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【531】フランス語中級者のためのモンテーニュとたまねぎ

ミシェル・ド・モンテーニュの名を聞いたことがある人は少なくないと思います。世界史の教科書にすら出てくるビッグネームですし、彼の『随想録(Essais)』は、実際に読むと骨が折れるとは言っても、枕元において少しずつ読むと豊かになるタイプのテクストです。  

(なお、フランス語初修の段階でモンテーニュを読もうと思うと爆死します。フランスの学生すら現代フランス語訳を要するテクストですし、そのハードルを乗り越えてもなおラテン語やギリシャ語からの猛烈な引用を解読するプロセスが必要となります。もちろんそれらをすっ飛ばすのはよいのですが、一定以上の水準で読むためには実に複雑な手続きが必要になる、ということです。)

「モンテーニュ、モンテーニュ」と言っていると見失いがちですが、フランス語の人名は、姓はなんらか意味を持った語であることが多く、名は聖書に由来することがほとんどです(別にフランス語に限りませんが)。

「ミシェル」はいい。 英語のマイケルと同じく、聖書に出てくる大天使ミカエルに由来します。もちろんミカエルは「神に呼ばれる」意味の ヘブライ語から来ています。

では「モンテーニュ」は? Montaigneというスペルを見ていると、フランス語を少し勉強したことのある人なら、「惜しい」と思うのですね。何が惜しいのかと言えば「i」がなければ、現代フランス語のmontagne「山」と同じになるのです。iのないmontagneは「モンターニュ」と読みます。-ai-は概ね「エ」、-a-は概ね「ア」になるということです。

で、 この辺をちょっと突っ込んで調べてみると、Montaigneというスペルの語はもともと「山」を意味していることがわかります。中世フランス語辞典など弾けば一発です。しかも「モンテーニュ」でなく本来は「モンターニュ」と読むものだ、という主張があるのですね(cf.Jean-Marie Pierret, Phonétique historique du français et notions de phonétique générale, Peeters, Louvain-la-Neuve, 1994, p. 102)。


とかく母音+gnというつづりは色々に問題を発生させます。

たとえば「玉ねぎ」を意味するoignonという単語があります。フランス語を勉強されている方は、発音してみてください。

……

はい、敢えてカタカナで書くなら「オニョン」ですね。フランス語ではoiを/wa/「ォワ」と読む規則になっています。しかし、oignonという語は例外で、/ɔ/「オ」と読みます。この点、『プチ・ロワイヤル』程度のフランス語辞典でも注意をうながされる例外です。

間違えたら、あたかも「生まれる前から知っていました」みたいな澄まし顔をして叩き込めばよいのですし、知っていたらやはり「生まれる前から知っていました」みたいな顔をしていればよいのです。

音写はもちろんどのようなものであれ正確ではありませんが、「オ」と「ォワ」は決定的に違うのでしょうし、。「鳥」を意味するoiseauはだいたい「ォワゾ」です。

oignonは「ォワニョン」ではありません。/ɔɲõ/つまり「オニョン」です。oignonのoiは「ォワ」ではなく例外的に//「オ」と読むのです。「ォワニョン」などと発音したらオワリだニョン、と言っている知人がおり、それが面白いかどうかはともかく、「ォワニョン」というのは少なくとも現代フランス語においては正しい発音ではありません。

例外であるがゆえに、外国語としてフランス語を学んでいる人は間違えやすいようです。

Wikipediaの「オニオンスープ」の項目を知人に言われて確認したところでは、「フランスのスーパ・ロワニョン(フランス語: soupe à l’oignon)は(…)」というヤバい誤謬がありました。enchaînementが生じて「スーパ」となるのはまだわかるのですが、l’oignonは「ロニョン」であり、これは誤りです。


この例外に関して、近年の正書法策定の試みのなかで、発音に近いognonというスペルも認めましょう、という動きがありました。もちろんognonなんてスペルを使っているフランス人は私の知る限りひひとりもいませんが、ともかく例外は嫌われるということです。

oignon-ognonについてはアカデミー・フランセーズのページに寄せられた次の記事が面白いところです。

https://www.academie-francaise.fr/eloge-de-loignon

要するに、時を経てoignonも(発音に合わせて)ognonというスペルになっていくかもしれないが、音と一致していないからといってスペルのほうを無理くりあわせることには反対だ、と言っています。

この点に関して、実際に-oign-というスペルを持っていながら/w/の音を持たず/ɔɲ/と読むものであった語のスペルが変わっていった例が示されます(正確に言えば上で見たmontaigneという語も引いていますから、-ign-ですが)。besogne「労苦」やrognon「(主に食用の)腎臓」です。

besogneのほうだけ(記事に付け足しつつ)見てみましょう。中世フランス語辞典を引くとbesoigneというスペルが出てきますが、ここからは2つのビミョーに(しかしおおいに)異なる語が出てきます。一方は/w/の発音を保存しつつgn/ɲ/という音をカットしたbesoin(あえて音写するなら「ブゾワン」)で、他方は/ɔɲ/という音を保存しつつ誤解を招きかねないiが落ちたbesogneです(あえて音写するなら「ブゾニュ」)。

とかくgnの周りでは問題が生じてきたんだな、その文脈の中にoignonという語もあるのだな、ということが窺われるようですね。

(20世紀後半からしばしば繰り返されているこの種の正書法確定の試みは概ね失敗しています。たとえばéとèの音韻上の違いは、原則的には閉口音であるか開口音であるか、ですが、événementという語は(位置の都合から)第1のéを閉口音で、第2のèを開口音で発音します。これが嫌だと言うのでévènementというスペルが認められたわけですが、感覚としては使っている人はほとんどいません。)


フランス語は英語に比べれば発音上の例外は少ないのですが、それでも例外はおおいにあります。語末の子音を読むかどうかは、気合と感覚で覚えてくださいというほかありませんし、これは学び始めて1日としないうちに出てくる事項ですが、いろいろ読んでいくうちに出てくる、ちょっと手の混んだ例外もあります。その例を上で見ました。

ほかにも色々ありますよ。

taon「あぶ」やpaon「孔雀」に見られるように、-aonは鼻母音/ɑ̃/になるとか(「アオン」ではない)。

あとはlinguisitiqueなどのguiは「ギュイ」であって、guimauve「ギモーヴ」(マシュマロのこと)のように「ギ」にはならないとか。équationなどのquaは「クワ」であってqu’à「カ」にはならない、とか。もっともこれも「エリジオン(※単純に言えば2語のアポストロフを解した結合)が生じているときには『カ』で、そうでないなら『クワ』なんだな」というわけではありません。quadrantは/ka-dʀɑ̃/であってquadrangleは/kwa-dʀɑ̃ːɡl/です。覚えましょうということです。

équi-はもっとヤバく、équilibreやéquinoxeのquiについては「キ」と読むのに対して、équiangleの-qui-は概ね/kɥi/「キュイ」です。幾何学や理学の範囲で・非日常的な語彙で用いられるときには「キュイ」になりやすいのです。この傾向が典型的に現れるのが、équitation「乗馬」とéquidés「ウマ科」の差です。前者はごく日常的な語で/ki/ですが、後者は日常的にはあまり使わない語で/kɥi/なのですね。


以上は例外と言えば例外ですし、例外に手を出す以前に規則的なことすら知らないようでは論外ですが、

ともかく例外は例外として身につけておく必要があり、その際に重要なのは、どこに例外が生じるか、という嗅覚を持つこと、そして感じ取ったものについては必ず調べることです。

今回見た例で言えば、とかくgnの周りでは問題が生じるんだな、ということを、besogneとかbesoinとかrognon-roignonとかの例から念頭においていれば、何かの機会に発音するときに「ん、これどうだったっけ?」などと思い返して調べることができるわけです。


基本は基本でしっかりと持つべきですが、何にせよ例外はあるわけで、基礎を概ね実装したら、例外を捉えるため枠組みもきちんと確保していきましょう、という話です。あるいは例外に立ち会うたびにそれを理解するためのフレームを構築・拡張・改変していく必要があるということですし、そのためには上に見たようなかたちで情報を繁茂させること(つまり節約せずになるべくたくさんの情報を確保すること)が有効になるでしょう。

(以上はもちろん、語学学習以外にも当然あてはまる、と言ってよいでしょう。学ぶときに力や情報の量を節約するのは、かえって不経済だということです。)