【153】悪癖の美点を見る:長い髪と飲酒と喫煙にそれなりの分を見出す作業

男性である私が肘を超えるぐらいまで髪を伸ばしていること、その確かな理由は藪の中にある、つまり本人にも他人にも突き止めようのないものである、ということは、以前書いたとおりです(参考:【92】男性が髪を伸ばすこと(について語ること)と、カオスからの決断)。

伸ばしていて切ることがない、という状態は、切るという決断を行わないことに由来しつづけている帰結ですが、これは少なくとも表現のうえで不決定の、行為の不在の表現ですから、この表現に対してもまた、実定的な理由を与えるのは難しいでしょう。

「ある」ことに理由をつけるのは比較的簡単ですが、「ない」ことに理由を与えるのはごく難しいことです。

そもそも髪を伸ばすことが何らかの意味で問題になるのは、男性が髪を伸ばすことに否定的な意味合いがある、ということが、或る水準においては前提されているからです。

それは私にとってそうというより、漠たる意味で了解された社会にとってそうなのですが、ともかく、女性が髪を伸ばすことはいっさいありふれて説明を要さないのに対して、男性が髪を伸ばしているとなぜか殊更に言及されて、ときに言い訳が必要になります。

言及は好意的な装いをとることもあれば、悪意をにじませつつ行われることもあり、私が今行っているように、宣言と反撃のために振り出されることもあるでしょう。

「髪を伸ばすのは女性の習慣であるから、男性は髪を短く保つべきだ」、などというバカげた——女性のほうが髪が伸びるのが速い、というのは了解していますが、一般的な事実を個別事例に適用するのはバカげています——ジェンダー規範に基づく言い分を私は決して受け入れませんし、そんなことを(内心ないしは内的表現に留めずに)言ってくる人間とはできるだけ関わりたくないと思っています。


とはいえ、単なる時間効率とか生産性といった意味で考えてみれば、髪は短いほうがよく、さらに言えばない方が良いのです。ヨガのヘッドスタンドをするにも邪魔ですしね(笑)。

髪を伸ばしていれば当然洗髪に時間がかかりますし、洗髪に使うシャンプーやコンディショナーの類もそれだけ量が増えるわけです。ということは、生えているだけで無駄だということです。

髪が短い人と、まったく生えていない人を比べるなら、後者の方が洗髪にかかるコストは小さく済むでしょう。

ドライヤーで乾かすにしても、当然髪を全部剃っていればタオルで拭いて終わりですから、髪なんかないほうが時間はかからないわけです。剃ると得だということです。

頭髪には頭を物理的ダメージから防御する役割があるのかもしれませんが、それは本当ですか、という気持ちがありますし、直射日光を防ぐなら帽子でもかぶればよいでしょう。

素朴な意味での効率を念頭に置くのであれば、髪なんか全部剃ってしまうのが良いのです。


ですから、「どうして髪を切らないのか」とニヤニヤしながら、あるいは全世界の正義を代表したような顔をした人間が意地悪く尋ねてくるたび、じゃああなたは何で無駄に毛を生やして、剃らないんですかと問いかけて——というよりは混ぜ返して——、相手が旧弊で無根拠で恣意的なジェンダー規範にどれほど強く拘束されながら他人を裁こうとしているか、ということを明るみに出したい気持ちに駆られます。

まあこれは私の性格が悪いからですし(笑)、図星を突かれたり、無意識を(ただしく)暴かれたり、確固として信じていることを揺さぶられたりすることは多くの人にとって心地よいことではないようなので、やりません。

(補足1。私は無意識を探り合うことこそが真摯なコミュニケーションのあり方だと思いますが、ある人が無意識を探り合うコミュニケーションに耐える強靭さを持っているかどうかは、やってみなくてはわからない面があり、そのためには時間と精神的労力を費やす覚悟とともに、不必要に嫌われる覚悟を定める必要があるので、別にやらないということです。)

(補足2。言い換えるなら、旧弊な規範やコードに拘束されていること自体に関しては、私はあまり問題を感じません。寧ろ、自分が「当然」と看做していることに対する疑いを一度は虚心坦懐に受け止められるか否かという一点が大事で、そうした反省のプロセスを正しく経てさえいれば、如何なる政治的・道徳的ドグマの持ち主とも会話は成立させられると考えています。尤も、こうした或る種の鷹揚さこそ、身につけるのが難しいものなのですが。)


私の「性格の悪さ」アピールはこれくらいにしておいて、洗髪はなるほど時間がかかるものですし、その点から私に髪を切るように言う人は別にいませんが(つまるところ、本当に洗髪に時間がかかるという点を以って髪を切るよう勧めたい人間など一人もいないということです)、確かに洗髪に時間がかかるから髪を切ろうかなと思ったことは、実のところ一度や二度ではありません。

しかし、どうしてか切る気が起きない。

切る気にならない理由は、言える範囲ではいくつかあります。

例えば、フランスの美容師に髪を任せる気にならない、というのもそうです。単に東洋人の髪に慣れていないので、上手く切れないという話は友人たちからしばしば聞きます。

そもそも、信頼関係のない相手には身体を触られたくありません。日本には信頼している美容師がいますが、初めに切りに行くにしても、事前のやりとりには時間を要しましたし、逆に言えば、私にとっては身体を任せるにはそれくらいに大きな覚悟が要るということです。

最近の事情ですが、できるだけ人との接触を避ける方がよいということも、一つの理由にはなるでしょう。


もちろん以上はこじつけの理由ですし、私が心から信じて提示しているわけではないのですが(最初に申しあげた通り、真相は藪の中です)、とは言ってもやはり髪を切る気にはなかなかならない。以って洗う時間も削減するわけにはいかない。

そうした時にとらざるをえない態度は、無理やり良いことにしてしまう、ということなのですね。髪を切らずにいることを無理やりよいほうに解釈する、ということです。

これは以前にも紹介した、『アイカツ!』において氷上スミレが実践ししつづける「いいこと占い」でもあります(参考:【119】易者とリアリスト:「いいこと占い」のリミット)。悪いことが予想されても良い方向に解釈する、あるいはそこから生じる良い可能性をに着目して現実を解釈する、という手法です。


実際、洗髪に時間がかかるというのは、全く悪いことでもないのです。

私は放っておかれれば机に向かいっぱなしになって、あるいは床に寝そべって本を読み続けているわけですが、髪を洗わなくてはならないということになれば当然風呂場に行きますし、ある程度の時間を文字やディスプレイを見ずに過ごすことになるわけです。

つまり、ずっと作業をしていれば効率が下がってしまうところ、強制的に休憩の時間を作って回復させることができるというわけです。

これには、私が運動に対してとっている態度と近いものがあります。身体を動かすのが好きではないマイルドな引きこもりなので、週に1度ヨガを(わりとガチで)教わるという約束をして、それに間に合うように定期的に練習をするわけです。人にも依るのでしょうが、私は人との約束はなかなか破ることができないので、無理やり約束して、運動するようにしているというわけです。

同じように、私は身体と、自らの髪と約束をすることで、週に幾度かの1時間単位の休憩を確保している、というなりゆきです。

それに、洗髪している最中というのは、思わぬアイディアを思いつきやすいときなのですね。これは経験上そうだというだけで、別に他のことをやっていてもアイディアは浮かぶのかもしれませんが、とりあえず私はそう思っているわけです。

頭を濡らして、シャンプーを手に取って頭皮をマッサージしている時にビビっとくることが多く、また中途半端に腰を浮かせて——というのは、座り込むと浴槽に髪がつくからですが——髪をすすいでいるときにこそ、断片的な言葉と言葉が結ばれやすいわけです。

そうしたときには、手近に置いてあるiPhone——最近は防水で助かっています——の画面をつけて吹き込んで、後で書き起こすということになるわけです。

このように、時間のかかる洗髪というのもなるほど悪いわけではありません。放って置かれるとまずとることのない、1時間単位の休憩を半ば自動で取ることができるわけです。

それに、ある種のバロメーターとしての機能を持っています。この規模の洗髪がどうにも面倒な日というのは、明らかに体調や精神的な状態が悪い日なので、いっそのこともう休んでしまう、ということもありえます。

休むにしたって日常のルーチンのようなものは確実にこなしますが、それ以上のことはできないと判断して次の日に持ち越す、ということもありうるわけです。

こうしてみると、私の身においては、洗うのが面倒な長い髪を持っているというのも、なかなかどうして悪いことではない、ということを、納得いただくことはなくとも、少なくとも外面的には理解していただくことができるのではないでしょうか。


翻って皆さんには、どうしても捨てがたい趣味とかどうしても捨てがたい悪癖がありませんか。それをやめることさえできればもっと仕事で生産性をあげられたり、もっとよい人生を作れたりするはずなのに、やめられない、ということはないでしょうか。

もちろん、やめられるのであればやめればよいのですし、どう考えてもやめたほうがよいというレヴェルでやめたほうがよいものであれば、それはもちろんやめたほうがよいでしょう。

しかし、やめるほどではなさそうな、あるいはどうしても辞めたくないというようなものについては、寧ろやってしまっていることを肯定的に捉え返せるような条件がないか、ということを探してみるのも、ある程度はあっても良いのかもしれません。

もちろん、良くない現状を追認しつづけるということは絶対に良くないことですし、寧ろそれは蟻地獄の入り口だと思いますが、

人間、一つや二つ、絶対に手放せない、しょうもない要素はあるものです。


こんなことを言うと一部の人には怒られそうですが、喫煙とか飲酒とかいうのは、やめられるならやめるべき悪癖の類でしょう。

「酒は百薬の長」というのは呑んべえが振りだす冗談の類です。ポリフェノールがどうのと言うのなら、ぶどうジュースを飲めばよろしい。喫煙も、しない方が個人の健康には良いに決まっているのです(ある疫病の予防に効果があるという調査もでかけていますが、煙草それ自体の害のほうが大きいでしょう)。

元々飲んでいない人や、元々吸っていない人が、飲みはじめたり吸いはじめたりしたら、それだけで時間や金(や体力)が吸われるわけです。

喫煙していなければ、一部の人から蛇蝎の如く嫌われるということもないわけです。吸っている人からすれば、吸わないと集中力が持たないとかいうこともあるでしょうが、仮に禁煙できて、集中力などもつづくようになって、口寂しくなることもないとすれば、絶対にやめたほうが良いのですし、それは認めていただけると思います。

酒にしたって、これが単なる薬物ではなく一定の文化を反映したものであるということは認めるにせよ、酒以外にも文化はあるわけですから、何も本気でコミットしないなら、身体を犠牲にして・中毒の危険を冒して酒を飲む必要はないわけです。やるならソムリエなり利酒師なりになるとよいと思います。


であれば、やめる努力をするというのがもちろんなかなか良い手であるように思われます(繰り返しますが、私見です)。

とはいえ、やめられない・やめたほうがいいとわかっていてもやめるつもりにはならない、という人もあるでしょう。やめないということを固く信じている人であれば、別によいのです。問題は、やめたほうがいいと思っているのにやめられない人のことです。

そうした人は、やっていることで得られる利得というものに着目してみるのも、良いかもしれません。

飲酒であれば、旅の楽しみは増えるでしょう。私は20代半ばまでほとんど酒を飲みませんでしたが、改めてイタリアやドイツに行ってみると、酒があることで広がる楽しみもあるということに気付かされます。

南ドイツには美味いビールが沢山です。ケルンで飲めるケルシュは勿論、大規模醸造所の陰に隠れがちなミュンヒェンのアウグスティーナーやシュナイダー、小さな都市のビールがとても美味い! ウルム(大聖堂が有るほうではない、もっと小さい街です)で醸造されているUlmerの、特にラガーは、飲めずには死ねない美味さでした。AlpirsbacherのAmbrosiusは天にも登るような豊かな味わいです。……

ワインに関しても、体系的に学習した友人の手引でいくつか美味しいものを飲ませてもらうと、ほどほどであれば悪くはないと思わされるものでした。イタリアはトスカーナ、モンタルチーノには優れたワインが沢山です。また、やはりフランスということで言えば、Le PuyやChambolle-Musignyの美味さと言ったらないですね。よく言われる(ワインと料理の)「マリアージュ」についても、いくらか試して眉唾だと思っているところがありましたが、白金のカンテサンスでその威力を思い知りました。これならハマる人がいてもおかしくはない。

……最上級の水準であればなおさら、「文化」を知っておくのは悪いことではありません。

喫煙であれば、未だに喫煙者同士の紐帯というものはありますし、一部の業界では喫煙所でのコミュニケーションが有用である可能性もあります。吸わねば分からない文化というものも、たしかにあるでしょう。アルコール以上に断つのが難しそうで、かつ断てなければ書物の管理にも健康にも問題が出るので、私は絶対に吸わないと決めていますが、それはそれとして、良いことは少しくらいあるでしょうし、その「少し」を拡大解釈することは可能でしょう。


どうしたって自分から見て利得が見つからないなら、やめる努力をすればよいのですし、それでも止められないとなれば、それはまた別個に扱うべき問題でしょう。

しかし、これから時代はどんどん変わっていくかもしれませんが、アル中ぎみでも、ヘビースモーカーでも、極めて大きな成功を収めている人はとても多いわけで、別に飲酒・喫煙があなたの良いパフォーマンスを根本的に妨げている原因であるという可能性は極めて低いのです。


しょうもないと言ってよい、大勢としてはマイナスでしかない要素というものはそこかしこに転がっているわけで、そうしたしょうもないマイナス要素を捨て去ることができないのであれば、それは仕方ないと諦めて、寧ろそこに良いことがないかを見出してゆこうとするのも、一つの可能な態度ではないか、ということでした。

絶対にマイナスであると認識していながらやめられない、というのは強烈な自己矛盾ですから、結構な苦痛を産むのかもしれません。

酒は身体に悪い、煙草は(自分や周囲の)身体に悪い、長い髪は時間の無駄だ、とだけ思いつつ、しかし振り切れないとすれば、心はさいなまれる一方でしょう。

しかし、飲酒や喫煙や髪を長く保つことに美点・利点を見出すことができるのであれば、心をぐっと軽くするきっかけになるのではないかと思われるのです。

もちろんこれは、根本的な解決ではありませんし、特に他人が(合理的にも)迷惑に感じているのだとすれば、独りよがりな態度になってしまうかもしれません。とはいえ、周囲の反応などを考慮するとしても、究極的には自分がどう思うかということが大切であるからには、どうしてもやめられないならば美点を見つめてみる、というのも、悪くはないでしょう。

煙草を吸うのも悪いことばかりではない、と解釈できるのであれば、そしてその解釈を許容するだけの現実的な支えがあるのなら、それはそれで少し気持ちが楽になるだろうということです。


……余談。

こうして追認せざるをえない現状には、個人にとってかなり重要なものが詰まっているのではないかと思われるのです。

それは有用なものではないかもしれませんし、ひょっとすると社会からは認められないものかもしれませんが、そんなことはどうでもよく、人間が人間としてあるということの一部には、そうした抗うことのできない力を言語によって可視化しつづける、という営みがあってしかるべきであるように思われるのです。


皆さんは、悪癖をお持ちでしょうか。

そして、その悪癖には、どのような美点を見出すことができそうでしょうか。

一度はこうしたことを考えてみてもよいのかもしれません。

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