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【292】おしりにタコができるくらいに勉強せよ?

当方情緒が幼稚園児並みなので、上品でない表現には常々惹かれていますし、少なくとも自分の中ではそうした表現を回しているほうが気分もノリます。

だからこそ、大学受験に備えて勉強していたときにある予備校の先生から言われた「おしりにタコができるくらいに勉強せよ」という言葉を今になっても執念く覚えているわけです。今日はこんな言葉について。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


実際、受験勉強とか学部の頃の勉強においては、私は文字通り、おしりにタコができるまで勉強していました。

それは、当時の私が使っていた椅子が、勉強に向かない(けれども安価なので広く使われている)木製の硬いものであったことに由来するのでしょうし、今のようにある程度質の高い椅子を扱っていればまず「おしりにタコ」はできないわけですが、それはともかく、「おしりにタコができるくらいに勉強せよ」という言い方に込められたメッセージは、「そのくらいの心持ちで時間を使って一生懸命勉強をしましょうね」ということであるように思われます。


では、「そういう心持ち」とはどういうことなのでしょうか。つまり、「おしりにタコができるくらいに勉強せよ」というのは、一体どういうことを意味しているのでしょうか。「わかってるよ!」と思っても、明晰化を試みることで得られる果実は多いものです。

もちろん端的に言えば「頑張って勉強しなさい」ということなのですが、「おしりにタコができるくらいに」という表現から読み取られるのは、心身に(マイルドな)不調が出るくらいまでやれ、ということであるように思われます。この点、「机にかじりつく」という表現には読み取ることのできない内容があると言ってよいでしょう。

もちろん、マイルドなものであれ、厳しいものであれ、体に不調が出るというのは良くないことですし、どれだけ頑張っても心身に不調が出ない、というのが良いに決まっています。他の作業や、他の仕事に、また身体に致命的な問題が出るくらいまで勉強・訓練に勤しむのは、慎むべき態度と言えるかもしれません。

もう大人になってしまった(かもしれない)私たちが、日々の労働時間に加えて、何かプラスになるような仕事や勉強をするときも、犠牲にしてはならない領域はあるはずですし、あるいは労働時間の範囲内で、今後の労働がより効率的になるようになるようなシステムを作っていくということも、今課されている作業を犠牲にしてまでやってはならないことかもしれません。

とはいえ、「おしりにタコができるくらいに」やるつもり、不調が出るくらいまでやるという覚悟には、見るべきところがあるように思われます。

迂回するなら、ここで私たちに問われているのは、何が何でもやるということを念頭に最初の前提としておくのか、あるいはさしあたって今日保つことができているような健康状態を最初の前提に据えるのか、という問題であるように思われます。

この二者択一にあって、前者の道を取ると決める、つまりどうしてもやると決めるのであれば、「何が何でもやる」という前提は決して崩さないことになるわけで、そのうえで初めて、健康を害さないようにするにはどうすればよいか、あるいはどの程度であれば健康を害さずに済むか、という判断が働くことになるわけです。

逆に、後者の道を取る、つまり現状としての健康を維持すると決めるのであれば、「ほどほどにやる」という選択に加えて、「やらない」という選択肢が極めて大きなものとして出てくるわけです。

他に殆どやることのない・やる必要のない高校生が受験勉強をやる場面ならまだしも、大人になってからなにか新しいことを始めようというときには、多くの場合既に日常的にやらねばならないこと沢山あるわけで、「やる」とはっきり決めるのでなければ、「やらない」という方向に舵を切ること可能性が残ってしまうわけです。

ですから、このふたつのどちらを念頭に置くか、ということは非常に大きな違いを生むことになるでしょう。良い悪いの問題ではありませんが、どちらの前提を自分が持つのか、ということは、極めて重要になるはずです。


たとえばこの選択は、運動を行って将来に向けて筋肉貯金を積んでいく、という決断を最初に行うのか、あるいは(筋肉痛や発熱などによって日頃の活動に支障が出る可能性を憂えて)今ある健康状態を維持することをこそ最優先の課題とするのか、という違いであるように思われます。

この例に限って言えば、もちろん今ある健康状態を崩さないために運動をしない、という決断ははっきり言って愚策であって、長期的にはあまり良い効果を生まないでしょう。


別の見方をします。

私たちの心理的状態は、満足している/不満があるという二つに分けてみると、なかなか事態を適切に捉えられないことが多いかもしれません。このモデルは静的ですし、人がそもそも自らの置かれた状態を再帰的にとらえている、というあまり現実的でない前提に基づきます。

寧ろ、過去でも現在でも未来でもありうる不満な状態と、そこそこ普通に満ち足りている(か、何も考えていない)現在の状態と、現状よりも良い未来の状態が思い描かれたうえで、自らの置かれた状態に対する反省が行われる限りにおいて、現状をよりよくしていこうとする、というくらいに捉えたほうが、私にはしっくりきます。

不満な状態にあるならばそこからがむしゃらに頑張るほかないわけですが、多くの人は現状というものに慣れてしまっていて、そこそこ普通だなと思いながら(あるいは何も考えずに)生活している可能性が高いでしょう。

考えてみれば、もう皆さんも、目下流行している疫病に慣れきっているのではないでしょうか。魂をざわつかせるようなニュースが流れてくる、コロコロ私たちに課される有形無形の制限が変化する、ということに、もはや慣れてしまっているのではないでしょうか。

そう考えてみると、現状というものを普通だと思う能力というものが、人間には備わっているということが実感されるのではないかと思われます。

何かきっかけがあって、こうして「そこそこ、普通」の現場からより良いところに行こうとするのであれば、あるいは行こうと決めるのであれば、少なくとも一旦は不満が出てくるというのも当然の成り行きです。

なぜなら、より大きな満足があるというのに自分はそこに至っていない、という未来志向のフラストレーションが働くからです。さらに言えば、新しいことをやらなければより良いところに行けないからには、今やっていることに対して割いている注意力や時間や労力といったものを削って配分しなくてはならないわけで、この点で、自分が確率してきた態勢というものを一旦は崩さざるをえないわけです。

逆に言えば、フラストレーションを抱える覚悟を、一旦はよろめく覚悟を定めなければ、よりよいところにはいけないということであって、そうした覚悟を持つということが、「おしりにタコができるくらいに勉強」する態度なのではないか、と思われるわけです。

座学であろうとなかろうと、言えることです。また座学であるとしても、椅子に座らない選択をすることもありうるわけです。いわゆる「お勉強」である必要もないでしょう。文字通りに「おしりにタコができるくらいに勉強する」必要は特にないわけです。しかし、様々な意味で多少の不安定を生ぜしめる覚悟というものが、継続的で効果のある、広義の学習にはどうしても必要になるのではないでしょうか。


「日常を変化させない」ということを最初の大きな前提とする人は本質的には永遠に変わらず、新しいものを身につけられないわけですし、変わろうとするのであれば、その意味で時間的な・精神的なリスクを支払う必要がある、おしりにタコをつくる覚悟が必要になることは認めざるをえないでしょう。

しかし、「何が何でもやる」という出発点を固持しさえすれば、そのうえでリスクを極小化することはできるのでしょう。「やる」ことで得られる果実が絶対に欲しいものであるなら、まずは「やる」と決める。リスクをも抱きしめる覚悟はしたうえで、やる。そのうえでリスクを最小限におさえることは必要ですし、どの程度「やる」かも考える必要がありますが、何が何でもやるのですし、一定以上のものにしたいならば少なくとも時間や労力というリスクは払う必要があるのです。

そうした態度がどこにあっても必要だと思っておけばこそ、つまり、楽に成果を出せるなどという甘い期待を捨ててこそ、新しいことを始めてゆくことができるのかもしれません。


・何らかのことをやると決めるのか、あるいは現状で得られているそこそこの満足を維持すると決めるのか、という点に関する決断が、最初にあると考えうる。良い悪いの問題ではないが、後者の決断は、「やらない」ことに許しを与えてしまう可能性がある。

・少なくともより良い果実を未来に得るために、新たに何かをやる・やりはじめると決断するのであれば、かかる目標が達成されていないという不満を感じたり、自分の生活のあり方を変革することに伴う一定の不安定が生じたりする、という意味でのリスクは必ず伴われる。その点を前提してこそ、つまり万事ハッピーにうまくいくという前提を放棄してこそ、新しいことを着実に始め・続けられるのではないだろうか。