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【322】赦しと約束(アレント『人間の条件』)

先日アップした「【319】言葉は悪霊の火、というイメージ」という記事をある意味でインスパイアしていたのは、コメントをくださった平賀さん(ahiraga)が指摘されている通り、某国の元首相の言葉でもありますが、他の著名人の発言が目に入ってきたことも原因ではあり、またさらに思い返せば、実に8年ほど前から親しんでいるハンナ・アレントの著作にインスパイアされている面の方が強かったのかな、とも思われます。

人間は複数で存在する、という条件から出発して、開かれた空間(現れの空間space of appearance)において言語と行為を振り出す人間の営みは、実に不可逆にして予測不可能ですが、そうした限界に寄り添うかたちで、赦しと約束が機能するのでした。

ギリシャ史の先生はアレントによる古典テクストの読みの粗雑さをよく指摘されていましたし、実際そういう面はあると思いますが、いい加減なところが目立つとはいっても、あれだけ一貫した何かを提示できているというのは素晴らしいことです。

その著作、つまりアレント『人間の条件』の思い出について、先般の記事に言及しながら。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


何につけても『人間の条件』の本文をお読みいただくのが一番良いと思いますし、これはそもそもドイツ語を母語とするアレントが英語で書いた著作ですから、日本語訳で読んでもそこまで大きく意味を取り違えるということはないと思われます。私は日本語では読んでいないので、お約束はできませんが、ちくま学芸文庫から上下巻で出ていますので、是非どうぞ。

『人間の条件』の中の、特に第5章、さらに絞れば第32〜34節にかけては、実に言語を交わす存在としての私たちにとって示唆に富む議論が展開されているようです。

第5章の全体は、英語ではactionというタイトルになっています。おそらく日本語訳では「活動」という訳になっているかと思われます。アレントが言うactionとは、極めて大雑把に言うのであれば、開かれた場において、人間がほかの人間との関係の中で実施する営為のことであって、ここには(本来の意味に近い)政治的な言語を用いるという所作も含まれます。

このactionがどういった営みとの区別において導入されているかといえば、ひとつはlaborつまり労働です。アレントの言葉遣いでは、労働とは主に、生命を維持するための動きであって、即座に苦痛と結び付けられます。

(労働と苦痛が結びつけられることに関しては、たとえば次の記事をご覧ください:【175】答えが長くなることを恐れてはならない!

もうひとつ、actionと区別されるのは、work——恐らく「仕事」と訳されるのですが——です。workは、永続的とは言わずとも、極めて長い間残りうるような対象を物理的世界において作り出す行為のことです。例えば芸術作品は、残ります。芸術作品でなくても、(主に)物体的なものを作るという行為です。実に芸術や音楽の作品は(ラテン語opusの訳語としての)workという可算名詞で指示されます。

actionはこれらに対して、何らかの目的のために行われるわけではなくて、人間の置かれた複数性という条件から直接的に由来し、いわば目的が内在しているものです。

actionが指示するところの極めて広範な意味での政治的行為、ざっくり言えば開かれた空間における行為や言葉は、非常に儚いものです。対人的な行為の結果はしばらく残りますが、その行為自体はすぐに消えます。言葉を発すればその次の瞬間に言葉は消えるわけです。もちろん、議事録に書き留められるという場合もあるかもしれませんが、基本的には消えるものです。

しかし、それは消えてしまう。つまり芸術作品のようなかたちで額縁に入れられて物的対象として存続するわけではありません。

けれども、ひとつのプロセスとして、一度発した言葉や行為は取り下げることができない、取り返しのつかないものですし、他の人に解釈されて、あるいは他の人の行為を誘発して、予期せぬ波及効果を永続的に生みつづけます。この意味で、actionは「悪霊の火」ですし、actionの一部としての言葉はやはり「悪霊の火」と言えるかもしれません。つまり、行為や言葉を発した者の統御を離れて、予期しえないような効果を生みつづける、ということです。


こんな少しく粗雑なアナロジーを認めるとすれば、アレントがactionの性質に対して与えている「治療薬(remedy)」に関する考察もまた、私たちになにがしかを示唆するようでもあります。つまり、統御不可能なおどろおどろしい側面ばかりではなく、言語とともに生きていく私たちが手にするわずかばかりの導きの糸を得られるようでもあります。

先ほども述べたように、政治的行為や開かれた空間における言語使用は、極めてはかないものですが、取り下げることができず、しかも予期せぬ効果を永続的に生みつづける、という際立った性質があります。(これをアレントは、actionはprocessである、という仕方で規定します。)

取り下げることもできず、また帰結を予期することもできないというのは、人間にとっては極めて大きな重荷になることでしょう。

もちろん重荷は様々なところにあるわけで、例えば先ほど見た労働においても、身体の苦痛という重荷があるわけです。仕事(work)においても、いくらこの世に対象を作り上げていっても、そうして作り上げたものの全体が無意味だという想念にとらわれる可能性はあるわけです。

労働や仕事の場合であれば、外部から意味づけを与え直すことができるわけですが、actionつまり政治的行為や言葉の使用においては、その弱点つまり不可逆性(irreversibility)と予測不可能性(unpredictability)に対する治療薬は、actionの領域そのものに存しているとアレントは見ています。

こうした大胆な見方が正しいか正しくないかはともかくとして、アレントの議論を軽く追うのであれば、actionは撤回することができないからこそ、人間は良くない効果を招来する活動や表現を赦すことができるのではなくてはならず、また効果を予期することができないからこそ、約束できねばならないのだ、と言われるわけです。

つまり不可逆性に対して赦し(forgiveness)が、予測不可能性に対して約束(promise)が、「治療薬(remedy)」として立つというなりゆきです。


先般の記事では、つまり言葉を「悪霊の火」にたとえる記事においては、いわば私は予防的な対応のみを問題にしていました。

つまり言葉は恐ろしい効果を持つものだから、十分に日頃から訓練を積まなくてはならないよね、ということを書いていました 。

言葉を使わないという選択肢はないわけですし、であれば、言葉を発する謂わば前段階に意識を向ける必要がある、ということです。

これに対して、アレントが積極的に提示している「赦し」とか「約束」とかいったモメントは、actionの領域においてひとつの行為や言葉が発揮しうる効果から逆算して出てきた、しかしそれ自体言語に関わる行為である点で際立っています。

特に「赦し」に至っては、言葉が発された後にどうするか、ということに関わります。その意味で、また別の仕方で持っておくべき、あるいは人間が持ってしまっている(けれども改めて注目してみてもよい)、言葉を含む活動に関する精神的な体制がある、ということが示唆されるようです。

それが具体的には、特に相手の言葉に接するときに発揮すべき赦しであり、あるいは特に他人や、あるいは自分との間に交わして未来を固定しようとする約束であるということです。


何でもかんでも赦せばよいというわけではありません。

しかし、赦す可能性が前提になければ、過ちを犯した人は決して再び言葉を紡ぎ、行為をもって他者にはたらきかけることができなくなってしまいます。謂わば政治的主体として抹殺されるわけです。

処罰や償いがあるとしても、それは広義の活動の場へと復帰することを前提としたものであるほうが健全だと言えるでしょう。

もちろん、法の名のもとに罰が課されることを否定するものではありませんが、単なる処罰は多くの場合、政治的主体を抹殺するものではないはずです。

(この点は、人間が避け難く身体を持っており、身体を失えば精神が拠り所を失う、という極めて困難な状況と、死刑を含む身体刑の位置付けに関わります。この点については議論する準備を持ちません。)

翻って、相手を赦しうる可能性を持っているのでなくては、自分が赦されることも想定できない、とも言えますし、それゆえ赦しがありうるということを想定しなければ、透明かつ闊達な言論は難しいようでもあります。

つまり、自らの行為や言葉が決定的に不可逆であることを知りつつも、不可逆なかたちで燎原の火のごとく広がる様々な効果の連接をある一点で断ち切る赦しの可能性が残されている、ということを知らなければ、萎縮し引きこもる可能性が出てきてしまう、ということです。

もちろん、赦されると思って気軽にバンバン言葉を振り出すようでは困りますし、無責任であれというわけではありません。取り返しがつかないと思ったことのない人間に、何であれ取り返しをつけることなどできないように思われます。赦しをはっきりと期待する罪人に赦しを与える気にはならないものです。注意深く言葉を選ぶべきである、という点は変わりません。

とはいえ、少なくとも、他者の言葉や行為に向かい合うときには、それがいかにまずいものであっても、何らかの意味で赦す可能性、つまり再びその人が開かれた空間において言葉を紡ぎ、行為を展開させてゆく可能性を担保する態度が、なによりも健全に私たちが言葉を積み重ねていくために必要になるのではないか、と思われるわけです。

赦しうるということで、行為や言説が可逆的に抹消可能なものになるわけではないけれども、つまり赦しは不可逆性を抹消することはないけれども、対症療法的な「治療薬(remedy)」としてある、ということですし、こうした対症療法がなければ、私たちは不可逆な営みを健全に継続することがなかなか難しいということです。


「約束」について言えば、これもまたひとつの限界にある行為です。

いくら約束しても、予測は不可能です。

デートの約束をしても、すっぽかされる可能性はあるわけです。約束は予測不可能性に対する治療薬ではありえても、根治させるタイプの薬ではありません。

自分との約束を考えても良いかもしれません。広く言って複数の人間が関わることを前提とする政治哲学の枠組みのうちにあるからには、アレントは自分自身との約束(や自分に対する赦し)というモメントを(いたって正当に)排除します——「孤独や孤立のうちになされる赦しと約束は現実感のないもので、自らの目前で演じられる役どころを意味するに過ぎない」(H.Arendt, The Human Condition, 2nd ed. with a new foreword, The University of Chicago Press, 2018 (1958), p.237)。とはいえ、自由に連想を広げることはさしあたって可能です。皆さんも思い浮かべていただければわかる通り、小学生の頃に、あるいは中学生や高校生の頃に、あるいは大学生の頃に持っていた夢ないしは自分に課した約束をどれだけ守っているか、ということを考えてみると、実に不安定であることがわかると思われます。あのときはあんなにやりたいと思っていたことがいつの間にか色あせていた、そうした経験はあらゆるところにあるのではないでしょうか。

実に、未来が予測不可能だからこそ私たちは約束するのですが、約束したからと言って未来が確実になるわけではないのです。

しかし、予測しえない・確実にならないからといって何も目印を立てずにいれば、何ら行動を積み重ねていくことはできないのですし、未来を構想することも、最初の一歩となる行動や言葉を振り出すこともできないというなりゆきです。その第一歩が約束であり、約束できるという我々のありかたなのではないでしょうか。

予測不可能性を考慮したうえで、なおなにかしら未来に対して約束を立てなければ、つまり揺れ動くことを承知で何らかの目印を立てておかなければ、進むことができない、ということです。

実に海に目印を立てるようなかたちで約束を立てる、目印が波間に消えてしまったり、元あった場所からはかけはなれたところに流されてしまったり、という可能性があるのだとしても、目印を立てねば、つまり何らかのかたちで約束しなければ、活動を賦活するのは難しい、ということが示唆されるようでもあります。


今回行ったのはいわば勝手な連想ゲームですが、実に言葉を使い行為する私たちの根本にある不可逆性や予測不可能性は、赦しや約束を行うこととセットになって現れるものだ、というのは、妥当な議論ではないでしょうか。

もちろん(繰り返しますが)、赦されるから何を言ってもよいとか、予測不可能なことは織り込み済みだから約束は破ってもよいとかいうことではありません。

しかし言語(を使う人間)の健全なありかたを構想するにあたっては、こうした微妙な、割り切れない面のある図式も実に有効だと思われますし、先日振り出した記事の背景にはこんな考えもあるのですよ、ということでした。

■【まとめ】
・人間の行為や言葉は、一度振り出してしまうと引っ込めることができないうえ、振り出した者の意図とは関わりなく解釈され、様々な行為や言葉を新たに誘発する。実に悪霊の火のごとく、終わりなく展開される。

・こうして(アレントが言うところの)人間の「活動(action)」は、不可逆にして予測不可能であるからこそ、赦しと約束がある。赦しは不可逆性を抹消せず、約束も十全な予測を可能にするわけではなく、不完全な対症療法として機能するのみであるが、両者は少なくとも健全な「活動」を可能にする条件である。