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宮本常一『忘れられた日本人』を読んで考える女の性

タイトルどおり性に関するお話です。苦手な方は読まないでください。


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日本のよく知られた民話に「飯食わぬ女房」というものがある。こんな話だ。

飯を食わない働き者の女房が欲しいというケチな男の元に願い通りの嫁が来る。しかし、米や味噌が異常な速さで減るのを不審に思った男は、あるとき外出する振りをして物陰に隠れ、女房の様子を窺うことにした。そうとは知らぬ女房は、大量の米を炊き、大鍋一杯の味噌汁を作りだす。山盛りの握り飯と味噌汁ができあがると、女房はやにわに髪をほどいた。髪をかき分けた中から現れたのはなんと大きなもう一つの口だった。女房はその口に次々と握り飯を放り込み、ものすごい勢いで味噌汁を流し込む。女房の正体は山姥だったのだ。
その光景にびっくり仰天した男はうっかり物音をたててしまい、山姥に見つかってしまう。男は捕まり危うく食われそうになるが、何とか命からがら逃げのびた。


子供の頃から知っている話であるが、「ケチもほどほどに」というよくある教訓話の一つとして、特に興味を引かれることもなかった。それが昨日、「この話は、もしかすると男の人たちの猥談から生まれたものかもしれない」ということを突如ひらめき、興味を新たにした。

昔話や伝承というものは今でこそ子供の読み物のような扱いだが、そういった物語が最初に生まれた場所というのが大人たちが作業の合間や寄り合いで交わす雑談の中であったことも多かったのではないだろうか。
この「毛の中に覗く唇」のイメージ、ここから性的なものを連想するのは男性にとっては容易なのではないか、と思ったのだ。女は自分のものをまじまじと見る機会はあまりないから、こんな話を思いつくとすれば見慣れている男たちだろうと。…まったくの見当違いの可能性もあるけれど。

そんなことを考えていたら、ちょっと創作欲が刺激されたので、飯食わぬ女房のイラストを描いてみた。構図も考えずにボールペン一発描きなので、いろいろおかしい--特に頭の上の唇が斜めになっているのが気になる--が、顔が気に入っているので、今のところは描き直しはしないでおく。(でも、そのうち描き直して水彩で着色したい。)

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note にこんな文章やイラストを載せはするけれど、私は実生活ではかなり堅い。
私のような女性は日本には割と多そうだが、この性に対する過度の羞恥心や消極性はいったい何が原因なんだろう?
私個人について推測すれば、ファザコンであるがために父への裏切りという深層心理が働くのかもしれないし、身持ちの固い女や恥じらう女の方が男性受けがいいという文化への過剰適応の結果かもしれない。
でも、これは不健全で不幸せなことだと感じている。その思いは民俗学者、宮本常一(みやもと・つねいち)さんの『忘れられた日本人』(岩波文庫)を読んだとき、より強くなった。

『忘れられた日本人』は彼が昭和の初期から中期にかけて日本全国の村々を訪ね歩き、それぞれの土地のお年寄りから聞き取った若い頃の暮らしぶりや体験談をまとめたものだ
昔の農村はエンターテイメントがほとんどなかったというのが大きな理由と思われるが、性の話は人々の日々の雑談の大きな部分を占めていた。そして、それは賑やかに交わされるもので、決して声をひそめなければならないような日陰の話題ではなかった。

昔の農村の、特に女性のおおらかな性というものが伝わる部分を一か所抜粋する。

 「わしゃ足が大けえてのう、十文三分をはくんじゃが......」「足の大けえもんは穴も大けえちうが......」「ありゃ、あがいなことを、わしらあんまり大けえないで」「なあに、足あとの穴が大けえって言うとるのよ」「穴が大けえと、埋めるのに骨がおれるけに」「よっぽど元気のええ男でないとよう埋めまいて......」「またあがいなことを......」
 これも田を植えながらの早乙女たちの話である。植縄をひいて正条植をするようになって田植歌が止んだ。田植歌が止んだからと言ってだまって植えるわけではない。たえずしゃべっている。その話のほとんどがこんな話である。
 「この頃は田の神様も面白うなかろうのう」「なしてや......」「みんなモンペをはいて田植するようになったで」「へえ?」「田植ちうもんはシンキなもんで、なかなかハカが行きはせんので、田の神様を喜ばして、田植を手伝ってもうたもんじゃちうに」「そうじゃろうか?」「そうといの、モンペをはかずにへこ(腰巻)だけじゃと下から丸見えじゃろうが田の神さまがニンマリニンマリして......」
(略)
 こうした話が際限なくつづく。
(略)
 私は毎年の田植をたのしみにしているのである。そこで話される話は去年の話のくりかえされる事もあるが、そうでない話の方が多い。声をひそめてはなさねばならぬような事もあるが、隣合った二人でひそひそはなしていると「ひそひそ話は罪つくり」と誰かが言う。エロ話も公然と話されるものでないとこうしたところでは話されない。それだけに話そのものは健康である。そのなかには自分の体験もまじっている。
 このような話は戦前も戦後もかわりなくはなされている。性の話が禁断であった時代にも農民のとくに女たちの世界ではこのような話もごく自然にはなされていた。
(略)
無論、性の話がここまで来るには長い歴史があった。そしてこうした話を通して男への批判力を獲得したのである。エロ話の上手な女の多くが愛夫家であるのもおもしろい。女たちのエロばなしの明るい世界は女たちが幸福である事を意味している。したがって女たちのすべてのエロ話がこのようにあるというのではない。
 女たちのはなしをきいていてエロ話がいけないのではなく、エロ話をゆがめている何ものかがいけないのだとしみじみ思うのである。(宮本常一『忘れられた日本人』より)


この素朴な性の在り方がちょっとうらやましい。

そして、最後の一文は現代に通用する指摘だと思う。
日本は他国と比較してセックスレス夫婦が多く、独身者も淡泊な傾向にあるらしい。しかし、ネットでポルノを視聴する人は山ほどいて、アダルトコミックや官能小説なども男性向け・女性向け(BL含む)ともに巷に溢れている印象だ。「Hentai (変態)」は極度に性的な日本製アニメを指す言葉として海外にまで鳴り響いているという話も聞く。性欲はあるのに、それが生身の人間相手に素直な形で向かわないというのは確かに何かがゆがんでいるのだと思う。それが何かは私には分からないが。


それから、この記事の本筋から逸れるので簡単な紹介だけに留めるが、本書の「村の寄りあい」という章はジェンダー問題に関心がある人には特に読む価値があると思う。
「男女で分けることはすべて悪」というのが世の流れに見える昨今だが、はたしてそれが正しいのかと考えさせられる内容だ。女だけのつながりや寄り合いといったものが、男女問題の目立たない解決法や暮らしの知恵などを伝承する場として機能し、それがいかに狭い村社会をスムーズに回す助けになってきたかという実例が示されている。もちろん地域によるのだが、少なくともそれが上手くいっていた女の社会には、陰口やイジメが横行していたり、ボスママがどうのなどという現代の幼稚なママ友社会などとは似ても似つかない成熟したものが感じられる。


「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」という言葉があるが、まさに宮本さんのこの本はページを繰るごとに発見の連続だった。数か所引用して紹介しようにも取捨選択が不可能と思えるほど、どの部分も興味深く示唆に富んでいる。
未読の方は、ぜひこの機会にどうぞ。
(付け加えておくと、巻末の解説は私が好きな歴史学者の網野善彦さんが書いている。ちなみに、網野さんには『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』(岩波現代文庫/岩波書店)という著書もある。)

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ありがたくいただきます。