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【479】フィクションの果実(3):擬制は進歩の一里塚

fictionは「曲げる」くらいの意味を持つラテン語の動詞fingereの名詞形ですが、これは法学にあってはかなり大切な概念です。

なんだか以前にも書いた気がしますが、法学においては「擬制(fiction)」という概念があります。

『法律学小事典』第4版(有斐閣、2004年、初版1972年)では「ある事実(法律要件)Aを、法律的処理の便宜から、それとは異なる事実Bと同じものとして取り扱い、Bに認められた法律効果をAの場合にも発生させようとすること」とされますが、まあ、だいたい、「そうではないものを、便宜上そうであるものと看做す」ということです。

長いこと失踪している人を死んだことにするのも擬制です(コルネリウス法の擬制)。成年に達していない婚姻者を成年とみなすのも擬制です。見て触れることのできる物理的実体を持たない電気を財物としてとらえることで、電気に関して窃盗罪を成立させるのも擬制です。


特に成文法が強力な地位を占めてくると、擬制は極めて重要な意味を持ちます。成文法は大雑把な基準しか示せません。その都度十分だろうと思って制定されるにせよ、現実は固定された法よりも様々な可能性を持つわけで、法を裏切ることはしばしばです。どう見たって罰するべきなのに罰することができない行為もあれば、不当に重い・ないしは不合理な刑罰が課されているということもあるでしょう。杓子定規な判断では明らかに不適切だ、と思われうる場面もおおいに生じます。

(たとえば天下一家の会の事件のときには、或る種のねずみ講を処罰することができませんでした。たとえば新潟少女監禁事件では、9年間少女が監禁されたのに対して、逮捕監禁致傷の最高刑が懲役10年というのは不合理だ、という見解がありました。)

特に成文法を重視する社会であれば、「法の抜け穴」にせよ、法が漏らしてしまう事態にせよ、ほんとうは存在してはならないのですが、どうしても生じてくる。立法者がいまいちだったということもあれば、外れ値の案件があらわれることもあれば、社会が変わるにつれて、これまでなかった穴ができるということもある。

しかし、即座に新法を制定することも、即座に法を改正することも、なかなかできるものではない。というより、特に成文法が重視されるところでは、そうした柔軟性を或る種犠牲にすることで恣意的な判断が機能しないようにし、以って安定した法秩序を実現しようとすることが目指されているからには、法の制定・改正の手間を軽くする、という根本的な方策が必ずしも妥当でないこともあります。

そういった場合に、擬制が効果を発揮します。いずれ法は改正したほうがよいかもしれないが、当座このように理解しておくことで、まっとうでありうるところの法的判断を下す、というかたちで。つまり法改正への一里塚として。あるいは、法を明確に改正することは課題にはならないが、このように理解することにしておく、というかたちで。

もちろん擬制は限界だらけで、とりわけ罪刑法定主義に基づくのであれば、あまりにも実定法から逸脱するような擬制は行うことができません。法の空隙、法の不測を補うことはできても、法がはっきりと「Pである」と言うときに、擬制によって「Pならず」を押し通すのは困難でしょう。

とはいえ、改正を待ってそれまでは杓子定規に判断を下しつづける、というよりは、よほどよい。そうした理解を行う学派は十分にあるわけですし、その意味では法に書き込まれていない判例と近い意味を持つとも言えるでしょう。


この点、かなり読みやすいのは、以下の末弘厳太郎の講演「嘘の効用」でしょうか。特に第2節は、目下我々が置かれた状況に対しても極めて示唆に富む文章です。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000922/files/45642_28592.html

いわゆる概念法学(悪く言えば杓子定規な法学)を批判する、極めて強い個人色のあらわれたものでもありますが、「擬制」に、ないしは法運用における「嘘」に、どのような価値・力があるのかということを説明しています。

あるいは擬制は現状の法と未来の法の間を架橋するひとつのステップだ、という見解もまた明確に示されますが、これは極めて重要でしょう。


進歩の一里塚としての擬制(フィクション)という観点は、末弘も引用する19世紀ドイツの法学者ルドルフ・フォン・イェーリングの著作において、より印象的なかたちで現れるようです。

イェーリングは『権利のための闘争』で有名ですし、高校世界史の教科書にも多分そちらで出ていますが、寧ろローマ法の研究者として知られており、『発展の諸段階におけるローマ法の精神』という著作があります。

下手に説明するよりも、読んでいだたいたほうが幾分わかりやすいかと思いますので、以下に訳出します。(引用元:Jhering, Rudolf von, Geist des römischen Rechts auf den verschiedenen Stufen seiner Entwicklung. Teil 3, Bd.1. Leipzig, Breitkopf und Härtel, 1865, S.287-288.)

擬制(Fiction)によって困難は解消されるのでなく回避される、ということから、擬制はなるほど、課題解決の、学的にして不完全な形式として特徴付けられる。擬制はまさに、空取引と同じように、必要に駆られた技術的な嘘の名に値する。

しかし他方で、擬制は、実践的には全く[来たるべき法と]同じ目的へと導く、より軽やかにして、より快適な道を切り開くものでもある。以って擬制は進歩を容易にし、知(=学問)が課題をその完全な形において制御する力を未だ欠いているときにあってなお、進歩を可能たらしめる。

擬制がなければ、影響力に満ちたローマ法における多くの変化が日の目を見るのはもっと後になっていたに違いなかろう。

次のように言うのはたやすい。擬制は弥縫策、松葉杖に過ぎず、知(学問)が用いるべきものではない、と。知(学問)が擬制なしで完全になりうるならこうした言い方もできようが、そんなことはありえない!

あるいは、知(学問)が松葉杖を支えに歩んでゆくことは、松葉杖なしで崩れ落ちてしまったり、今いる場所から出ていけずにいるよりも、ずっとよい。

(中略)

知(学問)が幼年時代を脱してなお、そしてこの知(学問)における千年に及ぶ思考の鍛錬によって、ついに抽象的思考が確かで完全なものとなってなお——こうした確かさと完全性は、教説の理論的基礎を新しく形作るために不可欠だが——、全く新しい考えをものにするための最初の手がかりとして——理論的な苦境においては——擬制は確かに正当化されるのである。

擬制を伴う秩序は、擬制なしの無秩序よりも善い!


既存の法は、現実に対応できない面がある。手元の法を杓子定規に適用して、現実・人心に反する判断を下しつづつけることはできない。しかし、いきなり法を改正するわけにはいかない。つまり完全な解決策をとることができないこともある。

だから、AはBを看做す、という擬制を行って、つまりフィクションを描いて、不完全な当座の解決策とする。法の運用を柔軟にする。そうして将来の適切な法制の制定を待つ、ということです。嘘が嘘にならない世界が到来するまでは嘘をつく、ということです。嘘という前線基地を設けるということです。


翻って私たちも、適切に嘘をつくことで、フィクションを立てることで、今の自分の置かれた環境から、新たなところへと身を移していくことができるのではないでしょうか。

法律の運用にあたっては、個別的な事情や極めて深刻な問題というものが必ずあったわけです。法の発展は、必ずしも机の上で・抽象的に・機械的に、難なく達成されてきたわけではありません。ドロドロの現実があり、それに対応するかたちで発展してきたのです(法がほんとうに抽象的なものであるなら、法を改正してオシマイにすればよいのですし、そもそも高い教育を受けた法曹も必要とされないはずです)。しかしそうはいかない。法は、特に成文法は、目まぐるしく変化する現実に対応するための、必然的に不十分なものさしであり、取り回しの悪い武器す。だからこそ、擬制・嘘という微妙な、当座の「不完全な」解決策がとられるし、そうせざるをえない。達成すべき法改正の、制度の改良の前段として、とられざるをえない。

そうした現実的な努力を行なってきた法律の発展の歴史を気儘に参照して役立てることができそうなものです。つまり、現在の自分に対して新たな自分を擬制し、そしてその擬制を通じて、新たな自分を実際に成立させてしまうということです。

今置かれた様々な状況を即座に変えるのは困難かもしれません。というより大体の場合には無理です。自分の本心を、精神的な態勢を即座に変えるということは極めて困難です。

しかし、少なくとも、嘘の人格を立てて運用してみたり、気位だけは高く持つことが許されるような場所を作っておいたりすることはできます。そうした擬制を行いつづけて、条件が整ってきたら、法を「改正」する、つまり自分の置かれた条件をピョイと変えて見ることはできるかもしれません。あるいは、知らぬ間に嘘が体に染み付いているかもしれません。

(もちろん、嘘もつきつづけていれば真実になる、という言説は極めて危険なものでもありますが、そうした点を認めてなお、嘘には実際的な効用があるということです。)

たとえば何か勉強を始めるとして、いきなり「改正」する、つまりいきなり成績を上げる、いきなり勉強を好きになる、ということはさしあたりできないものです。準備が要ります。しかし、その準備というものは、たとえば、勉強が好きなフリをしてみることかもしれませんし、頭よさげに振る舞うということかもしれません。そうして嘘をつく中で、嘘であると了解しつつも嘘をつく中で、その嘘が真実に化ける瞬間は到来するかもしれない、ということです。少なくとも嘘をつかなければ、現実が変わらない、と言ってもよいかもしれません。


或る種姑息な、地道な、嘘をつく擬制の作業は、ドラスティックな変化をもたらすものではないかもしれません。しかし伏流水のようにじわじわとした変化を確実に引き起こすための、ひとつのアイディアくらいにはなるのかもしれません。