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【356】プレゼントの賭け/ギフトカードは或る種の機会損失

プレゼントとしてギフトカードの類を贈ることが多くの場合に時宜を得ないものとされ、ことによると忌避される、ということは概ね認めていただけることかと思われます。

私としても、プレゼントとしてギフトカードをもらうことがあれば、きっとなんだか味気ないと思うことでしょう。

今ではそんなに機会もなかなかないのかもしれませんが、贈る品物が慣習において儀礼化されて動かしがたい場合はともかく——ビンゴ大会が含まれるような宴席の商品としてギフトカードを渡される場合や、プロポーズのように高度に規範化された品物と文言の選択が問題となる場合や、結婚式の引き出物のように不特定多数を相手にせざるをえない場合です——、見知った知人や、もう少し親しい人から何かプライヴェートな折にギフトカードをプレゼントされたら、「あれ?」と思ってしまうかもしれません。それが特に親しい人であればなおさらです。

喜ばなくてはならないはずで、相手もきっと、こちらが好きに使えるようにとわたしてくれたものを、どうしてもありがたく思うことができない、あるいは心から喜び切ることができない、ということがありえます。

ここにはプレゼントに対する何かしらの期待が読み取られうると思われますし、それはいくつかの観点から説明することができそうです。

あくまでも限られた記述ですが、そんなことについて。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、「地味だけれどもあらゆる知的分野の実践に活かせる」ことを目する内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


ギフトカードを贈る側、ないし贈ろうとする側からしてみれば、相手の好みを、相手の欲望を正確に把握しているわけではないから、相手に好きなものを買ってもらおう、という全くの善意において、そうしたプレゼントの選択を行っているのかもしれません。

他方で、ギフトカードを贈られることがなんとなく時宜を得ない、と思う人からすれば、一番良いもの・一番適切なものをプレゼントしてくれるとことよりも、自分のために時間や労力を使って何がいいかを考えてくれることが良いのだ、ということ

つまり、貰うものそれ自体が良いか悪いかということよりは、プレゼントをくれる人が時間と時間と労力とときにはお金を使って、一生懸命に何をプレゼントしたら喜ぶかということ考えてくれる、そのように広い意味での愛を示してくれること自体が嬉しいのだから、その考えるプロセスを省略しないでほしい、という気持ちがあるのかもしれません。

ギフトカードは謂わば思考を放棄した、ディフェンシヴな態度に見えかねない、ということです。


ここにはひとつの極めて強固な前提があります。

あるいはそうした前提が見えるように書いたのですが、つまり貰う側は自分自身の欲望を誰よりもよく心得ている、という前提であり、それゆえ中身のことだけを考えればプレゼントには意味がないという前提であり(交換可能な金銭を渡せばよいことになる)、だからこそプレゼントを準備し渡すという行為それ自体に意味を見いだすことになる、という前提です。

こうした諸前提があるからこそ、選択を貰う側に委ねる、ということがそもそも成立しているという成り行きです。

なるほど多くの場合、というか殆どの場合、欲しいものがあって、それを納得ずくで買うわけで、私たちは自分が何を欲しているかということについて疑いを持つことすらないわけです。そうすると、プレゼントは謂わば答え合わせの営みですから、答えの適切さには意味がない、ということになりかねません。出題者は最も適切な答えを知っているのですから、答えが欲しくて問うていることにはならない、ということです。しぜん、答えようと試みること・隠蔽されたキモチを言い当てようとする所作にこそ意味がある、という論理になります。


これはこれでよいとして、同時に見過ごしてはならないのは、以下の事態であるように思われます。

——人は、自分の欲望をはっきり把握しているわけではないということ。だからこそ、予期せぬものに出会って心を動かされることがありうるということ、気づいていなかったとはいえこれが欲しかった、と思えるようなものに、思わぬところで出会うことがよくあるということ。

してみれば、特定のプレゼントを、つまり通常であれば交換することの難しい品物を贈るという選択は、いわば過程やその背後にある気持ちだけではなく、結果においてすら、不確実であるとはいえ、つまり避け難く賭けであるとはいえ、一定の効果を持ちうる、とは言えないでしょうか。

贈られた相手が予期することさえなかった、しかし贈られてみるととてもありがたくうれしかった、というようなプレゼントがありうる、ということです。

此の点、プレゼントを贈られる側に選択を委ねてしまうのは、贈られる側の世界を拡張する積極的な機会を、ある意味では与えずに終わる、ということになるのかもしれません。

言い換えるなら、プレゼントを受け取る機会というのは、自分でも分からない自分の欲望をプレゼントというかたちで言い当ててもらう絶好の機会であり、失敗に終わるかもしれないにせよ、少なくともその可能性が開かれているのです。


なるほどプレゼントについては、全く期待外れでしょうもない場合もあれば、自分の期待通りの自分が今一番欲しいと思っているものがドンピシャでプレゼントされる場合もあれば、全く予期していなかったけれどもよくよく考えてみたら欲しかったものが手に入る、ということもあるのでしょう。

このうち、自分が明確に欲しいと思っていたものを得る、というところまでであれば、あるいはその範囲に限って言うのであれば、ギフトカードを贈られることと全く物的帰結の点では変わりがないかもしれません(それこそ、贈答は一定の愛を感じさせるための儀礼になる、ということです)。

しかし、ここにはもちろん限界があります。ギフトカードを使って手に入るのは、自分が欲しいと認識できている限りのものでしかなく、予期すらしないものは決して手に入らない、つまり自分の深いところにある(かもしれない)欲望については触れる余地が与えられない、と言えます。

実にこの種の賭け、つまり予期せぬ良いものに触れさせることができるかもしれない、という意味の賭けは、もちろんおおいに失敗する可能性もあるものですし、意識されることすらないものでしょう。だからこそ、プレゼントそのものというよりは、その背後にはたらく選択や頑張りに目を向けることになります(し、それは実際ありがたいものかもしれません)。


実にそうした出会いがあるときにこそ、私たちはある倒錯したかたちで、大げさに言えば人生というものを束の間肯定するきっかけをつかめるのではないでしょうか。

私は基本的には人生は無意味だと確信していますし(これは意味がないということであって、負の意味があるということを、直接的には意味しません)、別に私自身の人生が他人から見て豊かどうかということとは全く関係なく、単純に悲観論者です。

それでも人から、また匿名の世界の側から、思いもかけないプレゼントを受け取ったときには、つまり自分の知り得る範囲のことを超えた、あるいは殆ど予期しなかった欲望の対象を贈られたときには、生きていることの喜びを束の間感じ取るような気分になるものです。あるいはそこまで言わずとも、世界へと私を縫い付けるひとつめの意味が束の間与えられたような気分になるものです。

それは例えば、ニコラ・プッサンの絵画を初めて見たときであり、例えばマティアス・ヘフスやハンス・ガンシュの奏でるトランペットの音色を聞いたときであり、例えば運命的になで肩であるのを羨ましがられたときのことであり、例えば藤堂志摩子、白銀リリィ、夏川真涼、傘木希美、綾倉聡子、フィロクテーテース、アンティゴネーといった作中人物に出会ったときのことである、と言えるでしょう。


蓋し予測された範囲のもの、欲しいとわかっいているものは、それなりに重要ではあってもあまり意味がなく決定的ではありえない、そういう感覚があるのですね。

寧ろ全く質的に予期したこともなかったようなものが、自分の認識のヴェールをわずかに切り裂いて侵入してくる、ないしはそうした裂け目から、世界や他者が私にかけがえのないものをもたらしてくれる、そういった瞬間こそが深い価値を持っているように思われる、というなりゆきです。

結局のところ、期待通りのものではつまらないのですし、(私にしてみれば)期待を単に量的に上回っているだけでは仕方がなく、寧ろ質的に決定的に異なるもの、しかし欲望を言い当てるものをプレゼントされたところで、ようやく心が大きく動くものです。

それは例えば、こう言っては反感を買うかもしれませんが、私が当然合格すると思って東京大学を受験して当然のように受かり、別にそれが何ら嬉しいことではなかった、ということに似ます。

さらに、質的に期待外れでありながら欲望を言い当てるものを与えられるとすれば、それは自分以上に自分を知る者がどこかにいる、ないしは自分の欲望を言い当てうるなにかしらのメカニズムがヴェールの向こうに控えている(ひょっとしたら明確に他者という姿をとっているかもしれない)、という事態は、まさしく相手の愛を感じさせることでしょう。


こちらが欲しいとわかっているものではなく(あるいはそうしたもののみならず)、欲しいと言っていない・欲しいと思ったこともないものを受け取って、欲望が賦活されるのを感じること。……

溶けるような幸福を生み出すのは、先ほど見たような世界からの贈与であって、実にそのように世界が賭けてくれているもの、あるいは人間が世界を介して私たちに賭けてくれているものに触れることこそが、深い意味での幸福につながるのかもしれませんし、そうした事態を招来するひとつのきっかけを与えることが、素朴な意味でのプレゼントのひとつの積極的な可能性なのかもしれません。答え合わせにとどまらない可能性、欲望を明るみに出す可能性。 ……

ギフトカードなどでない、交換の連鎖の(さしあたっての)終極にある特定の品をプレゼントする所作は、もちろんその品を懸命に選ぶ過程があったと想像させる限りで、相手に自らの愛を顕示し、それゆえにこそ快楽をもたらす、という効果ももちろんあるにせよ、選ばれた贈られた品物のほうこそが良い意味で「期待外れ」であり、潜在的だった欲望を明るみに出してくれる、世界を拡張してくれるようなものであるという、積極的な事態も実にありうる、ということでした。

そうした可能性を駆動させる仕掛けとしてプレゼントをとらえてみるのも良いと思われます。

■【まとめ】
・プレゼントが単なる「答え合わせ」であるとすれば、つまり何が欲しいかということに関する知を贈られる当人がいちばん正しく持っている、という前提に立てば、贈られるものそれ自体よりも、贈る行為とそのための準備や感情にこそ価値が認められる、というのはしぜんである。プレゼントの賭けのオッズは低くてもよく、賭けているという所作そのものが愛を顕示する点で有効だ、というなりゆきである。

・ただし、予期せぬものを与えられて、潜在的な欲望が明るみに出される場合も十分にありうる。そんなことを一度も思ったことがないのに、「そうそう、これが欲しかったんだよ」と思われうる、意想外の価値を手渡すことで相手の再帰的認識を強化する、ということである。プレゼントにはこうした積極的な価値もある、と考えることができる。