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最上級表現に隠される「〜でさえ」の意味【フランス語の方へ:3】

西洋語の形容詞や副詞の最上級表現は、単に「最も〜である」ことを指し示すばかりでなく、文脈によっては「最も〜な…でさえも」という、英語で言えばevenの意味を含むことがあり、これは解釈上極めて重要です。

『ロイヤル英文法』(新版)などには§161(1)に「譲歩の最上級」ということで次のような例文が載せられています。

The fastest rocket would not reach the nearest star in a year.(最も速いロケットでさえも一番近い星に1年では着かないであろう)

この文についてまず見るなら、wouldは仮定法過去の帰結節の形式をとっており、The fastest (rocket)が条件に相当します。「最も速いロケット」を実際に「一番近い星」に向けて打ち出しているわけではないけれども、実際に打ち出してみるのが「最も速いロケット」であったとしても1年では着かない、と言っているのですね。

if節を用いずに事実に反する(現実化していない・しない)仮定条件を示すことはよくあり、受験英語の範囲では前置詞withoutを用いることが有名ですが、文中のあらゆる要素に、条件を含ませることが可能です。これは受験英語の盲点にもなりやすく、世にでている翻訳も多く誤っているところなので、見ておくべきでしょう。


フランス語はほとんど英語みたいなもので、同じような現象がよく生じます。フランス語学習者の方は、ペンを片手に、あるいはテキストエディタを開いて、次の文を訳してみてください。

訳の巧拙はほとんどどうでもよく、文の構造を徹底的に把握して、意味を把握し尽くすことが何より大切です。
私も下に訳をつけますが、簡単に訳すに留めます。語彙などはメインの説明を終えた後、下の方にいちおうつけておきます。

L’ouvrage [=De mendacio] se présente donc avant tout comme une enquête. Saint Augustin a voulu fouiller les coins et recoins où se dissimule le mensonge, scruter les mobiles qui le font commettre, discuter les raisons qu’on met en avant pour l’excuser. Or ces mobiles sont souvent subtils et ces raisons spécieuses. L’esprit le plus pénétrant ne peut les saisir qu’en partie et la plume la plus déliée ne peut les traduire que sous une forme vaporeuse et fuyante. Ne nous étonnons donc pas que saint Augustin soit épineux et que certains de ses points de vue paraissent un peu déconcertants et chimériques.
(G. Combès, Introduction au De mendacio d’Augustin, Œuvres de Saint Augustin, II. Problèmes moraux, Paris, Desclée de Brouwer, 1948, p.238)


訳せましたか? 以下が試訳です。

試訳:それゆえこの(『嘘について』という)作品は、何よりもまず探求として立ち現れている。聖アウグスティヌスは、嘘が隠されている場所を隅々まで掘り返し、嘘(という罪)を犯すことへと至らしめる動因を精査し、嘘を容認するために提出される理屈について論じようと欲したのである。さて、しばしばこれらの動因は感知しがたく、これらの理屈は立派である。最も洞察力に優れた人(esprit)でさえも、部分的にしかこれらをとらえるうことができず、最も鋭敏な筆致でさえも、揮発し逃れ去ってしまうようなかたちでしかこれらを説明することができないのである。それゆえ、聖アウグスティヌス(の記述)が解釈しづらいとしても、彼の観点のうちのいくつかが些か面食らわせるようで絵空事めいていても、驚いてはならない。


L’esprit le plus pénétrantとla plume la plus déliéeを何の考えもなく単純に「最も洞察力に優れた人(精神)は〜」「最も自由な筆致ならば〜」などと解釈していると、よく言って面食らわせるような(それこそdéconcertantな)解釈になってしまいます。

特に訳す段になると、日本語の係助詞「は」には限定の意味が含まれるので、おかしなことになりえます。間違った例を出すのもどうかと思いますが、「最も洞察力に優れた人(精神)は、部分的にしかこれらをとらえるうことができず」としたら、少なくともここでは、よくない訳ということになりますよね。「『は』という係助詞を使っているからには、洞察力において劣った人(精神)なら捉えられるのかな?」となってしまいます。

ne+que「〜でしかない」による限定があることも踏まえればさほど難しくはないと思いますが、ここにはmême(英語ならeven)が潜んでいる、というわけです。

最も優れていたとしても部分的にしか捉えられない、最も鋭敏であってもたしかなかたちで記述できない、それほどまでに、嘘をつくことへと至らしめる動因は精妙・微妙で感知しがたい(subtil)ものであり、嘘に与えられる理屈や言い訳は立派(spécieux)なのだ、と言われるわけです。だからこそ、アウグスティヌスのような極めて優れた知的人物の記述も、いささか混乱してしまう、という成り行きです。


【語彙など】
・qui le font commettre:使役表現で、leはmensonge。嘘をつくことは悪いことだという前提があるので、commettreという動詞が用いられる。commettreの意味上の主語は省略されている。

・spécieux, -euse:直前にsontが省略されている。やや古い意味だが、「立派な」「見栄えがいい」という意を持ち、こちらでとるべき(Le Grand Robert第1、2義)。何故ならraisons「理屈(ないし言い訳)」がspécieuxであるがゆえに生じる帰結として、後続の文において、見抜きづらい・看破しづらいことが示されているため。現代に通用している意味は「正しそうな見かけで以って誤りを引き起こし、騙すことを運命付けられた」(Le Grand Robert第3義)というもので、こちらの意味も少しは前提される。実にアウグスティヌスは、嘘を擁護する様々な理由をとりあげて批判する。

・esprit:「人」としたが、直訳的に「精神」としてもよい。espritは、知的部分としての精神を意味するラテン語animusの訳語として用いられる(生命の原理としての「魂」はâmeで、ふつうanimaの訳語)。知的機能を持つ「人」をespritと表現することは珍しくない。

・la plume la plus délié(e):plumeは「(羽根)ペン」だが、換喩的に「(或る人物の)書いたもの」を指す。たとえばsous la plume de Jacques Derridaと言えば「ジャック・デリダの書くところでは」という副詞句になる。déliéは(lierに接頭辞dé-がついただけなので)「ほどかれて自由である」くらいの意味であるから、「最も自由な筆致」とした。

■【まとめ】
最上級表現にはeven, mêmeの意味が隠されていることがある。文を適切に・緻密に読んで判断する必要がある。

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