島薗さんによると、宗教学という学問は新しいらしい。それゆえに宗教学としての研究方法には共通した基盤が確立されておらず、哲学・歴史学・心理学・社会学・文化人類学等のさまざまな方法が用いられ、議論が集約されにくい状態であると前書きの中で指摘されている。
そして、その言葉に違わず本書で紹介されている30の著作は一般的な肩書が宗教学者ではない学者によるものが大半だ。
ざっと書き出しておく。
特に印象に残った箇所をいくつか以下に抜粋する。
noteでは何度も書いているが、私は信仰を持たない。しかし、その生き方に感銘を受けた歴史上の宗教家や聖職者は何人かいる。以前に作家のオスカー・ワイルドについて、カトリック教会には批判的だったがイエス・キリストには親愛の情を抱いていたと書いたことがある。私は彼に強い共感を覚える。戒律を重んじるユダヤ教から憐れみを重視するキリスト教が派生し大勢の人々の心をつかんだのは、小乗仏教から大乗仏教が生まれ民衆に広まった動きと似ている。
人間は宗教を乗り越えるべきだろうか?アンチ宗教気味だった去年までの私なら「そうだ」と即答していたが、今はすぐには答えられない。
私はリチャード・ドーキンスにかなり影響を受けていて、生物は遺伝子の乗り物であるから、人間の思考を含むすべての行動は直接的、あるいは間接的な遺伝子の志向の反映であると信じている。ドーキンス自身は宗教を敵視しているが、私は彼の唱える「利己的遺伝子」説によって人間が宗教を求めるのは生物的な必然であると説明できるのではないかと最近考えるようになった。
人間の行動を決定するものには、理性と情動の二つがある。理性を意識、情動を無意識と言い換えることも可能かと思う。この無意識の部分、より遺伝子の自己複製欲求をダイレクトに反映する部分が宗教というデバイスを生み出したのではないかと想像しているのだ。隣人へのいたわりや共同体への奉仕の精神は私たちが良心や道徳心だと感じるものだが、こういったことは自分や自分に近い遺伝子をより多く残したいという遺伝子の欲求にかなっている。この個々人が感じる内なる遺伝子の声を人間を超えた絶対的な存在からの指針と解釈して共同体内で一律化・共有化し、また、それを共同体のルールとすることの正当性の根拠としたのが「神」の始まりの一つの形だったとは考えられないだろうか。つまり、神というのは、共同体の集団的良心に「人格」と権威を与えたものであり、遺伝子の志向を強く反映した存在であるのではないだろうか。
宗教権威の腐敗や異なる宗教間の紛争など、宗教をめぐる問題は山ほどあるが、原初に宗教を生み出したのが人間の遺伝子に備わる平和と繁栄を求める良心だったとすれば、未来への希望もわいてくる。信者に厳しい戒律を強いたり、救済対象が限られた国や民族だけといった宗教ももちろん存在するが、寛容でより普遍的な人類愛に近い信仰の形を求める人が増えてきていると感じられるのもそれを裏付けているようで心強い。
余談だが、本書を読んで、私は自覚のないまま10年以上前から宗教学に心惹かれていたのだと気が付いた。
私がかねてからファンだと折に触れて言及している日本中世史家の網野善彦さん。私が初めて彼の著作を手に取ったのは2007年ごろだったと思う。『無縁・公界・楽』という日本中世の社会史の本だった。
この本を、網野さんは高校教師であったときに生徒から投げかけられたものの自分で納得できる解答ができなかった二つの質問について、その後もずっと考え続け、その結果の一部をまとめたものである、とまえがきで明かしている。
「地上の権力」と「天上の権威」、理性(言葉)が作る社会システムと心が求める社会の在り方。今見れば、上の高校生の二つの質問がまぎれもなく宗教学の領域にあるのが分かる。
もちろん網野さんは歴史学者なので、私の記事のような根拠のない憶測などは本には一切出てこない。しかし、彼の宗教学的な視点にこそ私は惹かれたのだなぁと今になって気付いたのだった。