人々の心をつかんだのは、小乗仏教から大乗仏教が生まれ民衆に広まった動きと似ている。

人間は宗教を乗り越えるべきだろうか?アンチ宗教気味だった去年までの私なら「そうだ」と即答していたが、今はすぐには答えられない。
私はリチャード・ドーキンスにかなり影響を受けていて、生物は遺伝子の乗り物であるから、人間の思考を含むすべての行動は直接的、あるいは間接的な遺伝子の志向の反映であると信じている。ドーキンス自身は宗教を敵視しているが、私は彼の唱える「利己的遺伝子」説によって人間が宗教を求めるのは生物的な必然であると説明できるのではないかと最近考えるようになった。

人間の行動を決定するものには、理性と情動の二つがある。理性を意識、情動を無意識と言い換えることも可能かと思う。この無意識の部分、より遺伝子の自己複製欲求をダイレクトに反映する部分が宗教というデバイスを生み出したのではないかと想像しているのだ。隣人へのいたわりや共同体への奉仕の精神は私たちが良心や道徳心だと感じるものだが、こういったことは自分や自分に近い遺伝子をより多く残したいという遺伝子の欲求にかなっている。この個々人が感じる内なる遺伝子の声を人間を超えた絶対的な存在からの指針と解釈して共同体内で一律化・共有化し、また、それを共同体のルールとすることの正当性の根拠としたのが「神」の始まりの一つの形だったとは考えられないだろうか。つまり、神というのは、共同体の集団的良心に「人格」と権威を与えたものであり、遺伝子の志向を強く反映した存在であるのではないだろうか。

宗教権威の腐敗や異なる宗教間の紛争など、宗教をめぐる問題は山ほどあるが、原初に宗教を生み出したのが人間の遺伝子に備わる平和と繁栄を求める良心だったとすれば、未来への希望もわいてくる。信者に厳しい戒律を強いたり、救済対象が限られた国や民族だけといった宗教ももちろん存在するが、寛容でより普遍的な人類愛に近い信仰の形を求める人が増えてきていると感じられるのもそれを裏付けているようで心強い。


余談だが、本書を読んで、私は自覚のないまま10年以上前から宗教学に心惹かれていたのだと気が付いた。
私がかねてからファンだと折に触れて言及している日本中世史家の網野善彦さん。私が初めて彼の著作を手に取ったのは2007年ごろだったと思う。『無縁・公界・楽』という日本中世の社会史の本だった。
この本を、網野さんは高校教師であったときに生徒から投げかけられたものの自分で納得できる解答ができなかった二つの質問について、その後もずっと考え続け、その結果の一部をまとめたものである、とまえがきで明かしている。

(略)生徒諸君の質問に窮して教壇上で絶句、立往生することもしばしばであったが、その中でつぎの二つの質問だけは、鮮明に記憶している。
「あなたは天皇の力が弱くなり滅びそうになったと説明するが、なぜ、それでも天皇は滅びなかったのか。形だけの存在なら取り除かれてもよかったはずなのに、なぜ、だれもそれができなかったのか」
 これは、ほとんど毎年のごとく、私が平安末・鎌倉初期の内乱、南北朝の動乱、戦国・織豊期の動乱の授業をしているときに現れた。伝統の利用、権力者の弱さ等々、あれこれの説明はこの質問者を一応、だまらせることはできたが、どうにも納得し難いものが、私自身の心の中に深く根を下していったのである。
 もう一つの質問に対しては、私は一言の説明もなしえず、完全に頭を下げざるをえなかった。
「なぜ、平安末・鎌倉という時代にのみ、すぐれた宗教家が輩出したのか。ほかの時代ではなく、どうしてこの時代にこのような現象がおこったのか、説明せよ」
 この二つの質問には、いまも私は完全な解答を出すことができない。ただ、そのとき以来、脳裏に焼き付き、いつも私の念頭から離れなかったこの問題について考え続けてきた結果の一部を一つの試論としてまとめたのが本書である。

網野善彦著『無縁・公界・楽』まえがきより


「地上の権力」と「天上の権威」、理性(言葉)が作る社会システムと心が求める社会の在り方。今見れば、上の高校生の二つの質問がまぎれもなく宗教学の領域にあるのが分かる。
もちろん網野さんは歴史学者なので、私の記事のような根拠のない憶測などは本には一切出てこない。しかし、彼の宗教学的な視点にこそ私は惹かれたのだなぁと今になって気付いたのだった。


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