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【194】古代への冷静と情熱の間 シュリーマンの自伝の虚実から

『古代への情熱』という著作をご存知の方も多いと思います。トロイア遺跡の発掘を行った、19世紀の考古学者シュリーマンの自伝で、岩波文庫で読むことができます。

シュリーマンはホメロスの『イリアス』に感銘を受けて、実在が疑われていたトロイアの発掘を志し、実際にトロイア遺跡を発見したのですが、その中でどういったことがあったか、ということを自伝として書いているわけですね。

今回はこの自伝の虚実から出発して書きたいと思います。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が【毎日数千字】書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


『古代への情熱』はそこまで難しい書物ではないので、皆さんにも読んでいただければと思うのですが、概ね先ほど申し上げた通りシュリーマンがトロイア遺跡を発掘するに至ることについて書かれています。

遺跡発掘に必要な費用を稼ぐために事業を興して成功し、研究に必要な語学を習得しまくり、そうして得た資金をもとにして実際にトルコに発掘に行き、トロイア遺跡をとうとう発見する、というのが大まかな流れになっています。

目標達成のために全てを秩序づけた人間のひとつの見本が展示されている、と言ってもよいかもしれません。


私が『古代への情熱』を読んだのは中学1年生の夏のことでしたが、私は小賢しい子供でしたので、「嘘くせえな」と思ったわけです。

何が「嘘くせえ」のかといえば、トロイアが実在することを突き止めても仕方ないだろうと思っていましたし、当時は私は全く歴史研究など行っていませんでしたから、せっかく稼いだ金を石ころを掘り返すのに使うのも、理解できませんでした。石ころを掘り返さなくても、家で本でも読んでいればいいじゃないか、とか、あるいは家の近くのコンサートホールで音楽を聴くほうがよほどいいじゃないか、とか思っていたわけです。

それに、発掘する、という目標への情熱を小さい頃からずっと持ちつづけているなどというのも、普通はありえないことだよなあ、と思って、どこか斜に構えて見ていたわけです。生きていく中で目標は変わるだろうよ、と。


ぼんやりと「嘘くせえ」と思っていたのですが、最近知ったところだと、やはりシュリーマンの自伝には相当な嘘が含まれているらしいのですね。

シュリーマンはトロイア遺跡というものは実在が疑われていたということを強調しますが、実のところシュリーマンの時期にはすでにトロイア遺跡の発掘は別の人間によって進められていましたし、

シュリーマンが金を稼いでいるときに一貫してというのは実は嘘だ、というような指摘もあるようです。

その他にも、シュリーマンが自伝で述べている自らの語学能力に対する評価にも、嘘が含まれているとするような記述を見かけることがありました。


私にとっては、シュリーマンが自伝に書いている内容の虚実というものは、そこまで重要なものではありません。それは或る種の歴史家が検討すれば良いことです。

そもそも自伝ほど疑わしいジャンルは珍しいものです。自分で自分について書き、剰え書いたものを出版するということは、その背後には必ず何らかの政治的といってよい意図があり、その限りにおいて、ある事柄を大きく見せたり、別の事柄をとても小さく見せたりする、ということは必ずあることでしょう。

真実と嘘の境目は、極めて曖昧なものになります。Yes/Noを明確に・客観的につけられる範囲で嘘をつくのはダメですが、客観的に判断することの難しい心理的条件について嘘が横行するのは当然でしょう。


ともかく、シュリーマンのような割と大きな人物の自伝が実際嘘に満ちているらしいということを確認してみると、まず思われるのは、これはあらゆる人間の自分語り(プロフィール、経歴紹介、自伝……)も嘘だらけなのだろうな、ということです。あらゆる人間の自分語りというものを、半ば冷淡に見た方が良いのではないか、という教えが導き出される所以です。

それはもちろん、私たちが真実というものに対して鋭敏でなくてはならない、という私の勝手な信念に由来するものでもありますが、相手の広義の自己紹介に容易に騙されないためにも、この態度、つまり一歩引いて相手の自分語りを冷淡に見るということが大切になるのではないか、ということです。

人は様々な戦略に基づいて、虚実を織り交ぜた自分語りをするものです。

例えば自分の経歴を誇らしげに語ることで、相手を威圧しようとすることがあります。学位を得ずに海外のある大学の修士課程に在籍していただけなのに、「〇〇大学修士」と書いて、修士号をとったかのような自己紹介をするような人も、まあ誰かは言えませんが、学者の世界にいたりするのです。大いにミスリーディングを誘う戦略です。

日本のある私立大学を出た後、海外の一流の大学で博士号を取った、もうすでに偉い先生が、どういう目的があるのかわかりませんが、日本での学歴を異常なほどに隠しているケースもあります。その先生は学歴を示す際に、絶対に自分が日本で卒業した大学のことは書かないのですね。複数人による共著などで、周りの人が皆同じフォーマットで出身学部を示しているときにさえ、決して書かないのです。現に学会に認められてきちんとした地位を持っている以上、隠す必要もなさそうで、ほんとうにどういう意図に基づくのかわかりません。とはいえ、周りの慣習に反した振る舞いをわざわざとっているということは、ある事実を意図的に隠し、ある事実を際立たせる、そうした特殊な意図があるういうことです。

あるいは、成長譚を強調するために、自分がダメダメだったことを強調する人もいますよね。ダメな自分がこんなに良くなった、というエピソードを強調しつつ提示することで、自分の体験談やコンテンツへの注目を集めて、場合によっては購買に結びつける戦略です。

(現時点での・ある分野での)自分のダメさを強調することで、道化となり、相手におべっかを使い、以って相手からの或る種の情けを受け取る、そうした戦略を取る人も少なくはないでしょう。

そうした意図的な情報の操作に対しては、敏感になるべきでしょう。鋭敏に気づくことで、相手の政治的意図や、人間としての器の大小を測ることができるからです。


同時に、重要なことがあります。

シュリーマンが結果として自分を大きく見せるためにあることないことを書きた立てていた、ということがある程度事実であることを認めるとしても、そうした振る舞いが全てシュリーマンの自己顕示欲や誇大妄想に基づくものなのだろうか、という疑いも抱かれるのですね。

もちろん、自己顕示欲とか、承認欲求とか、誇大妄想とか、権力欲とかいうものは、人の振る舞いに関する説明原理としてとても便利なものです。

しかし、便利なものは多くの場合、様々なものを失わせることで成り立つものです。特に便利な説明原理は、ことがらが本来持っていた豊かさ・複雑さを失わせることが有るので、注意が必要です。

シュリーマンは事実としては嘘をついていたのかもしれませんし、最初は謀る意図があったのかもしれませんが、その嘘をいつしか心から信じきるようになっていた可能性もあるように思われるのですね。

……自分がやっていた事業をたたんで発掘に勤しむ中で、もともと発掘をずっとこころざしていたわけではないけれども、ずっとこころざしていたかのような錯覚を得て、その錯覚を信じ込んでしまったのではないか、とも思われるわけです。

また、実際には18ヶ国語など喋れなかったのだとしても、18ヶ国語習得したと喧伝しているうちに喋れるような気になっていたのかもしれません。

トロイアの発掘は自分が最初に行なった、ということを盛んに書き立ててゆく中で、実際には他の人間がすでにトロイアの発掘を始めようとしていた、ということを全く認識の外に追いやって、自分が初めての人間であるということを信じてしまっていたのかもしれません。

まとめるなら、歴史的な事実には反しているかもしれないけれども、個人史的な事実には本当は反しているかもしれないけれども、自分で信じ込んでしまっている面があったのかもしれません。

少なくとも、シュリーマンの「情熱」がまるっきり嘘に塗り固められたものだとは思いたくありませんし、ナイーヴな読者にとってはやはり「情熱」の証を伝えているものなのでしょう。「古代への情熱」が全て、名声への欲望や誇大妄想の現れだったともい言い切れない部分があるはずです。そのなかでシュリーマンがついた嘘は、やはり嘘で、積極的に肯定する気にはなれませんが、少なくとも自らの嘘に対してシュリーマン本人は、もはや痛みを覚えていなかったのではないかとさえ推測されます(単なる憶測です)。

だからこそ、この『古代への情熱』という自伝テクストは、或る種のリアリティをもって一定の読者を得つづけている面もあるのではないか、とも思われるのです。

あるいはそうでないとしても、少なくとも『古代への情熱』というテクストにべったりと入り込むことで、私たちの精神が何かしらのものをすくいあげることができるのだとすれば、それはそれでアリだ、という気はするのですね。


こうしてみると、自分語りや自己紹介、あるいは自伝テクストを読み書きすることについては特にそうですし、それ以外の様々なテクストにほのかにのぞく自分についての評価というものについてもそうですが、冷静に一歩引いて判断しようとする態度に基づいて自分を見せることと、情熱的にそれを信じ込んでしまうところまで行くことの、どちらにも分があり、どちらも大切であるように思われるのですね。

玉虫色の主張であるようにも見えるかもしれませんが、これはやはりどちらも大切だと思うのです。

事実や真実からあまりにも離れた記述は、もちろん自分では行うべきではないでしょう。あるいは他人がそうした記述を行っているのだとすれば、それを看破するだけの批判的な目は確実に持っておくべきかと思われます。それは誠実な人間であるために、あるいはときに悪意を持った相手に容易に騙されないためにも、ぜひとも必要なことです。

しかし、これと同時に、戦略的に自分を大きくあるいは小さく見せ、そうして自分で自分に与えている記述というものを心から信じている、そういった状態も実に大切なものである、ということは言えるように思われます。或る種の信仰は実に行動を生むからです。

もちろん、客観的に判断できるものについては嘘をついてはなりません。しかし、皆さんがごく主観的な事柄について嘘をついても誰も困らない、というのは事実でしょう。

そして同時に、シュリーマンを読んで感化される人もいるように、どこか嘘くさいものではあっても、自伝や自分語りの類に感化・触発されることも、ある場面では良い効果をもたらしうるものでしょう。それはやはり、奮起して行動してゆくという観点において。

ですから、自分や他人の自分語りに対するこのふたつの態度、つまり批判的な(悪口を言うという意味ではなくて、物事をしっかり切り分けて見る)態度と、戦略に基づいた嘘を徹底的に信じ込んでしまう態度というもののバランスが大切ではないか、と思われるわけです。あるいは、両者を都合よく、場面に応じて使い分けつづけるということが大切なのではないか、と思われるわけです。

これはとりもなおさず、フィクションに対する態度は、それゆえ現実への向き合い方を二重化することであって、この困難な隘路にこそ(どちらに傾きすぎても危険な、
スキュラとカリュブディスの間にこそ)、本当に尊いものが隠されているように思えてなりません。

■【まとめ】
・自分語りを含むテクストに対しては、それを書くときにも読むときにも、二重の態度があってしかるべきだ。

・ひとつは冷静な、批判的態度である。これは真実に対する最低限の誠実さという意味でも、あるいは相手に下手に騙されないためにも必要である。

・またひとつは、情熱的に、嘘を含むかもしれない語りに身を投じる態度である。自分の来し方行く末に対する何らかのフィクションを信じ、あるいは他人のそうした虚実の混じった語りを信じることで、自らの行動につながっていく面が、少なからずあるだろう。


皆さんはどうお考えですか。