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【294】人間、この弱き旅人、あるいはそれ以前の存在……(Busy『Venus Say...』と神学)

はるか昔に耳にして記憶にとどまっていたBusy『Venus Say...』の歌い出しは「弱き旅人よ 引き返すがいい 倒れてしまう前に」というものでした。

宇宙飛行士を目指す少年少女を描いた『ふたつのスピカ』の主題歌だったからには、作詞者であるところの新藤晴一が原作漫画を知っていたのであれば、そして作品と主題歌の内容をリンクさせようという明晰な意図があったのであれば、「弱き旅人」とはまさしく、(無謀にも)見果てぬ宇宙へ挑もうとする人間のことを意味していた、と言えるでしょう。

こんな比喩からの自由連想です。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


翻って人間を旅人に例える発想は、キリスト教神学にも見てとられます。今ここにある生命を生きる人間は「旅人(viator)」と言われたわけです。これは死後に天国=祖国(patria)へとたどり着くことを前提とした表現であって、宇宙への旅とはまた違った趣を持つものですが、ここは(不当にも)自由連想でつなげます。

実際、原罪の本質を「自然本性の傷」と特徴づけるカトリック神学にあって、秘跡が取り去りうるのは、原罪に対する究極の罰としての断罪・地獄送りのみであって、種々の罰——お腹が空くとか、喉が渇くとか、いずれ死んでしまうとか、悪への誘惑に抗えないとか——を取り去るものではありません。つまり神学はこの生を生きる人間の、拭い難い弱さを説いています。

信仰心があろうとなかろうと、人はいずれ死ぬという意味においては死への旅路を行く旅人なのですし、外部に翻弄されて、まっすぐ歩んでいくこともできないくらいに貧弱です。


私たちはこの旅路に拘束されています。旅路を歩むことを運命付けられているのであって、しかも引き返すことは許されてはいません。

普通の旅行であれば、万一のことがあれば自宅へと引き返すことができるはずですし、最終的な解決手段になります。

しかし、私たちはかつていたかもしれない心地よい場所に帰ることはまずできません。

時間を巻き戻すことはできないわけですし、その点を諦めるにしたって、既に人生のいくつかの橋を渡り過ぎてしまって、その橋は既に切って落とされていて、元いた小島へと戻ることすら絶対にできない、という成り行きです

できることといえば、これからの歩みそれ自体を心地よいものにしていくか、これから心地よい場所に歩んでいくか、ということぐらいであるのでしょう。そうした作業をいずれ死ぬまでつづけるのが、旅人であるところの私たちの宿命です。


このように、よりよいありかたを目指して歩んでいくことを考えるときに何よりも必要になるのは、羅針盤ないしはコンパスと地図であるように思われます。あるいは星の運行から方角を割り出す知識であるように思われます。神学の例で言えば勿論、それは聖書(や、カトリックであれば伝統や、解釈に関する権威を持つ者)の教えるところです。

そしてコンパスと地図を用いるにしても、自分が置かれた状況を、つまり自分がどこにいるのかということを正確に判断するために、周囲を見渡すことであると考えられます。

あるいは周囲を見渡してもどうしても分からないのであれば、近くにいる人に尋ねる能力も必要になるでしょうし、自分が当座目指す目的地になんとか連絡をつけて、そこへの歩み方を問い尋ねることも必要になるでしょう。

所詮は死ぬという前提を持ちながら、ということは常に既に仮置きというかたちで、目標や目的というものを定めつつ、その目的地との関連において、自分がどういった位置にいて、どういった方向を向いているのか、どういった経路を採用すべきか、ということを吟味することが大切になるということです。

その際にはもちろん、先行者に意見を尋ねることもあれば、周囲にいる人間に打てる手を教えてもらうこともありうるでしょう。流通している本などに頼ることもありうるでしょう。


あるいはそもそもどこを目指して歩んでゆくかを考えるにしても、私たちはフリーハンドで考え出すことはできません。知らないものを欲することはできませんし、生物としての極めてプリミティヴなものを除けば、言語的存在である私たちは、常に人や周囲の情報との関係において言語的に欲求を持つ(というより、欲求を自らのものとして再帰的に認識する)わけです。

私が常にフィレンツェに行きたいのは、数度フィレンツェに行ったことがあって一定の認識を得ているからですが、初めてフィレンツェに行ったのは、様々に噂を聞いたり本に読んだりしていたからであって、情報なしに放置されていれば、フィレンツェという都市の存在すら知ることはありえなかったわけです。行きたいところを決めるには、行きたいところを何らかの意味で知っているのでなくてはなりませんし、その前提があって初めて、行き方を構想できるのです。

フィレンツェを知らねばフィレンツェに行きたいとは思えませんし、フィレンツェに行きたいと思わねば、フィレンツェへの行き方に思いを致すことはできず、列車やホテルを予約することなど不可能だということです。

神学の例で言えば、人は独力で神や天に関する信仰を持つことなどありえず——神的なものの助けを得て信仰に至るということは、理論のうえではありえますが——、独力で聖書を読んで然るべき教えに至ることなどできず、独力で天国への方角を見定めることもできないのです。


重要なのは、私たちが意図や意識の有無を別にしても既に旅路に放り込まれているということ、(命を断つというかたちで旅を止めることはできても)引き返すことは決して許されていないということ、自分の頭脳や知識だけで旅路を歩むのは極めて困難だということです。

私たちは極めて弱い旅人で、何らかのかたちで周囲に依存しなければ最初の一歩を歩みだすことすら、「旅路」としての意味を与えることすらできません。何かとっかかりになる知が与えられなければ、旅人ですらない、砂漠に放り出されたものにすぎないわけです。おそらくは大人であるところの私たちにとって、「とっかかり」になるのは、これまでの経験であり、教育でしょう。ここからさしあたりの目的地を見出してようやく、何の客観的意味もない私たちの生命は「旅路」としての仮初の意味を得ます。

その仮初の意味も、単体では極めて薄弱で、私たちを確かな足取りで歩ませるには不足でしょう。コンパスや地図がさらに求められるのですし、それはやはり周囲との関係において与えられるものです。


砂漠で飢え乾いて死ぬ運命、あるいは路上で行き倒れる運命を従容と受け入れるのでないなら、少なくとも旅を始めるために、ヴァーチャルで良いから世界を知る必要があるでしょう。仮に現状で満足する(現状を目的地とする)という選択を最終的に採用するのだとしても、です。

そうした場所へと歩んでいくにしても、私たちは弱いので、いろいろな手立てに依拠し続けなくてはならないでしょう。自分の頭を、足を、直感を信用しすぎるのは危険だということです。

私たちは弱き旅人であるということ、あるいはそれ以前に旅人ですらないかもしれないという発想は或る種ネガティヴなものに響くかもしれませんが、そうした一個の諦めにも、地に足のついたモデルとしての適切さがあるのではないでしょうか。


・「死に至る旅のなかで、さしあたりの目的地を見出しながら歩んでいく」というモデルで人生を捉えてみることができる。

・そもそも当座の目的地を見出してこそ「旅」が始まるが、それも周囲から情報を摂取してこそであって、独力では困難である。さらに、目的地を設定しただけではその目的地に至ることはできず、様々なかたちで周囲に依存する必要がある。そうした意味で私たちは「弱き旅人」である。

・予めそう思っておくことで、確たる歩みを重ねることが出来る面もあるのではないだろうか。