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【347】「ゲームと現実を混同するな、ゲームに対して失礼だろう」

中学高校大学の同級生がかつて「ゲームと現実を混同するな、ゲームに対して失礼だろう」と言い放っていました。まさにその通りであると考えます。

多分に私の性格上の話でもあるのかもしれませんが、いくつかこの点については理屈をつけられると思います。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、「地味だけれどもあらゆる知的分野の実践に活かせる」ことを目する内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


もちろん、上に見たような、「ゲームと現実を混同するな、ゲームに失礼だろう」という言葉は、一般的な俗言、つまり「ゲームをやりすぎると現実と虚構の区別がつかなくなって、現実でおかしなことをしてしまう」というような、今であればもはや論駁されているテーゼを前提するものです。あるいは、実証されていないらしい「ゲーム脳」なる言葉を前提するものです。そうして前提された、広い意味でのゲームへの非難に対する、ゲーム好きの立場からの反論である、しかも諧謔的な反論である、と思われます。

私はゲームそこまで熱心にあったことはありませんが、広い意味でゲームを虚構の世界としてとらえるのであれば、広義の文学、つまり戯曲や小説(や一部の詩)に対する愛着という点ではそれなりのものを持っていると思いますし、そこに大きな時間と精神力を投下していきました。

実にこうして力を注いできたところの対象は、つまり虚構は、「現実」に対して服従すべきものでもなければ、「現実」に役立てられるためのものとして屹立しているわけでもない、というわけですね。

これは私の信念である、というばかりではなくて、いくつかの点からどうしてもしなくてはならないことであるように思われます。


実際のところ、虚構と現実を混同することを非難する言説は、もとより虚構が現実に対して効果を及ぼしかねないことを知っているのです。虚構の世界が全くショボい、効力を持たないものならば、批判する価値はないでしょう(実に初期近代西欧における検閲の問題と、議論の背景は同じです)。

ですからこうした非難は、現実と虚構を分節するよう推し進める言説へと洗練されることもあれば、現実によって虚構を制圧する方向へと進むこともおおいにあります。この点にこそ大いなる警戒心を働かせる必要があります。

どういうことかといえば、現実を虚構に対して優越させ、かつ現実の尺度でもって虚構の価値を測り取ろうとする態度がある、ということです。文学に広義の道徳を求める、というわけです。

これに対しては、全力で抵抗する必要があると考えられます。

どうしてかと言えば、そもそも虚構のテクスト——ゲームや文学等、多様な姿をとります——は、そもそもあなたやあなたをとりまく現実の利益のために書かれているわけではないのです。

最終的に、テクストとはもはや関係なく、テクストの内容があなたの人生の現実に生かされることがあるとしても、それは多くの場合、誤読・行き過ぎた読み込み・踏み外しの結果です。

この種の考え方、つまり自分に役立てることを前提としてテクストを読む態度の一個のヴァリアントは、自分の感情を代弁してくれるものを消費し称揚する態度で、これはもちろん太宰治に対する通俗的な読解に頻繁に見られることです。この種の読みが素朴な意味で「役に立つ」かはわかりませんが、読者が慰めを得るとすればそれは明確なテクストの利用であり、テクストが本来関心(interest)を持たないところの利害関心(interest)に基づいた、一個の暴力的な読解でしょう。

これ自体が咎められるべきであるとは思いませんが、これこそまさに虚構と現実の混同、及び現実的秩序に基づいた虚構の簒奪であると考えられます。

そうした地点に至る前に、まずテクストの内在的な文脈の側から、あるいは置かれている文脈においてテクストが持っている光学的な効果という観点から、テクストをまず検討すべきであると考えられるわけです。

自分の文脈に置き直して利用することを出発点にしようとすると、(「作者」はどうでもいいとして)テクストに対して発揮すべき誠実さを欠くことになる、ということです。

仮にテクストを利用するのだとしても、能う限りの誠実な分析を背後に控えて初めて、そこからの距離取りにもとづいた「利用」も、自らの反射的な底の浅い感情の相対化も、可能になると言えるでしょう。


積極的に現実に役に立つものばかりを読み取ろうとする態度を仮に認めるとして、そうして役に立つもの、現実の秩序において良いとされるものばかりを積み重ねていったその先に、一体あなたは何を見出すことができるのでしょうか。

役に立つものは、鎖をなしています。AがBの役に立つとなれば、Bは何の役に立つのか、と問われます。BがCの役に立つとすれば、Cは何の役に立つのだろう、と問われるわけです。

こうして有用なものは無限の鎖を成していくわけです。

人間は無限に耐えられません。だから最終目的とか、原初的な原因を据えます。後者の観点はアリストテレス『形而上学』第2巻が無条件に採用するところです。前者については、極めて粗末な観念としての「幸福」が据えられることもあれば、あるいは神学者であれば「神の至福直観」を構想するかもしれません。

しかし、おそらくは神学的信念を持っていない多くの人間は、手段と目的の積み上げによって到達しうるものとしての「幸福」を、本当に構想することができるのでしょうか。

できないと思うのですね。少なくとも反省的な精神を持った人間には。

寧ろ、手段と目的の連関に身を浸していられるのは、目的に対する手段を考えてそれを忠実に実行している間だけは、人間が無意味ではない、というそれ自体としては誤った信仰を保つことができるからである、と考えられます。有用なものは意味の連なりであり、言語の繋がりでもあります。有用なものに、役に立つことにとらわれるのは、人生が圧倒的に無意味であるという確実な事実、ないしは人生に対してそれ以外の方途で意味を与ええない、という状況への抵抗であるとも言えます。

これはこれでよいのですし、恐らく99.99%の人間において、(極めて不幸なことに)このプロセスは上手くいってしまっています。

が、役に立つことばかりを念頭に置くのは、自らたらい回しになるようなものです。何かを役立てようとするときに、役に立たぬものまで強いて役立てようとするときに、あなたも役に立つものになってしまっているのであって、つまり役に立たねば価値を失う、有用性の鎖のひとつの輪に成り果てているのです。

寧ろ人間性が開示されるのは、そうした手段と目的の連関が崩れ去る瞬間である、と言えるでしょう。無意味で、無用で、役に立たないものが束の間顕現し分かち持たれる瞬間のことです。小説やゲームに没頭し、虚構について語り合うあの瞬間のことです。


わかりますよ。もちろん、役に立つことを積み重ねなければ私たちは生きていけません。当座のお金は必要ですし、フィクションから役に立つものを吸い上げてそれを自分の生活や事業に役立てる、というのはよくわかる態度です。鎖を組み上げ、その鎖のひとつの輪になることが、どうしても必要な場面はあるでしょう。私もそういう観点から多数記事を書いています。

人によっては(というより大多数の人にとっては)、役に立つということ・有用性が骨の髄まで染み付いていています。その外部から物を考えることができないほどに有用性の秩序に組み込まれてしまった人もいます(というより大多数です)。……寧ろそうした人たちが、「金が全てではない!」と声高に主張しながら、「金」と同じく、所詮は有用性の鎖のひとつの輪でしかない「豊かさ」を、何の反省もなしに崇めがちなのですが。

そういう人に対してかけるべき言葉を私は持ちませんし、私からの言葉などもはや望まれないでしょう。

が、そこにほんのひとかけらでも疑いを持つことができるのであれば、「役に立つ」ことが、現実の秩序に服従するということが所詮はかりそめのものにすぎない、という意識を、心の片隅に、明晰なかたちでおいても良いのではないでしょうか。

もちろん、そんな現実はほんとうはかりそめのものである、現実的な秩序なんてものは息苦しいうえに実は脆いものだ、という態度を前に出しつづけていたら、社会生活を営めなくなります。それは控えるべきかもしれませんし、私個人ととしても、語の正確な意味においてradicalism(つまりは根に変える思想)を実践的なものとしては滅多に認めません。

しかし、役に立つこと、嬉しいこと、良いこと、etc.——この一部に、子孫繁栄とか、豊かな社会とか、成長至上主義とかがあります——にしか価値を見ないこと、ゲームや虚構さえもその秩序に服従せしめることこそ寧ろ、人間に対する冒涜であるとまでは言えないにせよ、片手落ちの貧しい発想ではないか、ということが言えないでしょうか。

■【まとめ】
役に立たないことを、「いずれ役に立つ」などというさもしい根性なしにやること。……