【238】型を無視する愚を説くフランスの作曲家の言葉

(今日は下のほうにフランス語演習がありますが、飛ばしていただいても問題ありません。)

「型破り」とか、「型無し」とか色々な言葉がありますが、私が「型」を重視しがちな人間であることを脇に置くとしても、どうやら「型」より実質が大切だという(それ自体は極めてまっとうな)考えが行き過ぎると、型など学ばなくても良い、というは発想に陥ることがあるようです。

とはいえもちろん、型は大事なのです。それがいずれ破られうるにせよ、極めて重要なのです。

今日はそんなことについて。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


大いに誤解されている面もあるのかもしれませんが、音楽——私の知る範囲で言えば、特にクラシック音楽——は、個々人の自由な感性に委ねうる範囲が思いのほか小さい、と言ってもよいかもしれません。

もちろん耳にして楽しむだけならそれでよいのでしょうし、誰も文句はつけないのですが、理論に基づいて技術的に構築されたものとして曲を捉えられるようになると、音源やコンサートの楽しみ方もおおいに豊かになるでしょう。

それに、殆ど客観的に評価しうる巧拙というものは(相当高いレベルにならなければ)確実にあるわけですし、楽器をやっていた(やっている)人であればそれは確実に聴き分けられるもので、そうした聴き分けの作業もまた、楽しみに含めてよいものでしょう。


作ったり演奏したりする側ともなれば、知識や規則というものはいっそう大切です。

もちろん「気持ちいいものができればそれでよい」ということは言えるのでしょうが、フリーハンドで・直感に従って「気持ちいい」ものに効果的に到達できると考えるとすれば、そうした考えは自らの感性や直感に対する過信と紙一重ではないでしょうか。

ワインの味の分析も、舌と言葉を用いた或る種のリジッドな教育によって初めて身につくものです。言葉でつくられた共同幻想だ、と見る向きもあるかもしれませんし、(音楽においても)そうした側面がまったくないとは思いませんが、それでも人間が何百年もつちかってきた「感性」に関する芸術=技術の理論化のプロセスが、無意味で無価値だと考えるのは早計でしょう。

感性的実践の領域における理論や規則は、さしあたって信じておいて、あとから離れるところは然るべく離れる、そうした守破離の守として(徹底的に!)学ばれることになるということです。

人間の身体は数百年単位ではそれほど変わらないからこそ、音楽という、最終的に成果物が感性的なものとして表現され享受されることを期待されるタイプの芸術であっても、一定の画一性を持った教育が成立しうるのではないか、と考えてみるのもよいのかもしれません。


音楽のいわば技術的な側面!

ラテン語であればまさに、「芸術」に対応するのは、「技術」とも解釈しうる場面が多いarsです。西洋諸語にもこの重なりは保存されます(たとえば現代では「教養科目」などと訳される「自由学芸(liberal arts)」に見られる如く)。ドイツ語ではKunstですが、この語もまた、「芸術」とも「技術」とも訳しうるものです。

……寧ろ日本語であっても、そもそも「芸術」と「技術」の間に下手な線引きをするのがおかしな話なのかもしれません。どちらも練習が必要であるとすれば、どちらにも教授可能な部分が大いにあるのです。無論、どちらにおいても「カンの良さ」のようなものは成立するかもしれませんが、だからといって型や理論が無駄になるということはないでしょう。


たとえばノコギリの挽き方、 釘の打ち方、図面の書き方といった大工の技術(ars)に、個々人の生来の「センス」や「直感」を期待する者はあまり多くない、と言ってよいと思います。

音楽にも近い部分はあり、演奏(とその基礎にある楽譜の解釈)は相当に技術的なものですし、作編曲もまた、発想の点で技術に還元しがたい個々人のストック作りが必要であるにせよ、具体的な作業においては「技術」的で、教科書的な部分はかなりあります。

もちろんこれは、個々人が(ときに基礎に反する)独自の技術を編み出して用いることを妨げません。

とはいえ基本・規則はおおいに教授可能であって、教えることで効率的に土台を身につけられる、というなりゆきです。だからこそ音大には「作曲科」で作曲を技術的に教える伝統があるのですし、理論研究の場として「楽理科」があるのです。いや、そもそも音楽という感性的と言ってよいものに関して教育が成立するのです。


実にこうした事情は、音楽理論の教科書において頻繁に言及されます。結局のところ気持ちよければよい領域であるということが確実であるからこそ、理論書においてはあえて規則・規律の重要性が説かれる、とみてもよいのかもしれません。

(当然と言えば当然ですが、そもそも理論が重要であることを説く傾向は、アウトプットも当座論理的なものになる語学などの教科書にはあまり見られない傾向ですね。)

この観点からすると、20世紀のパリ音楽院で作曲を講じたジャン・ガロンの次の言葉——ある和声法の教科書の序文の一部——は実に啓発的です。

訳したい方はどうぞ訳してみてください。訳はもちろん下に載せておくので、フランス語など読むつもりはないという方は、どうぞ飛ばして、訳を見ていただければと思います。

Seuls les musiciens instruits de leur art peuvent se permettre des licences, et ces licences seront d’autant les bienvenues que leur auteur aura été soumis, au cours de ses études, aux disciplines qui font que l’œuvre la plus librement écrite reste ordonnée.

(Jean Gallon, « Préface » à Marcel Bitsch, Précis d’harmonie tonale, Paris, Alphonse Leduc, 1953, p.III)


語彙:
licence(s):英語でも多義語だがフランス語だと一層目立つ。良くも悪くも拘束から解かれることが中核的な意味で、たとえば動詞形licencierは専ら「解雇する」意味である。「学士号(を取得するための3年の課程)」もlicenceで、使用頻度ではこれが最も有力な意味。英語の「ライセンス」的意味もなくはない。ここでは「放縦」「破格」等の意味で、discipline(s)と対比される。

leur auteur : (行為などを)なす人のこと。「著者」ではないこともおおいにある語。放火犯やテロリストについても、実行犯かどうかを問わず犯人のことをauteurと言う。ここではlicences「破格」に訴える人のこと。

au cours de:機械的に「〜の間に」とする前に立ち止まったほうが実りがある(「〜の間に」がダメだとは言わない)。特にpendant及びdurantとの差は確認してもよい。ここでは、副詞句として修飾している対象であるaura été soumisがあからさまに未来完了であり(無変化の状態をも表しうるsera soumisですらなく、変化を含意させる意図が明白であり)、また教科書の序文であり、直前では現在形を用いていることもあるので、学んでいくことで然るべく変化する、という内容が前提されていると解釈した。

l’œuvre la plus [...]:「〜でさえも」の意味を含む最上級表現。


試訳は次の通りです。

「自らの(音楽という)技術に習熟した音楽家のみが、敢えて破格(licences)に訴えうるのであって、これらの破格が歓迎されるものとなるのは、破格に訴える者が自らの訓練を積むうちに、極めて自由に書かれた作品ですらも変わらず秩序だったものとする諸々の規律に服することになるからこそである。」



この引用が述べるのは、「最初は型を守ろう」ということであり、「型を学ばないのは型破りでなく単なる型無しだよ」ということであり、守破離ですよということであり、「『まなぶ』ことは『まねぶ』こと」なのであり、……ともかく、最初は広い意味での「規律」をしっかり学んで習熟して、その後でこそ破っていきましょう、そうすれば破ってもしっかりとしたものができますよ、ということです。

もちろんこれは、主体的な態度を手放して無思考になれ、ということではありません。寧ろ逆で、自ら積極的に規律を引き受けてきちんと内面化しましょう、ということです。実に、然るべき規律を拒絶するタイプの「主体的な態度」は、将来ロケットを飛ばしたいのに「算数が何の役に立つんだよ!」と叫ぶようなものですし、あるいは目隠しをしてマラソンに挑むようなものです。

きちんと守るべき規則・規律を守る訓練を積んで、それが体に
染み付いて初めて、あえて破りどころを見つけてゆけるようになり、部分的に規則を無視しても全体のエコノミーを崩壊させずに、「型無し」にならずに進んでゆける、というなりゆきです。


音楽においてもこうなのですし、皆さんがもっと感性的でない、あるいは理論的に分析することができそうな領域に生きていらっしゃるのであれば、先行者や「教科書」のようなものを頑張って真似て、体に染み込ませることから始めてもよいのではないでしょうか。

あるいは、先行者や「教科書」や理論が見えてくるところまで、問題や必要な能力を腑分けして、大いに理屈っぽく学んでみてもよいのではないでしょうか。

文学作品を読むという場合もそうです。短歌や俳句やその他の形式の韻文を作るという場合もそうです。大学受験で然るべきところに合格したいという場合もそうです。外国語を身に着けたい場合もそうです。金を稼ぎたいのであっても、人生をオーガナイズするという場合であっても、そうでしょう。

理論や型や規律のないところでいくら頑張ってみても、特に経験が浅ければ、何も導きがない状態で沖合に放り出されるようなものです。ダンテのように暗き森の中に迷うようなものです。

であれば、灯台の明かりや確たる航路を持った船を、また声をかけ手を引いてくれる(人であれ本であれ)水先案内人を見つけるのが、第一歩になるのではないでしょうか。

……そうしたご提案でした。


・感性的に見える領域にあってすら、理論ないし型の類は極めて重要である。

・まして感性的でないと言いうる、つまり殆どの領域において、理論ないし型を叩き込む作業は極めて重要ではなかろうか。

・であれば、自分の生きる場において有用な型を、理論を探し出してそれをさしあたって守り抜く努力が、是非とも求められるのではないだろうか。その後にこそ独自性が花開く(ないし、花開かざるをえない)のではないだろうか。

この記事が参加している募集