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【239】「火の取り分」を決めることで、燃やしてはならぬものが見えてくる

簡単には消し止められない火事があると、私たちは消防車が水を撒くことに期待するものだ、と言えるかもしれません。

とはいえそれは、もちろん歴史上ごく最近にできた期待であって、かつては必ずしもそうではありませんでした。

そんなことをとっかかりにして。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


話をずらすようですが、私たちはかなりの部分、受動的です。

生まれたときからして受動的です。

「生まれる」という動詞は、ラテン語に遡ってみると、純粋な形式としては、受動態の形をしているわけです。辞書に記載される形で言えばnascor、あるいは不定法でいえばnasciという動詞は、形式だけ見ると受動態になっているわけですね。

ラテン語では、これに直接対応する「産む」という動詞があるわけではありませんし、受動態になっているのはあくまで形式上のものですが、イメージの起点にはなるでしょう。

英語だと「生まれる」という表現はふつうbe bornと表しますが、これも形式的に見れば能動態の表現ではなくて、受動態です。

こちらの動詞bearについては能動態の用法があり、「(子を)産む」という意味でも一応用いますし、「(木が)実を結ぶ」とかいう意味ではよく使います。

言語的な観点から後付けうるかどうかはともかくとして、私たちは自ら選び取ってこの世に生を受けたわけではありません。もちろん或る種のスピリチュアルな観念に訴えるのであればそのように言うことも可能かもしれませんが、ごく一般的に考えて、私たちは生まれる前にはなんら意思を持っていない(というか主体ですらない)わけですから、生まれるということに関しては選択を働かせていない、つまり受動的であるといっても大きな誤りにはならないでしょう。

そして、生きていく中で立ち会う様々な事柄も、私たちが決定して選び取った、というものは実のところかなり少ないはずです。

例えば私たちは生まれる家を選べませんし、生まれる国も生まれる土地も生まれる年代も選べません。

さらに言えば、もちろん私たちは特に一定の年齢に達すれば政治に参加する権利を得ることができるわけですが、一国の政治というものを思うまま能動的に動かしてゆける立場にある人はごく僅かでしょうし、多くの場合は制度や慣習に翻弄されるわけです。

あるいは一国の政治を動かせたとしても、世界規模の情勢の動きに対しては受動的にならざるをえない面が残ります。

こうして世界の制度や、周囲の人間や、様々な要素に対して、私たちは受動的であることを運命づけられていて、せいぜい能動的にできることといえば、それに合わせて変化していくことくらいでしょう。


特に、外界が好ましくない事態をもたらしかねないということを前提する限り、あるいは外界が私たちに常に害を及ぼしつづけるものだという或る種の健全な危機意識を持っている限り、私たちの生活というものは、四方に火を放たれた街をどのように迫り来る炎から守り抜くか、という或る種のゲームにも近くなります。

重要なのは、この炎というものを完全に鎮圧することはできない、ということです。私たちは外界から離れて生活することはできませんし、常に外界と接しながら生きているわけですし、その中で外界が不利益をもたらしてくるのを避けきることはできないでしょう。炎を駕馭することは叶わぬ夢です。

炎が思いの外優しければいいのですし、もちろんなるべく周囲の人間関係や制度との関係は円滑に保っておいたほうが良いのですが、外界が私たちの生活を脅かす可能性を想定する限りは、その外界を迫りくる火の手に例えることもできる、ということです。


永遠に消化できない炎に街が襲われているとして、水や消火剤が決して追いつかない運命にあるとして、私たちには何ができるのでしょうか。

そんなことを考えてみると、延焼を食い止めるために、一定の建物を破壊してある種の防火地帯とする、そうした慣習が想起されます。

おそらくは皆さんもご存知の通り、私の極めて限られた知識から言えば、江戸時代の消火活動というものは、もちろん消化器も消防車もない時代の話ですから、水を使うこともあったにせよ、風向きなどを見ながらなるべく燃え広がらないように「さすまた」などで家屋を破壊することでなされていました。

燃えるものを火の行く手から遠ざけ、燃えるもののない防火地帯を作って延焼を最小限に食い止める、という方策がとられていたはずです。

このように、建物などを破壊して延焼を防ぐという文化は実に西洋にもあって、特にフランス語にはfaire la part du feuという表現があり、ほとんど同一の意味です。

このfaire la part du feuという表現は、直訳するならば「火の取り分を作る」ということになります。英語に強いて訳すならmake a share of fireですが、直訳的な表現はないようです。

「火の取り分を作る」ということは、私たちが守り抜きたい部分を策定するとともに、火に対して譲り渡してしまう部分を作るということです。

実際に破壊した建物の建材を火に投げ込むかどうかは別にして、火を抑え込むために必要な犠牲として破壊するからには、あたかも火に対して取り分を与えているかのような格好になるのですね。

こうして、私たちが確実に守り抜きたい「取り分」を守り抜くために、相対的には重要性が劣るかもしれない部分を火に差し出してその「取り分」とする、という発想が、faire la part du feuという表現の背後にあるわけです。あたかも火が生き生きと攻撃してくる主体であるかのように捉えられているとさえいえるでしょう。


実に生きていくにあたっても、特に外界は熾烈に金銭やエネルギーを搾取してくるわけですし、殊によると攻撃してくるような場合もあります。

こうした状況にあっては、もちろん荒々しい炎の腕をすり抜けられればよいのですが、それが叶わないときには、少なくとも何を差し出して相手に満足して帰ってもらうか、あるいは何を破壊されるに任せるか、あるいは何をあらかじめ言っておいて損害を最小限に抑えるか、ということが重要になるのでしょう。

その観点から言えば、この比喩も捨てたものではないな、と思われます。


もちろん、全てを火に差し出してしまえ、というのではありませんし、「火の取り分」を作る発想は、何をどこまで捨てうるのかを考えることであり、これはとりもなおさず、絶対に捨ててはならないものを見定めて守り抜くための方策なのです。

言い換えるなら、「火の取り分」を作ることは、火に対して譲ってはいけないものを定めることで、譲り渡してはいけないものを守り抜くための方策である、と言えるでしょう。

実にモーリス・ブランショのLa part du feuという著作のタイトルは、(理解可能なことに)『防火地帯』と訳されることさえあるのです。「防火地帯」は謂わば火と私たちの間に置かれる、それ自体を火を防ぐという意味しか持たないもので、火のない空間を死守するための犠牲です。防火のために一部を火に投ずる、ないしそうして燃えるもののない更地にしてしまうということは、ある部分を火に投じてよいのかよくないのかを判別する作業を前提する、ということです。

こうしてみると、何を火に捧げてもよいか、という観点から明確にものを考えてみることで、自分が何を守り抜く必要を感じているのか、を明らかにしてゆくことができるのかもしれませんし、 後生大事に守り抜いてきたものが案外大切でなかったことに気づく、ということもあるかもしれません。


「火の取り分」を作るのは別段特殊なことではなくて、皆さんもおそらくは日常的に、無意識的にやっていることかもしれませんが、意識してみることで、ものの見え方は変わるかもしれません。

例えば、自分の給与と社会的地位を守るために、嫌な上司に媚を売る場合があるでしょう。このとき、プライドや倫理観というものを嫌な上司の取り分とし、そのことでもっと大切な金銭や社会的地位といった部分へと延焼するのを防いでいる、という成り行きです。

あるいは、逆と言えるかどうか分かりませんが、別様の「火の取り分」を作ることも、もちろん考えられるでしょう。良心の呵責に耐えかねて自らの勤める企業の悪事を告発する、という場面を想定することができるかもしれません。自らの信じるところのものや良心といったものを守り抜くために、あるいは良心の呵責を防ぐために、社会的地位や金銭や、場合によっては匿名性というものを危険に晒し、あるいは明確に犠牲に捧げる、ということです。

機先を制して弱点を曝け出すことで重要な箇所への攻撃を未然に防ぐ方針にもこの発想は見られるのでしょうし、あるいは自己破産によって取り立てを回避するのも(或る種の権利や信用を放棄する点で)「火の取り分」作りでしょう。


このように、「火の取り分」を作る発想は、或る種の積極的な防御の姿勢として有用かもしれません。

外界が燃え盛る火焔のように熾烈に襲いかかってくる、そうした火を決して鎮圧することができず、謂わば対症療法的に対応するしかないということを踏まえるのならば、

「火の分け前」として差し出せるものが何なのかを考えること、そして同時に、決して燃やしてはならないものが何なのかをあぶりだすことは、イメージとしては捨てたものではないのかもしれません。

無際限な延焼を食い止めて、何としても火から守らねばならないものを守り抜くためにも、そもそも切り離して犠牲にしてよいものと、決して犠牲にしてはならないものをはっきりと見定める必要がある、ということでした。

■【まとめ】
・外界による金銭的・時間的・精神的・肉体的リソースの蚕食は完全になくすことのできるものではないし、そもそも私たちは常に外界の変化に翻弄されつづける。

・そうした変化にあたって、自らの生活のうちで犠牲に捧げうる・放棄しうる部分と範囲を見定めておくことは決して無意味ではない。予め放棄しうるものを見定めておくことで、被害は最小限に抑えられ、また守り抜かねばならないものも明確になるからである。

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