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【475】論破より籠絡を!

人を「論破」することが流行りなのでしょうか、私にはよくわかりませんが、以前にも増して、「論破」という語を見ることが増えたように思われます。

私はさして好戦的な人間ではないつもりですし(傍からどう見えていても、そういう自覚を持っています)、「論破」と聞くとちょっと「ん?」と思ってしまうところがあります。「論破」なんかしてどうするのかな、と。


もちろん論破を行う側にも、それなりの戦略や目的や快楽があるのでしょう。そもそも(私にはよくわからないにせよ)「勝利」の美酒を舐めることや、儚いポジションをとったりすることが目的なら、「論破」にも価値はありそうなものです。

ただ、仮に議論ということが問題になるなら、一方が「論破」を目指している限り、まともな、建設的な議論は成立しません。攻撃的な応酬がもたらされるくらいでしょうし、疲弊するばかりです。

もちろん、そうしたやりとりの中でこそ生き生きと輝く人もあるのですし、それはそれで個々人の性質というか生き方の問題ですから、私が良いの悪いのを問題にする必要はまったくありません。そうしたやりとりには(私が理解し賛同するかはわからないにせよ)固有の意義があるはずです。

しかし少なくとも、「論破」するということを目的や結果とするやりとりは、発展性のある議論とは異なる何かです。

そもそも「論破」がさしあたりの目的になってしまうときには、自分の能力や知識に対する信頼と(これは過信になりうる)、相手の能力や知識に対する侮りが入ってしまうわけで、よりよい結論を探すことは特段目的にならないわけです(せいぜい自分の見解を押し通したい、ということになるのでしょう)。「論破」しようという態度が現実に対して持ちうる反照は、空疎なパワーゲーム以上のものではありません(それが良いのなら、それで良いのだとも思います)。

相手の主張がダメで、しかし力があって、拡散されるべきでもない、と考えるなら、すべきは「論破」というよりは主張内容を適切に切り分けて批判する作業かと思われますし、そのとき、相手の主張の全体を否定する・破る、ということは問題になりません。ほとんどの場合、白黒を付けても何もいいことがありません。

ダメで力がない、そんな言説については、ダンテが召喚するウェルギリウスの顰に倣って「ただ見て過ぎよ」ということになるでしょう。関わるだけ無駄です。

何も意味がなく無価値・有害でしかない主張は現実的には稀で、大抵の場合はどこかしらいいものを持っているのですから、関わる価値のある相手と建設的にやりたいのであれば、「論破」ではなく、お互いの主張や立論の意義を引き出しあう姿勢が必要になりそうなものです。

——競技ディベートは或る種「論破」することを目的にしますし、勝敗をつけますが、これはあくまでも競技、スポーツであって、実際の議論では論破することも、個々の意見のき勝敗もほとんど無意味です(現実の議論で誰かの意見が採用され、別の意見がしりぞけられるということがあっても、それは各々の勝利のためではなく、全体がトータルで成果を上げるためのものです)。良識ある競技ディベーターなら、この点ははっきりと心得ているはずです。


もちろん、「論破」でよい場面もあることでしょう。

「論破」は、一個の手段としてはアリです。たとえば会議の場などで、対抗する意見を封殺するために「論破」するということはありうるでしょう。全員の目の前でぐうのねも出ないほどに論理で叩きのめして放逐してしまえば、もうその人からの反発は出てこないでしょうし、これはひょっとすると、組織運営において有効なことかもしれません。

論理的であるがゆえに決して抵抗できない、という雰囲気を醸成することで或る種磁場を曲げてしまう、ということはありうる選択ですし、外部に説明可能なかたちでまっとうに意思決定しましょうね、という土壌をつくるためにも必要な面はあるでしょう。

以前関わっていた企業でも、採用試験において極めて不透明なかたちで——採用試験の答案を受験者に横流しするというかたちで——コネ採用が行なわれていたところ、当時の上司が明確に暴いて理路整然と糾弾し、その下手人を左遷に追い込んだという事例があります。誰の目にも明らかな不正を行う人間は信用できませんし、その信用のできなさというものははっきり明るみに出して、二度と一緒に仕事をしなくても済むように叩いておく、という場面も(なければないほうがよいにせよ)あるでしょう。こうした場合には四の五の言っている場合ではなく、早急に白黒をつける必要があります。端的に言えばここには見せしめの意図もありました。

これが極端な場面であるとして、しかしもっとマイルドな意思決定にあっても、冷徹さは大切にしたほうがよいのですし、合理的でない意思決定が通るすればそれは大問題ですから、「論破」的なモメントはどうしても入り込むかもしれません。ナアナアにしてはいけない、ということは言えます。

決定は必ず不合理性を含むのですし、「えいや」で決める部分が必ず出てくるのですが(そして遅すぎる決断よりは早すぎる決断のほうが良いのですが)、サウンドな意思決定のためには前段となる熟慮を一定程度詰める作業が必要になります。そのためには、自分や相手の見解が仮に穴だらけで或ると知らば、そこを正確に突きつくし突きつくされる覚悟が必要になる、「論破」し「論破」される覚悟や態度が要るということです。あるいは論理のレヴェルでのやり取りが互いの信頼を毀損しない、という程度の信頼関係の構築が前段として必要になります。

自分が意味のない理屈に流されていないか、(狭い意味で)無益なことを考慮に入れていないか、あるいは(広い意味で)有益であるはずのことを考えずに放置していないか、ということには、十分に注意を払う必要があるでしょう。

口をつぐむよりは、徹底的に相手を殴ったほうがよい、という場合も場面も、ことによってはあるのかもしれませんし、そうして叩きのめされる覚悟というものは、とりわけ自分が愚かであるという場合によっては全うな前提を持っているのならばなおさらです。叩きあえる覚悟、「論破」しあえる信頼があるとすれば、それはよいことかもしれません。


そんな健全な「論破」ならともかく、目についてしまう範囲で「論破」を図る人々がそういうものに見えるかと言えば、そうではありません。上に見たように建設的に見えない(そもそも建設的であることを目指していないように見える)、ということでもあります。

あるいは、「論破」は(内容はともかく、形式として)不合理ないしは(理が無いという意味で)無理なものですらあります。

なにせ、人間が理屈で動くというのは嘘っぱちです。実際には、徹底的に議論を進めて意思決定を行う、ということを貫徹できる人や組織は稀ですし、自分が持ち寄っている意見に愛着を持ってしまっているがゆえに、自分の意見に反対した人を仇敵のごとく憎む人すらある、という有様です。

主張の内容と主張者の人格を切り離すという建前が(恐らくは大学で論文やレポートを書く前に、教員から口を酸っぱくして)言われるのも、そうした建前は繰り返し強調しなければ「本音」の前に容易く滅ぼされてしまうからです。建前というフィクションは大切に守り抜かなくてはなりませんが、本音という現実を鋭く意識していなければそれこそフィクションは完全な虚構になってしまいます。

人を「論破」しようという人は、こうした避けがたい事実を踏まえずに、フィクション=建前の論理を現実に過度に適用している可能性がないでしょうか。こうした事実、つまり人は建前通り冷徹に論理的に動くことはできない、ということを踏まえずに建前を振りかざす態度があるとすれば、それこそ合理性を欠いてはいないでしょうか。(しかも勝ち負けをつけようとするなら、なおさら私には意味がわからない。)

自分が建前を保持しつづける、という覚悟があるとして、その覚悟はなるほど立派なものです。「論破」をしようという方向に意識が向いてしまう人も、実はこうした高潔さ・潔癖さゆえにそうしているのかもしれません。しかし、建前を共有しない、あるいは同じ強度で共有してくれない人ばかりかもしれないのですから、そちらに「下りていく」ような意識を持つことが、「合理的」ではないでしょうか。いやしくも相手と関わろうとするのであれば。

もちろん、建前を守ろうとする意志すら持たない人——言ってしまえば、理屈をまったく聞くことができない人——を手放しに受け入れるべきかといえば、それは違います。ほんとうに建設的な・論理的にサウンドな議論を行いたい場合、感情的な(というより野獣的な)態度しかとることのできない人は、意思決定の場から慎重に排除する必要がありますし、そんな人間と建設的な議論をすることは難しい、というのは尤もです。

しかし実際には、そこまで極端な人は稀ですし、そもそもある人間がどの程度合理的であるかということを判断する私たち自身の目さえもおおいに狂っている可能性があるのです。であれば、「そういうもんだ」と思ってかかるのがよいのではないでしょうか。

なるほど相手が論理的な議論に乗ってこない・乗ることができないのは、もちろん悪いことかもしれません。しかし、自分が人様のこととを言えるほどに首尾一貫した考えを展開できるのか、ということを振り返ってみるとき、そして自らの「論破」のプロジェクトが首尾一貫した目的に沿って展開されうるのかを考えてみたとき、殊によっては、「論破」への意志そのものが不合理であることに気づくのではないでしょうか。


「論破」しようとする態度は、先に見たように、或る種の(競技ディベートのように)虚構的な舞台設定において初めて、ゲームにおけるルールを共有していて初めて、特有の意義を持ちます。プロレスのようなものです。なるほどプロレスにおいて鍛えた筋肉や運動神経は、もちろん実戦で使える場面もあるかもしれません。

しかし、生活においては、実戦を行わないのが最強に決まっています。

国家間の武力戦争もあくまでも最後の手段であって、外交の延長ですし、外交が失敗するから武力に訴えるのです(ということはクラウゼヴィッツを引くまでもありません)。戦争になった時点で負け、と言っても過言ではないでしょう。

現実なら、前触れなしに他の国にミサイルを打ち込んだらはっきり非難されることでしょう。しかし人間関係だと、人を捕まえては「論破」するような人は、おそらく知らぬ間に遠ざけられて、いつの間にか孤立することになるのではないでしょうか。それは、あまりよくないシナリオです。(もちろん、論破を或る種芸にしてしまう、ということは可能ですし、そこにおいてこそ楽しく生きられる人もいるかもしれませんが、多くの人にとって現実的であるのかどうか、私にはちょっとわかりません。)


不合理な感情を出しまくろう、と言っているのではありません。不合理な感情に合わせて論理を曲げたほうがよいと言っているのでもありません。「論破」すれば終わりという態度は、ほんとうに「論破」すること、戦って負かすことが目的と結びつくならともかく、大方不合理で自滅的ですらあるのではないか、ということです。

当座の議論においてよりよい決定を得たいなら、上でも見たように、「論破」の果実はあまり大きくありません(というより「論破」を目的にすると議論になりません)。複数の主張の良い部分を採用したり、混ぜ合わせたり、あるいは単純化したりすればよい話で、勝敗ということは特にないはずです。相手を自論のほうへと誘導したいなら、「論破」よりは、言語を弄した説得、ないしは陥ったことにすら気づかない罠を仕掛ける、そうした「籠絡」のほうがエレガントで、禍根も残さないことでしょう。困難ではあるかもしれませんが。


どうでもいいことを言っている連中は、単に無視すればよい。

相手に何らかの態度をとってもらいたいときには、論破するよりも籠絡すること、雑駁に言えば理屈の前に感情にするりと入り込むこと、を目指してみればいい。

……「論破よりも(無視あるいは)籠絡を!」を標語として、やってみたいものです。

読まれている方に置かれましても、現実はディベートではないからには、ディベートとして現実を消費したい方は別として、華々しい「論破」よりもよい道はどのようなものであるか、考えてみるというのはいかがでしょうか。