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【254】目標への最適化+強制的な「遊び」で突き抜ける

今日は語学の訓練の方向にかこつけて、物を学ぶこと全般に対して言えそうな方法論、ないしは態度というものについて少し述べてみたいなと思います。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


学ぶにあたっては、何であれ仮置きで良いから目的を定めておく、ということが極めて有効と言えるでしょう。大海へ漕ぎ出すにせよ、街を出て歩き出すにせよ、仮のものであっても行き先がなければ、どこに行き着くこともありませんし、そもそもどういった経路・交通手段をとるべきかも判然としないままでしょう。

例えば私が英語の勉強をわりと真剣に始めたときには、さしあたって「東大に、特定の科目についてはブチ抜けた成績で合格する」という目的があったわけで、そのために何をすれば良いかを考えてみたわけです。

ただ合格するためなら、普通に東大の入試問題を解くのは有用な対策にはなるにせよ、英語という科目の特性上、専門性の高い文章を色々自分で読む努力をしなければ安定的に高い点数を叩き出すことはできないと思われました。

そこで結局は、入試用にチューンされた細切れの・生ぬるい文章ではなく、原書を4000ページから5000ページ程度読み破る方向に舵を切ったわけです。

途中から受験がどうでもよくなってしまい——受かるだけなら受かるだろう、と思って気を抜いてしまった、とも言えます——、問題演習もしなくなったからか、結果として本番での英語の点数は8割5分程度の得点に収まりましたが、これは適切な(?)目標の変化によるものであって、特に気に留めませんでした。


フランス語に関しては、最初から哲学の古典を読めるようにという気持ちで鍛えていましたし、いつからかは、哲学を中心とした周辺分野の原典を読んで、それに関連する分野の論文を読み書きできて、それについて口頭で議論できれば良い、というところまで目的が広がっていきました。

こうした目的に即して、大学の授業を取ってみたり、あるいは文章を読みながら使えそうな表現をメモするようになったりしたわけです。

その中で、フランス語で読まなくても良いものはフランス語では読まない、という方向に舵を切るようになりました。

読めるものは何でもフランス語で読んだ方が幅は広がるのですが、他の勉強や仕事に割くべき時間との兼ね合いというものもあるわけで、つまり全部フランス語で読むというある意味ではグッドな方策と、フランス語で選んで時間がかかるものについては日本語でさっと済ませてしまうという(時間を浮かせるという意味で)同様にグッドな習慣とを天秤にかけたわけです。

目的に照らしてどちらが良いかということを考えて、さしあたって、後者を選択したという成り行きです。


実に目的を定めて、その目的に向けて最適化された方法論を考えるということは、人間のリソースが常に限られている以上は必要なことですし、この点があやふやになることが多いからには、我が身にも注意を促しておかねばならないことです。


とはいえ重要なのは、あまりに自分の目標や目的を狭めすぎて、つまり、「私はこれしかやるつもりがないから、これだけのことしか勉強しない」あるいは「私はこうした方向でしか学ばない」と考えて、そうした態度をあまりにも強化してしまうと、その目的へと秩序づけられた範囲で必要な力さえ磐石にはならない恐れもある、ということです。硬化しあまりに先鋭化していると、思わぬところで足をすくわれる可能性が出る、ということです。

目標を定めて何らかの勉強することになったら、もちろんその範囲・方向性での勉強を、最適化されたかたちで・最大の効率で進めようとするのは重要ですし、なんでもかんでもやたらめったらに手を出すのはよくないにせよ、狭めすぎずに・緩めすぎずに、しかし一定の「遊び」を持たせておくということも必要だというなりゆきです。

その「遊び」というのは、単なる「休憩」ということではなく、自分が定めた範囲から「ほどほどに」ずれた情報が飛び込んでくる環境ということです。ただ一点を支えにして立つのは危ういからには、柱を太くしてゆく、あるいは柱の心棒のまわりにもきちんと建材をめぐらすということです。

そのあらわれとしては、何もしていない時間を失くすということでもありますし、あるいは


語学に話を絞るなら、このように強制的に幅を広げ遊びを持たせるのに役立つのが、留学という機会なのですね。

特にある程度の専門的な準備があって、漠然たる「語学力向上」「人生経験を積む」という目的以外に一定の目的がある場合に、特に留学が有用になりうるのはそうした理由からです。

フランス語でフランス語の文献を読んでその内容を理解したいだけであれば、あるいはただ書いていきたいだけであれば、日本にいてもできるといえばできるのですし、単純な時間や労力の面で言えば、わざわざフランスくんだりまで行く必要はないわけです。

時の政権にもよりますが、フランスのビザ発給手続きはなかなか大変ですし(私の知る限り、少なくともスイスやドイツとは異なり、出国前にほぼ全て済ませる必要があるので大変という面もあります)、飛行機に片道12時間程度缶詰にならなくてはならなかったりするわけで、極めて大きな不利益があるわけです。

その時間を全部専門的な文献を読んだり書いたりすることに捧げたほうがよほど良い、と考える人もあるでしょうし、それは正論です。

が、そこでの不利益を一旦受け入れることで獲得されるのは、意図の有無を問わずフランス語に触れざるをえなくなり、そうして「休憩」「自由時間」になりうるものを「遊び」ないし周縁的な勉強へと転換し、フランス語の能力の裾野を広げて盤石なものにしていくことになる、そうした機会です。

なかなか気合を入れてやろうとは思わない領域をもフランス語化するということですし、そういった領域はどうあってもメインの取り組みにはならないのですが、それでも単なる無駄や手抜きではない「遊び」として、「遊び」でない部分におおいによい効果を生みます。

息抜きに散歩をしても目に入るのはフランス語ですし、買い物をするにしてもフランス語ですし、住居契約や銀行口座の開設もフランス語ですし、長期滞在の手続きもフランス語ですし、税金周りの事務書類を片付けるにしてもフランス語の書類を読んでフランス語で税務署の職員と話さなくてはなりませんし、大学の事務関係も全部フランス語でやらなくてはいけないいけません。履修の手引きの類も全てフランス語で読まなくてはいけないわけですし、もちろん授業は(一部を除いて)全てフランス語です。

俗語の知識を度外視しても、まっとうな語彙は当然広がりますし、基本語の使い方についてもおおいに知見が広がります。体系性・一貫性を欠いた散発的な「日常会話」「日常表現」のようなものばかりが身につくわけではありません(もちろん身につきますが)。別のところに軸を持っている中で、それにプラスするかたちで「日常的」な要素が「遊び」として付加されることで、その軸の回りが強固になってゆく、ということです。


たとえば先日は、近所にある対独レジスタンスの史跡の周辺を散歩していて、記念碑にあるtirailleur「(軽歩兵の一種としての)狙撃兵」という語を知りました。当然、tirerという動詞が銃を撃つことを意味し、tirが「射撃」を意味することは既知でした——実に『魔法少女まどか☆マギカ』に出てくる、マスケット銃を模した武器から発される「ティロ・フィナーレ」の「ティロ」はイタリア語のtiroであり、これは仏語のtirと同源です。

が、-aillerという接尾辞が「何度も(ときに悪い意味で)繰り返し」行われる動作であることを意味するからには、tiraillerという動詞の動作主となるtirailleurが「狙撃兵」を意味するのは意外でした。

よくよく調べて見れば、動詞tiraillerや名詞tiraillementは「やたらめったら撃つこと」を意味しうるのですが、tirailleurは現在では専ら「狙撃兵」を意味するようです。

順当に考えれば「やたらめったら撃つ者」を意味するはずの語が、正確な射撃を旨とするはずの「狙撃兵」を意味するのが何故かと言えば、確かな情報はありませんし、この-aillerには実質的には侮蔑的な意味はないとする情報もあります(http://senegal.bistrotsdelhistoire.com/?page_id=16)。が、そもそも-aillerという形式の動詞が強いて用いられたことには理由ないし原因を読みとってよいでしょう。

が、そもそも-aillerという接尾辞は、(稚拙かつ迷惑な)反復を意味するとともに、ある種の放埒・無秩序を意味するからには、本隊から離れて行動して・ある程度自らの意志に従って(à volonté)撃つ者を(tirerでなく)tiraillerという動詞に結びつけたのもわかりそうなものです。実際「狙撃兵」は、tireur isolé「隔離されて撃つ者」という言い方で表わされることもありますし、tirailleurは非正規のゲリラ狙撃兵を意味するfranc-tireurと同義とされることもあります。

あるいは、この点と強く関わりますが、戦闘において狙撃兵は物陰に隠れて攻撃するもので、特に相手方にプレッシャーと精神的嫌悪感を与えますから、狙撃という行為に求められる正確性とは無関係に、しぜんに-aillerという形式の動詞が用いられたのもわかりそうなものです。

……こんな考えがどこまで正しいかは別にしても、文献以外から語学的知識を得る機会は、他の様々な知識を思い出し・応用し・整理する機会を与えてくれる点で有益ですし、そうした「遊び」を与えてくれるのは留学という機会でした。


閑話休題。

似たようなことは語学でなくても言えるでしょう。

例えば大学に入れば、自分の興味のない授業でも取らざるをえない場合がほとんどです。

いわゆる文系の人であっても理系の講義は教養科目としてある程度取らなくてはなりませんし(私も数学とか熱力学とか環境物質科学とかで散々数式をいじりました)、いわゆる理系の人であっても第二外国語や哲学や文学などの授業を少しはとらないとの卒業させてもらえないのが、多くの大学で一般的なカリキュラムだと思います。

必修ないしは準必修というかたちで、自分が明示的には興味を抱いてないものを、ある程度強制的に、ある程度は選択に基づいて学ばされる機会は、実に目的への秩序、つまり自分がやりたい科目を学ぶという目的への秩序からすれば不合理な無駄に見えるかもしれませんが、しかしそうした狭い世界観を持って突き進むのにブレーキをかけて、強制的に幅を与えるのが、教養教育のひとつの機能である、と言うこともできるでしょう。

単なる「自習時間」「休憩」ないし大学なら「自主休講」にしていては得られないであろうものを、意図的な「遊び」によって確保するというなりゆきです。

そうして(強制的に与えられた「遊び」が生む)幅があればこそ花開く佳き専門性があるものです。


精神的に最も重要な方策というか態度は、開かれた心と余裕を持つということになります。自分の目的には役に立たなそうだから全て捨てる(そして浮いた時間を「休息」「暇つぶし」に叩き込む)、という極端な態度を取らないということですし、あるいは生活の全てを厳密に限定的な目標へと秩序付けない(けれども緩やかに関連付ける)、ということでもあります。全てがただ1点で支えられていると倒れたり転がったりしてしまうから、平面で支えられるように幅を持たせると言ってもよいでしょう。

とはいえ人間は、自分が怠け者だということについては平素思いを致さないわけですし、自ら閉塞的になろうと思って閉塞的になっている人はそんなに多くないわけですから、こうした「遊び」を事前に作っておく必要がある、というなりゆきです。

であるからには、どうすればよいかを考えるのは実に難しいのですが、受動的な形での情報の摂取をもっと増やすということは、一つの方策としてありえるでしょう。

が、もちろんこれは悪手です。受動的にものを摂取するに任せていては、範囲を広げてみても自分のほしいものしか見ないわけですから、広がらない可能性がもちろんあります。それに、受動的な摂取は微弱な快楽をもたらし続けるものなので、下手をするとハマります。するともはや「遊び」ではなくて「逃避」になりうるわけですし、そちらに時間を取られていては本末転倒でしょう。

寧ろ、自分の目的へと緩やかに関連づけられうる範囲で、予期せぬものをもたらしてくれる人と会う機会を強制的に設けつづけるということでもよいのですし、ある外国語を身に着けたいのであれば、休みの時間だろうとなんだろうと外国語に満たされた世界で生きるのもひとつの手でしょう。

■【まとめ】
・学習に際しては目標や目的を定めることがまずもって大切である。

・しかし同時に、一定の「遊び」を、完全な休息でもなく緩やかに目的へと秩序づけられた部分を残すことで、その目的への秩序を盤石なものとすることができるだろう。

・そうした遊びというものは、目的が強固で限定的であればあるほど作りにくいものでありうるので、強制的に遊びを作っておくこと・幅を広げておくことが必要となるかもしれない。

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