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【447】「ながら」は撲滅/ポニョ、マルチタスク、無理

幼い頃に本を読みながらご飯を食べようとしていたところ顔を真っ赤にした親に怒られた記憶があり、どう思い返してもきちんとした理由は説明されていないところ不承不承本を手放したこともしばしば思い出されるところです。

親元を離れた今はもう制約がないので、ものを読みながらものを食べるということは(汚してはならない貴重書でなければ)しばしばやりますが、普通は行儀が悪いと言われることですし、外食をするときにはさすがにやりません。

あるいは、これは家庭によるのかもしれませんが、テレビを観ながら食べることもしばしばダメ出しされるようですね。

何故ものを食べながら他のことをやってはいけないのかと言われれば、せっかく準備してくれた食事に集中していないのが失礼だから、ということになるのでしょうか。

否、提供される食事本体よりは会話のほうにウェイトがおかれることも多いであろう「会食」というものがあり、これが特に批判されないからには、必ずしもそういった理由ばかりではないのかもしれません。

手を使う読書、あるいは目を使うテレビ鑑賞などは、食事をこぼす原因になるから、つまり行儀よく食べることと両立されないことがあるから、よくないとされるのかもしれません。両方に集中することはできない、「きちんと食べながら読む」ことはできない、「きちんと食べながら見る」ことはできない、ということが問題になると言えるのかもしれません。


そんなことを言ったら会食だって、話すのに夢中でグラスを倒すとか、色々非難が出そうです。話しながらまっとうに食べることができるのか、と。

いや、できる、という方もあるかもしれませんが、では、会食に使った店の味を解像度高く思い出せますか、と問いたくなります。行儀よく食べることはできるでしょう。正しく食器を使って、おそらくは適切な範囲のマナーを守って、食べることができそうです。しかし、広義の接待という意味を兼ねた会食の席で供された食事の味を、緻密に思い出せますか。

そもそも、平素食事の味を気にされない方も多いかと思いますが、そういう方におかれましては、別の想像が可能かもしれません。あなたや、あるいはそうでなくてもそのあたりを歩いている一般人が各国の元首が集う会食の場に何かの間違いで呼ばれて、迎賓館で食事をとらねばならなくなったとすれば、なんとか会話をしつつ、かつテーブルマナーをきちんとしようとガチガチになってしまって、ろくすっぽ食事をとれないのではないでしょうか。

ここまで突飛な例はともかく、特定の作法に則って「食べる」ということはなかなかに複雑な文化的行為で、味わうことを抜きにしても食器の使い方や立ち居振る舞いは極めて高度な慣れを必要とします。

「そんなことはない」と思われますか。しかし、箸を適切に使えるというのはとんでもない技術ですし、フォークやナイフだって赤ん坊には使えません。日常的にやっていることだから頭を使わなくてもできるだけです。

箸の使い方に慣れない人を料亭に連れて行っても、リラックスして会食できるかはわかりません。食べるのに必死になりうるでしょう。テーブルマナーをほとんど知らない、けれども多少ややこしいマナーがあるらしいことを知っている人と、少し格式の高いレストランに行ったら、味がわからないどころか、食事もうまく喉を通らないかもしれません。
 
マナーの類はきちんと体に染み込ませてようやく使えるようになるのですし、そうでなければ大いに認知を支配するものです。形になっていないマナーをなんとか実践しつつ、他のこともこなすなんて、なかなか困難です。


「ながら」の作業なんて、マルチタスクなんて、無理なんですよ。
 
カラオケを歌いながらフラッシュ暗算をできるというような人もいるかもしれませんが、まあそういう訓練を積みたいのかという話で、私はそういうタイプの能力はいりませんし、多分これくらいが関の山でしょう(それはそれですごいのですが)。

ホメーロスの詩をぶつぶつ呟きながら哲学テクストを読むことができる能力は、可能なら欲しいのですが、まあ無理でしょうし、誰も手に入れたことはないでしょう。


いや、タスクとすら呼ばれないもっと基本的な営みだって、同時にいくつもやっていたら色々なものが犠牲になるのではないでしょうか。

「歩く」とか、「自転車に乗る」とか、それくらいに簡単で体に染み付いてしまったことなら、なるほど他の作業と並行して行える面はあるかもしれません。

それでも、イヤフォンを耳に突っ込んで自転車に乗ることは割と「危ない」と言われますよね(フランスにはいっぱいいますが)。聴覚から判断しうる危険を事前に把握しづらくなるからです。

歩きながら音楽を聞いている人が責められることは(どうしてか自転車の場合とは異なり)ほとんどありませんが、それでも歩きスマホは「よくない・危ないこと」とされますよね。視界が狭まって、回避できる危険を回避しづらくなるからです。

あるいは、人による面はあるのかもしれませんが、音楽を聴いたり動画を再生したりしながら他の何かに集中できますか、という話でもあります。

たとえば私は音楽を流しながら作業をするということができません。明らかに気をとられます。いちいちラヴェルの管弦楽法の巧みさやジョリヴェの斬新な和声に気を向けていては、まるで仕事になりません。全く脳が死んだような状態でも打ち返せるメールくらいならよいのですが、まあ、音楽はそれはそれで頭を使うので、集中を要する営みは無理だということです。


人間は、ひとつのことにのみ心を傾ける、という単純なことがなかなかできません。移ろうものに気をとられますし、集中しつづけることも上手くできない。もっと広く時間軸を取るなら、進路や人間関係に揉まれるなかで若き日に強く願った夢を懐きつづけることもできず、カビを生やし腐らせてしまう。荘厳な場で永遠を誓った愛をいとも容易く裏切りつづける。

これはもう、或る意味では人間の根本的欠陥と言ってよいでしょう。刺激がいろいろあれば、また刺激を容易く手に入れる手段があれば、どうしたって気が散る、そういうザコ生物だということです。こればかりは仕方がありません。好きなことであれ嫌なことであれ、集中するには工夫がいるのですし、集中しなければどうにもならないのです。

であれば、理性的存在者としての側面も持つ私たちが配慮できるのはせいぜい、自分がザコであることと、容易に気を散らせてしまうものだということを肝に銘じることですし、さらに言えば、気を散らすようなものをきっぱり断つ時間をとり、一度にひとつのことしかやらないと決めるではないでしょうか。

オフィスが持つ(多くの場合に成文化されない)規律がある意味で有用である所以です。不真面目な人ならともかく、ある程度真面目な人なら、オフィスで耳にイヤフォンを突っ込んでWebラジオを聞きながら作業をすることは稀でしょう。リラックスした職場は必要ですが、ゲームやエンターテイメントに関連する会社でもなければ、オフィスでスマホゲームをしながら仕事をするような社員はいないはずです。

これがリモートワークになって、ふわっとした監視の目がなくなってみると、なるほど生産性が落ちるということもあるのでしょう。自由なのはよいのですし、自由は悪いことではありませんが、適切な拘束がなくなれば集中できず、効率は落ちうるというなりゆきです。何故って、自宅には(職場以上に)注意をそらすものが広がっていて、注意をそらしても誰も文句を言わないからです。


……実に私たちは難儀な所与を持って生まれてきました。高い理想や夢を構想する知的能力を持ちつつも、そうした知的能力をフリーハンドで最大限活かせるように作られてはいないのです。  

であれば、もう仕方がない。そうした所与を最大限統御しながら、それとうまく付き合っていくほかないのでしょう。そのひとつが、おそらくは、マルチタスクなんてものはできない、「ながら」は効率を落とす、というごくまっとうな戒めではないでしょうか。