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【374】「人それぞれ」の功罪

何かにつけて「人それぞれ」だと思っておくことは、余計な思考の手間や諍いを回避するために、そして自分が集中すべきことにのみ集中するために一定の効果を持つ方策ですが、もちろんこうした方策には悪い面もあり、そのどちらも見たうえで態度を決定することが求められるでしょう。

あるいは、「人それぞれ」だとすることが態度を決定しないという決定に基づいているからには、目下の問題は原決定(Ur-entscheidung)の問題に関わる、と言っいてもよいかもしれません。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、「地味だけれどもあらゆる知的分野の実践に活かせる」ことを目する内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


「人それぞれ」だと言って片付けられることの多い問題は、もちろんいくつもあります。

人生観だとか、仕事やお金に対する物の見方だとか、あるいは政治的な主義主張だとか。

自分がその問題に対して何の関心も持っていないのであれば「人それぞれ」でも良いのかもしれませんが、実に自分がある程度重要だと思う領域に関して、自分とは異なる考え方を持っている人間がいるということが際立つ場合には、「人それぞれ」だ、というのはある種の逃げの性質を持ちます。

もちろん、逃げてはいけないということではありませんが、自分と異なる発想を持った人間や見解があったときに、それを「人それぞれ」だよねと言って放置して通ることができない、あるいはそうしないほうがよい場面も、おおいにあるのではないでしょうか。

もちろん対立する相手を常に全力で叩き潰すべきだということではなくて、少なくとも「人それぞれ」だなどと嘯いて素知らぬ顔をするより先に、少なくとも自分の心の中で一定の批判を戦わせる、つまり結局口では「人それぞれ」だと言うにしても、雑駁な寛容さのようなものを尊重して「人それぞれ」だということにするのではなくて、自分と相手ではこれこれこういうところで条件が違うから異なる結論が出ているのだ、ということを批判的に吟味する作業が、ぜひとも必要になるのではないでしょうか。

それはとりもなおさず、「人それぞれ」と言ってよいかもしれない結果としての自分の決断を揺さぶり、あるいは一定の説明を与えて、自らの歩みをより確実なものとするためです。

言い換えるなら、「人それぞれ」で思考停止せずに、なぜあの人は私と違うことを言っているのだろう、私はどういう前提に基づいてあの人と違うことを言っているのだろう、私の考えを修正する余地はないか、あの人をこちらに引き込めないか……等と吟味するプロセスを取る中でこそ、自分の歩み方が確固たる姿を持つのではないか、ということです。

相対主義は、知的な風を装いたい人間がしばしばとりがちな態度ですし、もちろん安易に決定を下すよりはよい場合があるのかもしれませんが、とはいえ絶対的なものを求めようとする中で、その絶対的なものが見つからないからこそ、自分の中で・あるいは他人との関係において議論が深まり広がっていく、ということがあるのでしょう。

「人それぞれ」だよねと言って放置していては、深まるものも深まらない可能性があるのです。

結局のところ判断の停止に至るにせよ、複数の主張を検討する作業を経るのと経ないのとでは全く別ですし、何でもかんでも一緒くたにして「人それぞれだよね〜」では、なんら知的・実践的な成果は見込まれないでしょう。


それに、私たちは「人それぞれ」で済ませられない多くのものを持っており、その点を忘れてはなりません。

極端な例を持ち出しますが、「人を自由に殺してもいいよね」ということを言い出す人はあまり多くないはずです。

「人を殺してもいいと思っている」という人がいれば、止めるか、「いやいやそんなことはない」と怒り出すか、本能などの側から説いみてたり、あるいは何かしら互酬性に基づいた議論を展開したり、ということになるでしょう。

(もちろん、哲学の文脈であれば、一種の思考実験として、「なぜ人を殺すことはいけないのか」ということを本気で考えるということはあります。この点については例えば、永井均(と小泉義之)の『なぜ人を殺してはいけないのか?』という対談が実に啓発的です。私の目から見ると、小泉義之の発言はどうにもとらえどころがなく、永井均のある種のラディカリズムにうまく対応することができていない、という感が拭えません。)

「セクハラ最高!」とか「人を殺してもよい」とか「人種差別をしてもよい」とか「人権はゴミ」いうことを前提にしながら議論をする人はあまりいないはずで、そうした人間を「人それぞれ」だと言って済ませることは普通はできないでしょう。

寧ろそうした人々の主張が思考実験に基づいたものであることを願いつつ、一定の反応を加えるか、あるいは「人それぞれとは言っても、あいつの考えは駄目だ」という思いを新たにするのではないでしょうか。

とはいえ、人権概念とか(単なる)命の尊さとかいったものももちろんある種のフィクションです。もちろんフィクションだから価値がないということではなくて、フィクションだからこそ守り抜かねばならないのですが、原理的には、生き方とか人生観とか仕事や金銭に対する考え方と同じように、「人それぞれ」と言われうるものです。

そうして済ませても良いところ、人間は絶対的としうる公準を、正解を求めてきました。

実にそうした点を「人それぞれ」で済ませずに通ってきた、つまり何らかの概ね共有可能な指針を見つけ出そうとしてもがいてきた、「人それぞれ」で済ませがたいもの、何らかよいものを目指そうとして、「人それぞれ」で済ませずに努力を積んできたからこそ、ときには二歩進んで三歩下がるようなことがありつつも、人類というものは歩んできたのではないでしょうか。

つまり「人それぞれ」で思考停止してしまっては到達できない部分が非常に多くあるのではないかしらん、ということです。


とはいえもちろん、私が常々主張するのは、思考停止するのも悪くはない、ということです。多く個人的なレヴェルにおいてそうだということです。

実に私たちの認知能力は極めて限定されていますから、例えば専門的な知識については専門家に問い尋ねる、ということを一般的に行っています。

自分の体の不調の原因を突き止めるために、自分で医学書をひもとくということはもちろんあっても、結局のところ医師免許を持った専門家に診てもらうことになるでしょう。

そして、目の前の人間の能力というものは、もちろん会話の中で、あるいはその人の書いた論文を精査する中で確かめることが一応はありうるにしても、多くの場合は医学部を出て医師免許を持ちqualifyされた医師だ、というだけで概ね信頼を抱くものですし、そこでは私たちは思考を停止させているのです。

医学書を引くにしたって、そこでは書かれている情報を信頼するわけです。そこからさらに遡ってもとの論文を読むことはあるかもしれませんが、論文を読むときには、著者や査読者や媒体が誠実である、という前提を置くわけです。自分で顕微鏡を覗いてきちんと検証する、ということまでやる人はいませんし、それは現実的ではないでしょう。思考や行動を、私たちはある程度停止させるのです。

何によって停止しているのかといえば、権威によって思考を停止させてもらっているのですし、権威によって労力を節約しているのです。実に或る種の権威主義というものが悪くはない、ということの所以です。

ことに複雑化した現在現代にあっては、自分で全てを知り尽くすことは無理で、権威に依存することなくして生きていくことはできませんし、そうした意味で思考停止は必ず必要となるプロセスだと言えるでしょう。

このように、特に自分に関心のないものとか、自分が直接的にコミットする必要のないもの、しかも意見の分かれうるものについては、「人それぞれ」ということで済ませても良い面はあるのかもしれません。

その分野について自分は知らないから、自分の意見を深めることもしないし、特に特定の利点を貶めたりあげたりすることもしない、という成り行きです。

——もちろん思考停止は、良くない考え方に対して消極的なかたちで賛同するということにもなりえますし、政治的レヴェルでは極めて凄惨な帰結を生みうるものてす(実にナチスのユダヤ人迫害においては、無関心な市民、思考をストップさせてしまった或る種の官僚が極めて重要な部分を担いました)。
 
とはいえ極めて個人的な水準においては、冒頭にも述べたように、楽をする・争いを避ける手段になる、というのも紛れもない事実です。何も考えずに「人それぞれ」だよねと言っておけば、それで通ってしまう。少なくとも、極めて個人的な水準において、極めて短期的なレベルにおいては済んでしまう、という面が否めない。

特に現代日本人には、などと言うと出羽の守に聞こえますし、そうしたステレオタイプには心から反対したいところですが、議論をするというだけで疲れる、という人間は大いにいるのですね。文字を気ままに読み書きするだけで疲れるところ、それが論理的な内容を持っているといっそう疲れるとういこともある(実際、論理的な文章を読める人間はほとんどいませんし、こうした能力には際限がないからには、私ももちろん途上にある者です)。
 
しかもリアルな他人が応答してくる可能性があるとなると、つまり議論の形式をとるとなると、一層の認知能力(注意力や繊細さ)を要求されますし、議論と殴り合いの区別も(あるいは批判と攻撃の区別も)つかない人で世界が溢れているからには、その領域に分け入っていくには一定の覚悟が要ります。

重要なことであればあるほどセンシティヴで、センシティヴであればあるほど各人の存在の根幹に関わるわけで、つまり闘争の渦になる可能性が高まるからには、「人それぞれ」だと言って避けておくのは、無駄なエネルギーを使わないために有用な方策ではあるのかもしれません。


ごく簡単に、極めて一面的な、「人それぞれ」として片付けることの功罪を見ました。そのうえで、皆さんが個々の場面においてどういう態度を取られるのかということ「人それぞれ」なのかもしれません。

……実に大事なことについては、面従腹背が求められるのかもしれません。無論この「面」は表層的な社交の水準の話であって、或る種の政治的決定において実施されることがあってはならない、という気持ちはありますが、これもまた「人それぞれ」でしょうか。

こうして結局のところ絶対的な指針は立ちませんが、次のことは言えるのではないでしょうか。

一方で、「人それぞれだよね〜」というヌルっとした態度で済ませそうになったときに、それが自分の可能性を狭めることに、あるいは見過ごしえない悪に加担することになっていないか、一歩立ち止まって考えてみること。

他方で、強硬な態度を示しそうになったときに、その必要があるのかを一度考慮してみること。

……「どちらも大事」「それも『人それぞれ』だよね〜」(ないしは「それもまたアイカツだね」)という安直な一言で済ませる前に、少しは解像度を上げてみたいと思われた次第です。

■【まとめ】
・「人それぞれ」で済ませることには、功罪がある。

・思考をうちとめにせず、見つからないかもしれない唯一の解をそれでも探求しつづける中でこそ広がっていく可能性もある。さらに、安易な相対主義を採用しつづけると、途方もない悪に加担することにもなりうる(これは自らに対しても牙を剥く)。

・他面、表層的な社交をうまく回すという観点、思考のリソースを節約するという観点から言えば、「人それぞれ」は思考停止の手段として上手く使える。