【209】書かれた速度で、あるいはより遅く読んでみる作業

モーツァルトが生涯に書き留めた量の楽譜は私たちが手で書き写そうと思っても写し切ることはできない、という話を聞いたのはもう15年ほど前のことだと思います。

この話の真偽はともかく、30代半ばにして亡くなったモーツァルトの残したものの量がそれだけ膨大だった、ということは、私たちを驚かせるものです。

そんなことから発して。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が【毎日数千字】書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


冒頭のエピソードが興味深いのは、ふつう、同じ文字数・同じインクの量に対応するのであれば、読むほうが書くより速い、という事実に由来します。

ごく当たり前のことを言っているようにも見えるかもしれませんが、書かれたものを読むのに必要な時間は、書くために必要とされる時間よりも短いのです。

だからこそ私たちは、読むことによって先人から何がしかを効率的に吸収し、先人を超えてゆける面があるのでしょう。

翻って、読む作業を通じて何かを得よう・引き出そうと思うときには、書いたのにかかったであろう労力・時間や、書くのに要したであろう背景に思いを致さなければ得られないものは、なかなか多いものです。

そして、このように書いた側の条件に気を配る際に重要なのは、あるいは必然的に求められるのは、書かれた速度で読むということ、あるいは書かれたのよりもゆっくりと読むということでは無いかと思われます。


例えば、哲学なり文学なりのテクストを精読しようというときに(とりわけ日本の)大学で教えられる方法論は、とにかくテクストの一言一句の意味を落とさずに読むということです。

この作業は多くの場合、特に授業で念入りにテクストを読むという場合には、元の著者が書くのにかけた時間よりもよほど長い時間をかけて一つのテクストを読みます。

哲学を大学でやっている人が(ときに自慢げに)語りがちなのは、「3時間の読書会で2行しか進まなかった」とか、あるいは「1時間半かけて読み進めようと思ったら寧ろ遡ってしまった」とか、そういった様子です。

ゆっくり読むことが必ず偉いわけではありませんが、ゆっくり読まねばわからないことだらけなのですね。

もちろん、ゆっくりと進むことやなかなか進まないことを、歪んだ快や特権意識の源泉にするのはあまり褒められた立場ではないかもしれません——実に、自分たちは他の連中が知らない「真実」を知っているのだ、と思いこむ或る種の思想に通じるものです。

しかし、内容をしっかりと理解していくためには、周辺の情報を引っ張ってきたり、あるいは書かれている部分の構造や、単語一つ一つの背景や、文法事項に、おそらくは作者自身よりも極めて高い精度の注意を向けて取り組まなければ、私たちは十分にそのテクストに接近することはできないでしょう。

そうしてこそ、ときに著者本人よりも巧みに、テクストの持つ効果をテクストの側から明らかにできるのです(なお言うまでもなく、テクストの解釈における最終的な審級はテクストそのものであって、著者は特権的な解釈者ではありません)。

どうしてこの語順を採用したのかとか、どうしてこの冠詞を使わなければならなかったのかとか、どうして数多ある類義語の中からこの語が選ばれているのかとか、この語は著者の他のテクストではなかなか見ないけれども、いったい出典はあるのだろうかとか、あるとすればその出典はこのテクストに対していかなる効果を及ぼしているのだろうかとか、一つ一つのテクストに応じて、その都度調査していく必要があります。

そしてこの作業には、専門性が高まれば高まるほど、一人で行うのが難しい面もでてくるので、読書会を組織して一緒にテクストを読むなどするのです。

書かれた速度で、あるいは書かれたものよりもゆったりとした速度で、読むことになるのですし、そうして初めて、書かれたものの内容を自在に説明し、その価値や射程をはかりとることが、あるいはそのテクストをひとつの基準として持つことができるようになるのでしょう。


哲学とか文学とか、史料を含むテクストを媒介とする他の学問分野とかは勝手にそうやって読んでいればいいよ、とおっしゃる方も多いのかもしれませんが、私見では、或る種の実用書においても「書かれた速度で読む」という意識は重要だと思われるのですね。

実用書においてそうだというのは、実用書に書かれているノウハウの類や、あるいはノウハウが抽象化された、ふわっとしているように見える、しかし本質的な内容というものは、流そうと思えばいくらだって流せるのですし、特に後者は流しがちです。

ノウハウはしっくりこなければ捨てられるのでしょうし、抽象化された原理原則はたいてい(悪く言えば)陳腐な外見を持っていますから、なかなか素直に受け入れづらい、というなりゆきです。

自分の身に当てはめて血肉にしようと思わなければ、そのまま流して通り過ぎることもできるのですし、くだらないことを言っているな、まあ大したこと言っていないな、と思って通り過ぎることもできるわけです。

専門に特化したツールや、専門に特化したやり方が説明されているのであれば、自分の専門とそのテクストの専門が合致しているのであれば、そのまま何か得たような気持ちになれるものです。しかし、自分の専門からあまりにも遠く見える場合、即座に捨ててしまう、ということもありうるでしょう。

あるいは抽象的で波及効果の高い内容が提示されている場合、見かけは当然陳腐になってきます。つまり、当然のことしか書いていないように見える本というものはよくあるものです。

特に自己啓発本の類は、あからさまに反科学的・非科学的な装いをとっているか、あるいは単に平凡・陳腐・退屈に見えるかであって、前者をありがたがる人のことは私の想定の外にありますが、後者の場合には冷笑とともに捨て去る、ということがありうるでしょう。


しかし、そうしないでじっくり向き合ってみる、つまり書き手がそのテクストを書くまでに、あるいは特定の表現を選び取るまでにどのような知的・実践的経験を経てきたのか、ということに思いをいたしながら、あるいはその点を他の文献を渡りながら、ひとつひとつ突き止めてゆく、そうしたプロセスを経ながら読むことで得られるものも多いはずです。

あるいはそのように読んでみてこそ、一見蛸壺化している、あるいは一見陳腐なテクストを、自分へと、外部へと開いていくことができるように思われるのです。つまりテクストの可能性を引き出し、生かしてゆけるように思われる、ということです。

内容の実用性をうたうテクストがなぜ有用であるのかといえば、それはそれぞれの作者が特有の立場から、具体的経験から出発して自らの言葉を編んできているからです。ときに具体的なまま、あるいは抽象化されて語られる内容は、読む側である私たちにより抽象的なレヴェルに高められて、また自他の具体的な条件との対応を探られることで、真価を発揮することでしょう。

読む側である私たちにとってもまた、個別具体的な内容だけではなく、抽象化された姿だけでもなく、抽象化される前の具体的な相の方に、あるいは具体例の彼方に見出しうる抽象的なレヴェルにまで思いを馳せながら相手を読むこと、それゆえ書かれたのと同じ速度で、ないしは書かれていたのよりもずっとゆっくりとした速度でテクストに取り組んでみることで、見えてくるものがあるのでしょう。

そうしてみることで初めて、無価値に見えた言説の価値が見えてくる面もあるのだと思われます。

もちろん時間や労力の限界もありますが、表面をうっすら撫でるタイプの読解に満足せずに、腰を据えて、テクストをテクストの内側から破るような読みを行うことは、困難でありながらも、多大なリターンを与えるはずでしょう。

■【まとめ】
・書かれた速度で読んでみる。単にゆっくり読むのではない。ササっと流すのではなく、テクストには直接的に書き込まれていない様々な要素に念入りに注意を払ってみる。

・たとえば、具体的な内容を抽象的な原理原則にまで高めながら読み、抽象的な内容は自他の具体的なレヴェルに適用しながら読んで見る。

・このようにゆっくり読むことで見えてくるものも、極めて多いだろう。