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【191】アイドル・資本家・教祖になれば人生「あがり」?

田中角栄は、病気で政治活動ができなくなった後にも衆議院議員選挙でトップ当選を果たしますが、こうした有り様を見ていて思われるのは、この世界に一定の位置を占めて生きていくということに、「能力」というものがどこまで関わってくるのかしら、という問題であり、また彼のような生き方が幸福なのかしら、という問題です。

今回はそういうことについて。いつものことながら明確な宛先と、明確な元ネタがある文章ですが、それらを明記することは叶いません。遺憾なことです。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が【毎日数千字】書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※写真は大洗の海。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


能力があればあるだけ良いというのは確かかもしれませんが、ある一定のレベルないし時間を過ぎると、即時的な成果を出す能力そのものよりも、能力によって培われた関係ないし偶像(=アイドル)としての地位の方が重みを持ってくるようにも思われるのも事実です。

泥臭く稼ぐ能力が重要である経営者的状態から、(金融資本を含む)資本によって稼げる資本家的状態になる、ということにも近いでしょう。この「資本」はかなりふわっと捉えてよく、固定ファンの類も「資本」と見てよいでしょう。

固定ファンが一定数得られれば勝ちだ、というのは確かです。どんなに悪いことをやっている人でも、どんなに一部の人から嫌われていても、ある特定の一部の人に慕われていて、その一部の層が(単純な言い方をすれば)生活の糧を与えてくれるのであれば、そしてそうした確信を持つことができるのであれば、もはや根本的に変わる必要もなければ、根本的に異なる考えを考慮する必要もないのでしょう。認識というものを一切改めずに、一生やっていくことができるかもしれないということです。SNSを炎上させて一定の信者=ファンを獲得しようとする人々の人生設計は、そうした方向性を持つこともあるのかもしれません。
 
なぜならその域に達してしまえば、何をやっても自然体で生活できるわけですし、期待を裏切らなければ、また法に触れて訴追されるなどのことがなければ、つまりよほどのことがなければ、生きていけるからです。

特定の新興宗教団体の代表などは、そのような体制を既に確立していることでしょう。裏を返せば、固定ファンをつけて、これ以上自分の認識やありようを変化させることなく生きている人というのは、何であれほとんど教祖のようなありかただということです。至る経路は異なるかもしれませんが、自ら偶像=アイドルになっているという点で、信仰に類する情緒的資本を得ている点では同じだということです。

同列に語ると怒られるかもしれませんが、やはり同じように偶像的な対象としては、冒頭で見た田中角栄が挙げられるのだと思います。田中角栄はロッキード事件で訴追され、有罪宣告を受けた後にも、衆議院議員に当選しつづけます。

地元である新潟への利益誘導の能力を買われていると言うのであればまだわかるのですが、脳梗塞の後遺症でもはや政治活動ができなくなっていた1986年の総選挙においても、田中角栄は衆議院選挙でトップ当選しているのですね。本人は選挙活動をしなかった(できなかった)のに、周囲の人間が盛り上げて当選したのです。

よくよく考えてみればこれは異常な事態です。政治活動のできない人間を国会議員に選出するというのは、素朴に考えてみれば奇異だということです。


しかし、もっと小さなレベルでは、こうした一見奇異なことがあちこちで起きているようにも思われるのですね。

よくあることですが、大企業におけるコネ入社とか、政治的背景が全くなかったはずのタレントがいきなり政治家になるとかいうのは、そういった事態と近いものがあると言えるでしょう。良いか悪いかは全く別の問題です。

政治家や企業の人間であれば、利益誘導を行いやすいという点で人気に依存して、あるいはコネで選ばれることがあるいは擁立されることがありうるのかもしれません。

が、特にタレントを政治家として選ぶ有権者の側は、自分の利益をしっかり考えているというよりは、寧ろ偶像として選出しているのでしょう。能力などというものも、ほとんど考慮していないのではないでしょうか。

裏を返せば、選ばれている側はそれまでに確立してきた或る種の資本によって、人間関係や偶像的な地位を利用して、いつまでも一定の地位や金銭というものを獲得しつづけられる、そうした体制を整えているということです。

ある世代までの、ごく一部の大学教員もまた、そのように生きるわけです。日本の大学教員採用は、ある時期までは圧倒的に売り手市場でした。ある時期までは研究などできなくても、大学院に数年いればそのうち助手や講師のポストが回ってきて、そこからトントン拍子に助教授・教授になれていたのですね(私のふたつくらい上の世代からは、もうそうしたキャリアパスはほぼ不可能になりました)。

そのような感じでポストを得ていた世代は確かにあるのです。そして、そのような世代の大学教員には、はっきり言って研究能力の点で明らかに劣っている人も多いのですが、そうであっても大学の先生様だからと周りからは丁重に扱われ、学会では笑われていても、講演の機会や再就職の機会を十分に与えられ、本人の「能力」とはさして関係なく生きていけるという次第です。

本人は本人で、自分が頭のいい尊敬されるべき人間だという認識を改める必要はないのですし、適当な本を書けば肩書に惑わされた一定の層が買ってくれて、適当なことを喋っていれば権威に魅了された人々に褒めてもらえる、そういう生活を送れるというわけです。


ある意味では、こうして(ごくく情緒的な)資本を経済的なものなどに転換しながら生きられるようになることは、「不労所得で生きる」というのと同じく、ひとつの上がり人生の「あがり」のパターンかもしれません。

「働かずに月50万欲しい」とか、そういったどこから湧いてきたのかわからないような茫漠たる望みを掲げる、志のそう高くない、或る種投げやりな言葉を口から出すような方々にとっては、こうした「あがり」の生き方はとても輝かしいものかもしれません。

私はといえば、なるほど或る意味ではそうした「あがり」、つまり自分自分が自分であるというだけで苦労もせずに生かしてもらえて、丁重に扱われる、というのは、理想的である面もなくはないと思われますが、そうはなりたくないなと思う面もあるのです。

同じようなことばかりやって、あるいは何もやらず、自らの認識のほうを根本的に改める必要もなしに安穏と生きていけるのは、ある種の人間にとっては幸福なことなのかもしれません。

しかし、極めて粗雑に言えば、そんな生き方はあまりにも非哲学的で、あまりに非本来的であるように思われるのですね。

自分のありようを根底的に疑うことができなくなったら、もう人間として完全にオシマイでしょう、という気持ちがあるわけです(共感を求めるものではありません)。多少は辛いかもしれませんが、知的存在としての致命的堕落に甘んじるよりは随分マシだという気持ちがあるわけです。

もっと低俗なレベルで言えば、いわゆる「老害」になりたくはない、という気持ちにも通じるものがあります。いくらカネがあって、持ち上げてくれる人がいても、時代の最先端をひた走る若い世代からの態度がたかだか面従腹背にとどまるとすれば、そんな生き方に私はまったく共感しません。

私はまだまだ若く、またずっと若いつもりでいますが、残酷な事実として自分より若い人はどんどん出てくるわけで、そうした人たちには、親しみと(人間として当然の)敬意を、表面的な振る舞いにおいても、表面に出さない言葉や心のレヴェルでも、素直に持ってもらいたいわけです。持ってもらえるように生きていたいわけです。

そのためには、「絶対変わらないだろう!」と思われるような部分においてさえ変わりつづける、痛みを経験しつづける覚悟が、いつ自分が根こそぎにされてもよいという覚悟が必要でしょう。

(実にその準備として、哲学や思想史を研究するというのはよいことでしたし、これは大学の外ではなかなかできないことだなと思います。)

それに、いくら自分に肯定的なファンがいて、その人たちが自分を(或る意味で)養ってくれるからといって、何かの拍子にその人たちが少しずつ離れていくということはあるわけです。

もちろん、去るものをあえて追うのは美しい態度ではないかもしれませんが、少なくとも無駄に去る者が出ないように、また願わくは新しく人を惹きつけられるように、自分自身も常に、正しく・善く・美しい方向へと変わりつづけてゆければいいな、と思われるのです。


途中経過的にまとめましょう。

なるほど、教祖ないし偶像的な存在になれば、人生「あがり」になるかもしれません。

そのような地位を目指すのも悪くはないと思いますし、私も部分的には、自分であるというだけで認めてもらえる、あるいは過去の業績によって生かしてもらえる、という事態には憧れを抱きます。

しかし、必ずしもそれだけでは嬉しくないなと思われるのです。


雑感のようになりました。必ずしも共感は得られないかもしれません。また、万人にウケると思って書いてるわけでもありません。

自分を偶像化する努力、そうして或る種のお布施で生きていけるようになるための努力は、特にフットワークを軽くするために、つまり生活していくということをそれ自体に対する不安を取り去って、自分の時間を真に価値のあると思えることに使えるようになるためには、極めて重要かもしれません。

しかし他方で、それは私にとってみれば極めて非哲学的で、非本来的で、あまり受け入れたくない事態でもあります。新しい人を呼び込めるように、そして既に自分の味方(ないしは信者)であった人が離れていかないように、常に、根本的なところから変化をつづけていけるような人間でありたいな、と思われるのです。

今日の記事にまとめは必要ないと思いますが、一応まとめておくのならば次のようになるでしょう。今回は何か具体的、実用的内容というよりは、所信表明めいた内容になっているかもしれませんが、一つのオルタナティヴとして受け取っていただければよいのだと思います。

■【まとめ】
・自分が自分であるというだけで生きていけるようなシステムを整えていくこと、つまり資本家・偶像・教祖となることは実に重要で、魅力的なことである。

・他方で、根本的変化を経ることなく生きつづけていくというのは極めて低い哲学的態度であって、この記事の筆者にとっては受け入れがたいものでもある。

・自分はもう二度と変わらないという決意ではなくて、永遠に変わりつづけるという決意に基づいて、偶像になりたいものである。


皆さんは、どうお考えですか。