【92】男性が髪を伸ばすこと(について語ること)と、カオスからの決断

どこかで明確にしたかどうか覚えていませんが、私は男性で、男性としては相当な長さの髪を持っています。こんなことを言っていると一発で身元がばれてしまうのですが、その点はさしあたりお目こぼしいただいて、髪を伸ばす理由、ないしは原因について書きたいと思います。

いや、正確には、理由について述べるわけではありません。問題は、髪を伸ばす理由を語るということはどういうことか、ということを回りくどく述べるということです。

しかしこの点は決定的に重要です。決断が確たる理由を持たないことの、「膏薬と理屈は何にでもつく」ことの、言語や語りがフィクションを立てる機能を本質とすることの、具体例であり、ひとつの実践だからです


つい先日、私からしてみれば結構な人数で催されるセミナーの機会があり、その場で幾人かとお話しする機会をさせていただきました。その場においては場違い・かつ不審な人間だったこともあり、幾人かは(おそらくは動物園の珍獣に対して持つものにも似た)関心を持ってくださり、大変貴重な雑談の機会を与えてくださいました。

その中で言われたのが「哲学者(私は哲学者というより研究者ですが)というのはみんな髪を伸ばすのものなんですかね」というような言葉でした。

なるほど、具体的に誰とは言いませんが、各大学の哲学系の学科の教員の顔写真を検索すれば、髪の長い人はかなりいます。大学の外から任意の男性をサンプリングしてくるよりは、確度高く髪の長い男性に出会えるでしょう。

私は無意味に言葉を濁しつつ、髪を伸ばすということで周囲との間で生じる認識のギャップのようなものが面白い、というようなことをお話ししたように思います。法を侵すことなくお手軽に或る種の規範を攪乱することができるということです。

これはもちろん、その通りです。他の人たちがどう考えているかどうかはともかく、私からしてみれば面白い。

実際的なあらわれとしては、かなりの割合で女性に間違えられます。私は背がそれほど高くないこともあって、声をかけられるときにはたいてい「マダム」と声をかけられます。ヨーロッパに住んでいる人は髪の長さでしか人相を識別しない、というわけです。

実際日本では、まず女性だと思われたことはありません。いや、神保町の東京堂書店のお手洗いで居合わせた男性にギョッとされたことはありますが、それくらいだと思います。しかしイタリアやフランスでは日常茶飯事です。

こうした規範の撹乱が面白い、ということは、髪を伸ばす理由として一応成り立ちうるでしょう。

しかし、これが正しい理由の説明かということは私には分かりません


そして私がもうひとつ挙げた理由ないしはゆきつくべき帰結——理由にせよ帰結にせよ、英語の前置詞forあるいはフランス語の前置詞pourによって表されるものですから、少なくとも西洋的な世界観で生きている身とあっては、響き合うものだと思っていただければ良いのですが——ヘアドネーションをする、ということがありました。

ヘアドネーションについては、以下のリンクをご参照いただくのが速く、正確かと思われます。
https://www.jhdac.org/

簡単に言えば、病気などで髪の毛が失われてしまう人に対して髪を提供する営みのことです。人工の毛髪よりも、やはり人間もともと人間が持っていた毛髪の方が良いらしいのです。これは美容室との連携のもとで全国的に、あるいは世界的に行われていることです 。

医療用フルウィッグは30センチを超えていれば作れるようで、現在、私の髪の長さは肩から測っても40〜50センチくらいあるので、充分に規定を満たしています。(上記ウェブサイトでも説明されていますが、髪は半分に折り返して使うので、多少の長さが必要なのです。)

今は時期が時期なのでやりませんが、帰国次第やっても良いかなと思っていることのひとつです。

しかしこれは、本当に伸ばしはじめた理由でしょうか? これほど高潔な動機を、私は持っていたのでしょうか?


あと、その場で申し上げることはできませんでしたが、髪を伸ばすというのは、「切らない」という選択によっていわば意図的に生ぜしめる変化であり、変化をするということは変化の過程と結果を知ることであり、この点に興味があるというのは事実でしょう。

この世界には髪の長い人間がいる。私は今でこそ一般的な女性と比べても長い髪を持っていますが、持ってみなければそうした人たちの気持ちというものは一切わからない、ということは言えるでしょう。もちろん、持ったところで同じ気持ちになれるわけではありません。私はそもそも女性として扱われませんし、女性ではありませんし、髪の質も頭皮の質も全く違うわけですから、同じになることはできません。

しかし、少なくとも似たような経験を行うことはできる。似たような苦労を味わうことはできる。そして似たような心情に至ることはきっとできる。

極めて朴訥に表現するのであれば、人間のことを知りたいわけです。ナイーブに聞こえるかもしれませんが、自分自身にせよ、他人にせよ、人間を知るというのは、人文学(を含む一定の学問)の一つの大まかな目的であって、私もこの目的に反対するものではありません。むしろ今までやってきた研究の履歴を考えると、人間の内心と表現の関係を考えるのがひとつの大きなテーマであるようにも思われるのです。

実際、(湿度が低いヨーロッパにあってすら)洗髪が大変だということを知ることができました。

さらに重要なことには、髪の長さを媒介に、外見から女性と思い做されることで、文章や言葉を通してうっすらと知っていた、女性が立ち会いうる嫌な行為のほんの一部をややリアルに感じる機会を得ました。具体的には、下品な言葉を投げかけられるとか、付きまとわれるとか、そういったことです。酷いときには、断りなく体を触られるということもありました。私ができるだけ低い声で怒鳴り散らすと相手は悪態をついて立ち去ってくれますが、私が本当に女性だったらいったいどう反応すればよかったのか、はかばかしい答えは出てきません。

別に嫌な経験をしたかったわけではないにせよ、「あ、ホントにあるんだ」ということを身を以て知ることができたというわけですし、おそらくは女性と誤解されなければ知りえないことでした。

であれば、髪を伸ばす、あるいは長い髪を持つという表現を以って、現に長い髪を持っている・髪を伸ばしている人間の経験に迫ろうとした、というのはあながち間違いではありません。ひとつのエスノグラフィの試みである、と言えば、マリノフスキーは眉を顰めるかもしれませんが、内側に入ってみなければわからないこともある。……

しかし、これは当初持っていた理由でしょうか? 私は最初から、エスノグラフィカルな目的を持って髪を伸ばしたのでしょうか?


私には分からないのです。真相は「藪の中」、です。

当初の記憶などというものは捏造されています。どうして髪を伸ばそうと思ったからなどということについては、理由を説明するのは難しく、不可能でさえあるでしょう。私しか知らないはずなのに、私が知らないと言っているのですから、誰も知るはずはありません。

しかし今ここに述べてきたような理由は、私が否定しなければ妥当でありうるでしょう。

政治的な規範の撹乱を狙っているものだと言ってもよいでしょうし、
ヘアドネーションのためだと言っても良いでしょうし、
あるいは長い髪の人の気持ちを体験するためだと言っても大きな間違いにはならないといえます。

もちろん、普通やらないだろうと言われるかもしれませんが、一応理屈は通っています。


しかし、どれが正しいとも言い切れない。私自身、おそらく忘れているのです。

であれば、このように自分の行為ないしは状態については、都合よくお話を作ってフィクションを当てはめることができる。適当なフィクションを見繕って当ててゆくことができる。

一般に経験や状況については、フィクション的な解釈を行うほかないと、いうほうが正確かもしれません。もちろん、髪を伸ばしている、などという胡乱な事態に限らず、様々な事態や、選択や、決断に対して、こうした観点は可能であるように思われます。

というよりも、そもそも、意志が自由である限りにおいて、いくら理詰めの説得があっても、決断の瞬間、あるいはスコラ的意味における選択の瞬間は一切無規定であって(実に無規定であることは、意志の自由の古典的表現です)、そこには混沌たる自由な暴力が、カオスからの掴み取りがある、と言える。あなたの過去の自由な行為は、自由である限りにおいて、究極的には根拠があってはならないようにも思われます。


しかし、「根拠などありません」と居直ることは、時宜を得ない。とかく私たちは「説明」を求めます。人間は無意味・無根拠に耐えられないからです。だから、説明を与えるほかない。そしてその説明は、多かれ少なかれ、極端に言えばフィクションです。

私がフランスにいるのだって、周りがフランス留学してるからまあ行っとくか、という気持ちで行った、と説明することは可能でしょう。しかし同様に、もっと崇高な意志があったかのように説明することも可能です。

私が当初思っていた理由を忘れてしまえば、どちらでも良いことになるでしょうし、どちらかだと強弁していれば、客観的な証拠が出てこない以上は、私の勝ちです。どんな理屈をつけても私の言ったことが正しくなります。日記が残っている? では焼き捨ててしまえば、どんな理屈も付けられるでしょう。

もちろんそれは証拠が残っていないからですが、ともかく人生上の事柄の多くに、証拠は残っていないものです。証拠をわざわざ見つけてこようという性格の悪い人は、あまりいないものです。

もちろん、そうしたある種の特権的説明を相対化したいからこそ、一定の歴史家というものは意地悪く色々な証拠を探してくるのですし、現在生きている人についても割と意地の悪いネットストーキングのようなことをやって、もっと別の説明を与えようと試みたりもしますが、それはともかく、普通はそんなことはしないわけですし、したくもないでしょう。


であれば皆さんも、たとえば暗い過去とか隠したい過去というものに対して、肯定的な意味付けを持ったフィクションを与える可能性がある、と気づくことができるのではないでしょうか。

そうしていれば、フィクションが、過去の現実——これも言語で表されるからには或る種のフィクションです——が塗り替えられるときが、来るかもしれません。

逆に言えば、気持ちが落ち込むようなフィクションを立てつづけていれば、当然、押しつぶされてゆくことでしょう。

フィクションは毒にも薬にもなる、というわけです。


暗い部分について暗い解釈を行わないのは、不誠実かもしれません。個人的でない公的な事象に関して、中立性を目指さない・悪さを見つめない・然るべき責任をとらないのは、最悪と言ってよい態度です(あまり強い言葉を使うべきではありませんが、これは、きっと必ず!)。個人的なレヴェルにおいても、フィクションに押しつぶされることこそが誠実だとする向きもあるかもしれませんし、そうしなければ出てこないものも、絶対にあるでしょう。

しかし皆さんは、皆さんの個人史に関して言えば、歴史家(やある種の作家)として誠実である必要はありません。ある種垂直的な義務にとらわれて(神の与える艱難に耐えるヨブのように)苦しむことを選択できる人は、そう多くはありませんし、そこまでしたいかと言われて「はい、したいです」と答える人はそう多くないでしょう。

こうして、自分が良くも悪くも俗物であるとの認識を持ちうるのであれば、都合の良い、自分勝手な、独善的なフィクションを、自らの来歴やひとつひとつの決断に当てはめてゆくのは、悪くない方針であるように思われるのです

こう言われたからといって、すぐに自分の人生を肯定できるものではないでしょうし、そのためにはどこかで回路が切り替わる経験が必要かもしれませんが、ともかく重要なことは何度でも言う必要があるのです。……という意識から、少し書いた、という次第です。


さて、以下は余談です(が、それゆえに、全てです)。

私が以上に述べたことももちろん、言語によって編まれたフィクションです。

私が髪を伸ばす理由について、「忘れていて、ここでは様々なフィクションを当ててみせた」と申し上げたのも、フィクションかもしれません。私が出し惜しみしている別の重要な理由があるかもしれません。剰え「男性である」と述べたことさえも、フィクションかもしれません。それ以外にも、私はおおいに嘘をついたり、語り落としたりしている可能性があります。

いずれにせよ、一連の構成を持って書かれた文章もまた、「ありのまま」を「ありのまま」に見せるものではありません。視覚が所詮はあいだの空間と水晶体と視神経を通して得られた紛い物であるように、香ばしい匂いがステーキそのものではないように、文章は私の経験や思惟そのものではありません。その文章を皆さんが読み取られるときには、中継地点がさらに増えるわけで、いっそう強く、何かが歪められ、濁らされるというなりゆきです。

人の書くことはさしあたって額面通りに受け取るほうがよいかもしれませんが、こうした(消極的にせよ積極的にせよ)「不誠実な」書き手もある——というよりも、書くということは本質的に或る種の不誠実を許容して成立する——、ということは、頭の片隅にとどめておいても良いように思われますし、ご自身が書かれるとき・話されるときにも、事情は変わらないのです。