掌編小説「モンクの肖像」
コーポ深山の二階の一番奥。かすかにジャズが漏れ聞こえてくるその部屋が、私の腐れ縁の友人の家。
「亮介、私。入るよ」
おざなりにノックして、ドアを開けた。
雑誌や脱ぎ捨てた服やゴミで散らかったワンルーム。淡い冬の陽が差し込むベランダの窓のそばで、亮介はいつものようにイーゼルに向かっていた。飽きもせずにかけているのは、ジャズピアニスト、セロニアス・モンクのアルバムだ。
これがすっかり日常になってしまった。
たった二カ月前までは、モンクの名前すら知らなかったのに。
* * *
「これ、どんな音楽?」
本棚の上、壁に立てかけるように飾っていたそのレコードを指して、遊びに来ていた亮介が尋ねた。セロニアス・モンクの『アンダーグラウンド』。納屋を改造した隠れ家のようなところで、肩から自動小銃ぶら下げてアップライトピアノに向かうモンクが描かれたインパクトのあるジャケット。アンダーグラウンド、つまり地下活動ってことで、モンクはフランスのレジスタンスに扮しているらしい。ピアノの上には手榴弾が酒瓶と一緒に転がっているし、縛られたナチス将校とか鉤十字の旗とか、納屋だけに牛がいたり、とにかく「なんじゃこれ⁉」と言いたくなるような変なデザインなのだ。
「ジャズだよ」
「へえ、お前ジャズなんか聴くんだ。意外」
皮肉の色はなかった。
「そんなに聴かないけど。ジャケットがかっこいいからインテリア用に父さんにもらっただけ」
初めての一人暮らし。皆とはちょっと違う何かクールなもので部屋を飾りたかった。ただそれだけ。でも、亮介は中身にも興味を惹かれたみたいだった。
「聴いてみたいな。かけてよ」
それが始まりだった。
「モンクのピアノってすごくパラパラしてるだろ?中華屋のチャーハンみたいにさ。それのご飯粒の一つ一つにカラフルな色がついてて、飛び回っていろんな模様を作るのが見えるんだ。俺、どうしてもそれを描きたくってさ」
亮介はそう言って、絵を描くようになった。
アボリジニの点描画のような、花火のような、曼荼羅っぽかったり、ニューロンぽかったり。鮮やかな色彩がそこかしこで爆発し、飛び散っている抽象画。絵画なんてさっぱり分からないけど、形容しがたいエネルギーを感じるそんな絵を、モンクの音楽を聴きながら来る日も来る日も亮介は描き続けている。
サイケデリックなそれらの絵は、高校生の時に本で見た、幻覚剤を使った人が描いた絵と似ている気がした。確か統合失調症の人も同じような絵を描くんだっけ…。
そんなことを考え始めて、少し落ち着かなくなる。切っ掛けを作ったのは他でもない私だから。
何か軽めの話をしようと思って、数日前に仕入れた話題を振った。
「そういえばさ、村上春樹ってジャズ好きなんだってさ。知ってた?ジャズ喫茶やってたんだって。モンクのことも何か本出してるらしいよ」
「興味ない」
「そっか。まあ、私もないんだけど」
はい、会話終了。モンクの話題なら食いつくかと思ったんだけど。曖昧な笑いを浮かべた私に、亮介は目をキャンバスに固定したまま、吐き捨てるように言った。
「大衆作家は大衆音楽を聴いとけばいいんだよ」
好きでも何でもない作家だけど、亮介の、さも自分は特別だと言わんばかりのその言葉にカチンときた。
(マイナーアーティストが好きなのが自分の非凡さの証明とか思ってんの?あんたが絵を描き始めたのなんて、つい最近じゃない。まだ画家でも何でもないくせに偉そうに)
そんな反発の言葉が頭に浮かんだが、口には出せなかった。最近の亮介はすっかり別人みたいで、どこか脆そうで少し怖かったから。
わだかまる不快感を抱えて亮介の家を後にした。亮介を見ていると誰かを思い出す。音楽と絵の両方に足を突っ込んでいる人間。--そうだ、ビートルズ初期メンバーのスチュアート・サトクリフだ。少し前に姉に薦められて見た映画『バックビート』の主役。あの俳優に顔がちょっと似ているかもしれない。まだマッシュルームカットになる前のビートルズ。リーゼントに革ジャン姿のジョン・レノンやポール・マッカートニーらとツアーに出て。ハンブルクで年上の写真家の恋人に出会って。画家を目指すかミュージシャンになるか迷って、彼は結局ビートルズを脱退して、画家の道を選んだのだった。
そこまで思い出して、不吉な気分に襲われた。
(確か、最後、20代なのに脳出血かなんかで死ぬんだった)
後ろめたさと不安から逃れるように、私の足は次第に亮介の家から遠のいた。言い訳をすれば、亮介も私の訪問を歓迎している様子ではなかったのだ。もう誰にも絵を描く時間を邪魔されたくないようだった。
春休み中に亮介が心の病になって実家に連れ戻された、と友人から聞かされた。
「…ポケモンに犯される夢を見る、とか真顔で言っててさ。笑えなかったもん」
友人の苦笑混じりの声が遠くに感じられる。どっと後悔が押し寄せて、まるで泣く寸前のように頭がガンガンして、顔に血が集まって熱くなるのを感じた。
(私のせいだ)
取返しのつかないことをしてしまったと思った。
* * *
駅前のカフェ。私は亮介と数年ぶりに向かい合っていた。会社帰りでスーツ姿の私に対して、いかにも自由業といったカジュアルな服装の亮介。
何の前触れもなく、青天の霹靂とも言うべき唐突さで「会おうよ」とメッセージが届いたのは一週間前だった。随分前に回復して退院したと聞いているのに、目の前の亮介に対して異常な言動が見られないか無意識に警戒している自分に気付き、自己嫌悪に陥る。そんな私の内心を知ってか知らずか、亮介は屈託のない笑顔で紙袋を差し出してきた。
「これ、もらって」
入っていた包を開ければ、小さな…A4サイズぐらいのキャンバスが出てきた。オレンジや茶色、緑が多く使われた暖かみのある点描画。ピアニストがモチーフだと分かるぐらいには具象的だけれど、以前とあまり変わらないスタイル。
「お礼に。お前とモンクが俺が絵を描く切っ掛けをくれたから。退院してから、初めて描いた絵なんだ。…こんな絵ばかり描いていると、まだ病気じゃないか、って疑われそうだけど」
ハッとして、亮介の顔をまじまじと見た。
「よく言われるんだよ。ドラッグやってる人の絵みたいだねって。でもこれが俺のスタイルなんだ」
そう言って、あっけらかんと笑う。
張り詰めていた心が緩むのを感じた。
病気があんな絵を描かせたわけじゃなかった。モンクと出会ったことも亮介は後悔していないのだ。涙が出そうになったが何とか堪えた。罪悪感が軽くなったからなんていう自分本位な理由で泣いたら、もう二度と自分のことを許せない気がした。つらい経験をしたのは亮介なのだ。それに、私が亮介の様子に違和感を覚えながらも何の行動も取らなかったという事実は変わらない。
「亮介、ごめんね。私、何もしなかった。もらう資格ないよ」
か細い声で謝罪と遠慮の言葉を口にした私に、亮介は優しく微笑んだ。まるで私の言葉を予想していたみたいに。
「立場が逆だったら、俺もきっと何もできなかったよ。18、19の学生なんてまだ子どもだもん。だから思い詰めんなよ」
亮介がずっと私のことを気にかけていてくれたことに、その時初めて気付いた。
「再発の可能性はあるらしいけど、そんなに心配してないんだ。今は好きな絵を描いて、毎日を一生懸命生きられてる。だから、お前も前を向けよ」
堪えきれなかった。ずっと胸につかえていた塊が一気に溶けて涙と一緒に流れ出た。
亮介と別れ、駅へ向かう私の足取りは軽かった。手に下げた紙袋には来月開催される亮介の個展の案内も入っている。家に着いたら、あれ以来しまい込んでいたレコードをまた引っ張り出そうと決めていた。亮介が描いたモンクの肖像と並べて飾れるように。
いや、飾るだけじゃない。
(久しぶりに聴いてみよう)
飛び回る色彩を私も見てみたい。今ならそれができそうな気がする。
<終わり>
ジャズがテーマのこんなお話も書いています。
ありがたくいただきます。