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【266】悪魔の弁護人を雇う? ファイティングポーズをとる前に検討すること

世の中には悪いことをする人や企業や国家がある、と考えることができます。人はそうした悪を見出したときに、しばしば非難・攻撃・糾弾という所作をとります。

こうした攻撃的な態度——他人とか、あるいは自分に直接関係のないように見える集団を批判すること——が良くない愚かなことだと言い始める人もいますし、それはそれである意味では説得力のある言い方でしょう。周囲に責任を押し付けてもどうにもならない、と。

しかし、(攻撃とは違いますが)批判の営みは極めて重要ですし、洗練されたかたちでないにせよ声を挙げることは、とりわけ政治的水準にあっては重要な意味を持ちます。何より、私たちは言語を用いるからには、批判し批判されることを前提に生きるわけです。

そして、特に(素朴な意味における)民主政治の水準では、悪への感情的な抵抗もまた、なくてはならない、封殺されてはならないものです。思考は閑暇から生まれるのですから、閑暇の無い、極めて逼迫した状況にある人は冷静な批判を行えないかもしれませんし、であるからこそ、感情的な声というものにも価値を認める必要はあるでしょう。

とはいえ、仮に私たちに心理的な余裕があるのなら、目についた悪へ反応が単なる思いつきの悪口にならないように、あるいは条件反射的で戦略を欠いた・誰の役にも立たない・極めて貧弱な攻撃に成り果ててしまわないように、注意すべき点があるように思われます。

その一つが、「悪魔の弁護人を雇う」という発想ではないかと思われます。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


「悪魔の弁護人」という表現を出しましたが、これはもちろん私の創作ではありません。

「悪魔の弁護人(advocatus diaboli)」というのは、元々はキリスト教カトリックの文脈で用いられていた言葉です。

カトリックにおいて、偉大な信者や、霊的な指導者や、殉教者を「聖人」として認定することがありますが、その認定(列聖)の際には極めて複雑なプロセスが取られます。

まず前段階として、列福されて、崇敬の対象となる福者になっていなくてはなりませんが、その点を飛ばして単純化するのであれば、一般にある人が聖人として認められるためには、生前に奇跡をなしていたこととか、生き様が信徒の模範となることとか、あるいは殉教したこととかが、証言や伝承によって保証されねばなりません。

このプロセス——この語は奇しくもprocedureとともに「訴訟手続」を意味しうる語です——にあって極めて重要なのは、その聖人候補が聖人とすべき者ではない、ということを敢えて主張する人間が設定されている、ということです。訴訟を模した聖人認定のプロセスの中には、実に抗弁の可能性が権利上のものとして含まれ、抗弁を行う者が設定されているのですね。それが「悪魔の弁護人」です。

聖人の候補になるくらいであれば、そのくらいにはきちんとした人であることは殆ど誰もが認めているわけですし(既に列福された者のみが列聖候補になるわけです)、その候補がダメな理由を探したい人は多くないのかもしれませんし、寧ろ頼まれてもいないのにやる人はいないでしょう。しかし、列聖プロセスを単なる「全員一致でハイ終わり」としないように、誰もやりたがらない、心底納得しつつやるわけではないかもしれない、「悪魔の弁護人」が指名されるわけです。

つまり、「この人はこんな奇跡を行った」とか、「こんなに人徳のある生活を送っていた」とか、「こんなに素晴らしい信仰心を示していた」とか主張する一団が用意される一方で、「この行為は敬虔さからきていたものではなくて、自分の利益のために行われていたものだから、この人は列聖に値しない」「提出された証拠にはこうした欠陥がある」「それは奇跡ではなく自然的な原理にもとづいて説明できる」というようなかたちで、候補を聖人として認定すべきでない、という主張を行う人が必ず用意されるのですね。

繰り返しますが、「悪魔の弁護人」本人が、その聖人候補の宗教的な素晴らしさを認定していない、ということではなくて、これは形式的に必ず設置される役割だということです。

そうした「悪魔の弁護人」の攻撃に耐えてなお、その人を列聖に値すると言うことができれば、晴れて聖人として認定されるというわけで、そうした認定はより強い説得力を持つことでしょう。


こうした訴訟モデル、特に「悪魔の弁護人」という発想は、私たちひとりひとりの心の中にも持ってよいものかもしれません。

本当は人と恒常的に議論できればよいのかもしれませんが、特に繊細な話題については、実際に友だちと議論すると壊さなくてよい友情まで壊れるかもしれません。であれば、自分の内側に、極端な方向へと突き進むのを妨げる装置を持っておきたいということです。あえて自分の信念に歯向かうような議論を組み立てることを習慣とする、ということです。

最初に見た例で言えば、悪い人や企業や国家やその他諸々が見えたら、心の中であれ実際に手を動かすのであれ、悪く見えるものを弁護しうるような素材を幾つも幾つも見つけ出してみる、ということですし、自分の信念を揺さぶる論拠を探してみる、ということです。

自分が直感した結論は決して揺るがない、と思っていても、それでもいいから、自分の直感を揺るがすような証拠や物の見方を集めてくるということです。

言い換えるなら、自分の心の中に「悪魔の弁護人」を置いて、弁護を実際にやらせてみるということです。

あの人があんな陰口を言っているのは、これこういう理由があったからではないか。あるいはこういった根拠に基づいているのではないか。あるいはそのように言わなければ、あの人はかくかくしかじかの不利益を被ってしまうので仕方なくそう言っているのではないか。この企業は、これこれこういうよくない広告の出し方をしているけれども、そこにはこういう理由があって、こちらの方面から正当化できるのではないか。

……などと色々考えてみることはできるわけです。

こうした作業は、実のところ、研究の文脈、特に人文科学でテクストを読む際には必ず行わなくてはならないことです。もちろんこれは建前で、実際にすべての場面で行われているわけではありませんが、ともかく相手に分がある・相手が正しく一貫性のあることを言っている、という可能性を突き詰めて考える、ということが、理想的な態度としては求められるということです。

いたずらに相手を疑ってかかる気持ちに任せるよりは、単純に、「悪魔の弁護人」を置くほうが、真実にたどり着きやすいのですね。

もちろん、本当にダメな人はいるかもしれませんが、時の洗礼を経て生き延びているテクストや、あるいは現代の研究者が名を公表して著している文献については、最大限正しく・一分の隙もないものとして想定してかかるということです。そのほうが読みは深くなりますし、結局のところ相手を批判することになるとしても、その批判の解像度が高くなるように仕向けるということです。これは知の共同体全体の進歩に繋がる態度でしょう。

たとえば、「宗教は愚かで悪いもので、非科学的で劣った信念であり、単に許容されるにすぎない」という俗流の科学主義的な発想を持つ人は、 日本だけではなくヨーロッパにもかなりの数います。仮にそうした信念があるとすれば、様々な観点から宗教の価値を支える主張に触れてみたり、あるいは自然科学というものが絶対的な真理を突き止めるものではないという(私からすれば当然の)主張に触れてみたりすることはできるわけです。

結局のところ自分のもとの信念が維持されるとしても、少なくとも自分の知識や考え方の裾野は広がるでしょう。そのうえで新たに批判を行うとすれば、より緻密で・隙きのないパンチを繰り出すことができるでしょう。最初からいきなりファイティングポーズをとるのではなく、そもそも殴らねばならない相手なのかどうかを検討するということですし、やはり殴るのであればどういったパンチを繰り出すのかはきちんと考えたほうがよいでしょう。


今しがた述べたように、相手をできる限り弁護してみたうえで、やはり人なり企業なり国家なりを批判するのも、陰で悪口を言うのも、石を投げるのも、もちろんありといえばありです。ことと次第によっては法に触れますが、それこそ自己責任でやっていただければ、ということです。

悪口を共有しないと生きていくことのできないコミュニティは絶対にあるはずですし、一定の前提に基づいた批判を行うことは、冒頭にも述べた通り、多くの場合に有意義でしょう。一つ一つの小さな声を集めてこそ変わる情勢も多いのですし、自分に直接関係ないから声をあげるのは時間の無駄・労力の無駄だ、と切って捨てるのは、狭量です(自分がやるかどうかはまた別の問題ですが)。

とはいえ、悪口を言うのであれ戦略的な批判を行うのであれ、その際にも自分の時間や労力という極めて限られた資源が使われてしまうのは事実です。

この点を踏まえるなら、その時間や労力といった資源を用いて、自分の生活を、あるいは自分の周囲の状況——この「周囲」の範囲をどこまで取るかは人によりますが——を最大限良くするためにはどうすれば良いのか、ということは考えなくてはならないでしょう。

つまり目先の(広い意味での)悪から、あるいは悪を糾弾しようとはやる気持ちから一旦距離を置いて、もっと遠くを見てみるということです。

そしてその一つの前提として、批判や攻撃を実際に行う前に、とにかく相手をできる限り弁護してみる、「悪魔の弁護人」を持つ、という意思決定基準を持っておくことが有効であるように思われるのですね。何故なら、それは悪を糾弾しようとはやる気持ちに対して強制的にブレーキをかける方策だからです。

相手をよくよく見てみたら、実は相手にも良いところ・学ぶべきところがあったと分かるかもしれません。相手が実際は批判する必要のないものだった、という認識を得ることができるかもしれません。そうして、下手に批判をして恥をかくのを避けられるかもしれません。相手が「悪魔」などではなかった、ということに気づくかもしれません。

あるいは批判を行うにしても、相手のことをなるべく弁護したうえで、それでも見つかる隙を突いて繰り出される批判は鋭い説得力を持ったものになるでしょうし、そのように解像度の高い批判によってこそ、世界を少しずつ変えるということが絵空事ではなくなるのでしょう。


言い換えるのであれば、「悪魔の弁護人」を心の中に雇う、という発想は、自分から見て良くないものに出くわした時に、条件反射的に悪口を言ったり攻撃を行ったりするのはやめてみてはどうか、ということです。もう少し遠くも見てはどうか、ということです。

このように言うと極めて単純で、誰でも「そんなことはわかってるよ、当然だよ」と言うかもしれません。

しかし、実に、条件反射的な反応が散見されませんか。

「いや、私や私の周りの人は皆思慮深くて、軽率な批判や軽率な悪口を言ったりはしないから大丈夫だ」というのであればもちろんそれはそれで良いのですが(せめてその考えが正しいことを祈ります)、私のように関わる人間を選んでいてもなお、関係のないところで、関係ない人の軽率な振る舞いが目に入ってしまうのは事実です。その度に心が傷みますし、自分がそうなってはいないかと思ってちょっと怖くなります。

ここまでお読みになった皆さんにおかれましても、この機会にひとつ振り返ってみるのはマイナスにはならないのでしょうし、仮に軽率に誰かの悪口を言ってしまうことが、底の浅い批判をしてしまうことがあるな、と思われる・気づかれるのであれば、それは改善するチャンスになるでしょう。

そして、改善の方策のひとつが、心の中に「悪魔の弁護人」を雇ってみるという発想ではないかと思われるわけです。

もちろん、これは一個の喩えであるからには、誰にでも受け入れやすいというものではないかもしれません。

しかし、一個の喩えであるからには、或る種の人に対しては、抽象的な主張よりも浸透力を発揮するものでしょう。せめてそう祈ります。

■【まとめ】
・何か悪く見えるものに出くわしたときに、悪口を言ったり批判をしたりすることはそれ自体としては別段悪いことではないが、その際には時間や労力といった極めて貴重な資源が用いられているということを考慮すべきである。

・そうしたことを考慮するのであれば、臨戦態勢をとって批判や攻撃を行う前に、相手をなるべく弁護してみる、という体制は持っておいて言うのではないだろうか。つまり自分の中に「悪魔の弁護」人を雇っておく、ということは大切なのではないか。

・そうしてこそ、そもそも批判や攻撃を行うべきか否かを検討できるのだろうし、たとえ批判や攻撃を行うとしても、その批判や攻撃の解像度や説得力や威力を上げることができるできるのではないだろうか。つまり、心の中に「悪魔の弁護人」を雇う発想は、時間や労力を節約し、効率的に自分の望む世界を実現してゆくためのひとつのきっかけになるかもしれない。

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