見出し画像

【273】フランスのペンギンに学ぶ、辞書や専門領域の内的循環を脱する方策

皆さんはペンギンがお好きですか。私は好きです。日がな一日眺めていても飽きません。

ペンギンは英語でpenguinですが、フランス語だとmanchot(カタカナに無理に直すなら「マンショ」)です。なんだかへんな音ですよね。

今回はここから。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


上でも見たようにペンギンは仏語でmanchotと言いますが、これは「手(腕)のない人」をも意味する語です。

こう書くと、ピアノをやっている人や、フランス語に親しみのある人は、フランス語のmain「手」(やその背後にあるラテン語manus)との関連を疑いそうです。

これは実に正しい推測です。

manchotは、直接的にはラテン語mancusに由来します。mancusはそれこそ「手(腕)のない(人)」という意味ですが、これはさらに、manus「手」と-cusという接尾辞によって構成されています。この-cusは名詞に付され、形容詞を構成するものです(cf. bellicus「好戦的な」<bellum「戦争」)。つまりmanchotからはmanusへと遡れるわけです。

動詞pecco「罪を犯す」が存在の確認されないpeccusという形容詞に関連づけられること、これがpes「足」に関して、道行きや踏み場に関して誤ることと接続されるのではないかという説もあることを踏まえると、manus「手」に関する或る種の誤りをmancusという形容詞が示す、というのもわからない話ではありません。

こうしてできているラテン語のmancusは、フランス語では動詞manquer、仏語manqueというかたちで、一般に「欠落している」ことを表す語として豊かに保存されます。たとえばTu me manque!と言えば「あなた(の不在)が私に欠落感を与えます」つまり「あなたが恋しいです」ということです。

そしてさらに、「ペンギン」を表すmanchotというかたちでも保存されるのですね。おそらくは、手がない・翼がないように見えるペンギンを、「手無し」つまりmanchotと名付けたのでしょう。


さて、以上ははっきり申し上げて、私がラテン語をある程度読めるからできた作業です。

仏語辞書として権威のあるLe Grand Robert(全6巻)を見ると、なるほどmanchotについてはラテン語mancusや仏語manquerとの関連が言われます。

が、フランス語の動詞manquerや名詞manqueを引くと、こちらについては、ラテン語mancusを参照させる(そしてmanchotとの関連を示唆する)のみで、ラテン語manusやフランス語main「手」への参照は見られません。仏仏辞典は、manchotとmanquerでループを閉じていて、ここからmainを弾いてしまっているわけです。

しかも、羅仏辞書としてよく使われるLe Grand Gaffiotは、語源に関する情報も(語釈も)極めて不十分なので、mancusを引いても、manusという語へと我々を導いてはくれません(Oxford Latin Dictionaryなら導いてくれます)。

manchotがmainと関係あるのではないか、とうっすらと思っていても、フランス語しかできなければ、Le Grand Robertを見て「あ、mainとは関係無かったんだ!」と思い込んで、manchotとmainを分断してしまうかもしれません。場合によってはLe Grand Gaffiotまで見てその信念を固めてしまうかもしれません。

これは極めてもったいないことです。フランス語が母語で、羅英辞書などを引く発想がなければ、ここで終わってしまうかもしれません。

もちろん、どちらの辞書も悪くはないのです。辞書のスペースは有限ですから、編集方針に応じて、削るべき要素は削るべきでしょう。

しかし、さまざまな言語を、さまざまな辞書を駆使しなければ、予感していたはずのフランス語内部での関連(main-manchot)にさえ到達せずに終わってしまうのです。


であるからには、ラテン語が読めないとしても、羅英辞書を見るとか、あるいは項目によってはより詳しい羅独辞書を見るとかする必要があるというわけですね。

別にラテン語に限らず、文章の意味を深く正確に理解したいのであれば、多くの辞書を持つことは絶対に必要になります。英和辞典だけで何冊もあるということは皆さんもご存知かと思いますが、それぞれに編集方針があるのですから、違う視角を与えてくれるもので、いずれかが大きく誤っていることは(あまりない)と言ってよいでしょう。

また、英語を読むのに英和辞典を使うだけでは足りません。英英辞典のほうが理解しやすいということもありますし、単に収録語数や語義の豊富さという意味でOxford English Dictionaryを超える英和辞典は存在しませんから、英語を深く読み・学ぶのに英英辞典は必須です。

あるいは学習過程においては、多様な角度を持った辞書を持つことは極めて有効でしょう。私はドイツ語やロシア語の授業を受けているときには、独和辞典や露和辞典のみならず、独仏辞典や露仏辞典も使っていました。英語で作業をしなくてはいけないときには、英英辞典や英和辞典も使いますが、作文するにあたっては仏英-英仏辞典や独英辞典もよく使います。

こうした作業の前提としては、多様な言語を学んでおくことが必要になるでしょう。私は幸いラテン語もフランス語も専門的に使っているわけで、当然英語やドイツ語やイタリア語も使うわけですが、そうでなければ羅仏辞書で満足して、mainとmanchotを切り離して終わっていたかもしれません。


私は別に、「だからラテン語を読もう」と言いたいわけではありません(もちろん、ラテン語とギリシャ語を含む古典語は、日本の高校でも選択必修にしたほうがいいと思いますが)。

私は別に、「だから英語をやるにしても、英英辞典と英和辞典を複数冊用意しよう」という、(私から見れば正しいとはいえ)小手先の方法論を提示したいわけでもありません。

別に「外国語」学習だけの話ではなく、学習全般においてそうだということです。多様なチャンネルを持っておかなければアクセスできない・アクセスできていないことにすら気づかないかもしれないし、そうしなければ表層を撫でるような循環構造にとらわれてしまうことがありませんか、という話です。

西洋語ということになれば、当然ラテン語やギリシャ語は視野に入ってくるわけですし、あるいは他分野にも目が開かれていくことでしょう。私も素人ながら、昆虫学に関するフランス語の啓蒙書など読んでいますし、ドイツ語で数学の問題など解いていますよ。そうしてこそ、自分がメインで力を入れているものに関しても深みのある学び・発信が可能になるのではないか、ということです。

同じように実践においても、自分が専門とするかどうかは別として、また重み付けは必要であるとしても、自分のやっていることしか知らない、というのは、その「自分のやっていること」に対する向き合い方すらも浅くしてしまうのではありませんか、ということです。

専門に特化するということは、もちろん必要です。人は全てを行うことはできませんし、そんな時間はありません。しかし、惜しみながら泣く泣く捨てる態度を持ってこそ、未練がましく他のものをつまみ食いするようになるわけで、そうして初めて生まれる深みもあるのではないかな、と感じられる次第です。

(……もちろんこうした言い分が、特化しきれない人間の自己弁護としての側面を含みうることは承知していますし、そうした反省なしに振り出されるとすれば、あまり褒められたものではありませんが。)

■【まとめ】
・専門に特化すると言えば聞こえはいいが、特化した結果としてその専門に関する見識がおろそかになる可能性はあるので、周辺領域に対する目配りを怠ってはならない。