【219】良くない習慣も、生け捕りが難しいなら殺してしまおう

もちろん体験したことはありませんが、ギャング同士の抗争などを描いた映画などで、「生け捕りにしろ、だが必要とあらば殺しても構わん」というような言い回しを聞くことがあります。あるいは実際に聞いたことはないのかもしれませんが、そうした言い回しがどこか自然に感じられる面があります。

このような言い回しが示唆するのはもちろん、相手を無力化する際に、生け捕りにするよりも殺す方が簡単だ、ということです。自らに敵対するものを武装解除・捕縛し支配下に置くことは、抹殺することよりも難しい、と言われているわけですね。

実にこれは、相手が武装した主体でない場合でも当てはまる事実であるように感じられます。特に、相手が手練手管を尽くして誘惑してくる場合に、この点は顕著ではないでしょうか。誘惑者をコントロールできず、また誘惑されることで大きな被害を蒙りうるのであれば、捕縛して牢につなぐのではなく、追放しあるいは抹殺するほうがよほど容易い(しかも予後がよい)ということです。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


先日、少しゲームをやってみて、ヤバいと思ってすぐにやめたという話を書きましたが、まさにこれが当てはまるわけですね。

ゲームは私からしてみればそこまで面白いものではなく、面白く感じる人にとっては面白いものですが、いずれにしても脳のどこかに巧妙に働きかけて私たちを誘惑するものである、ということはできるでしょう。

そして、やりはじめて一定の時間を叩き込むと、ずぶずぶハマるというわけです。

なんだかんだやりながら気づいたのは、誘惑者が真横にいたら当然のごとく誘惑されるよね、ということなのです。手軽に触れられてやすやすと快楽を与えてくれるものが目の前にあるのに我慢する、などということはまず困難だというわけです。

もちろん克己心があるとか、強い心を持っているとかいう人ならばできるのかもしれませんが、少なくとも私には難しかった、ということです。

iPadやiPhoneの中にインストールされている状態であれば、手軽に開けてしまうわけですし、手軽に開けてしまうということは手軽に時間を吸い取られてしまうというわけで、ゲームのデータ自体が手近にある状態でゲームと上手くやっていこうなどと言っても、それは(私には)無理な相談だな、と改めて感じられたのですね。だからこそゲームをアンインストールして、さよならしたわけです。


これと同じようなことは、私の場合は、菓子類やアルコールについても言えます。

良いお菓子を食べることは良い文化に触れることなので、必ずしも悪いことだとは思いません。しかし、たいして美味しいわけでもなく、洗練されているわけでもないものをスーパーで買ってきて、なんとなく口寂しいときに食べるのは、歯や身体に良い影響を持つものでもないからには、悪癖以外の何物でもないと思われる面があります。それはそれで日常の小さな幸せなのかもしれませんが、なんとなく快が得られるばかりでなく、口元に不快感が残り、どうにも食べすぎて胃もたれもするのであってみれば、少なくとも食べる量は抑えたいところです。

しかしお菓子のストックが家にあって、目につく場所に置かれていたら、当然食べてしまうわけです。私には自制心などほとんどありませんから、1キロ買ったスペキュロス(シナモンクッキー)が3日でなくなることもありました。

その期間の腹部の膨満感たるや、凄まじいものでした。もう繰り返すまい、と思ったときに最も功を奏した方策は、単純なようではありますが、そもそも買わない、という選択です。家で目の前にあったら無限に食べてしまうけれども、スーパーの棚に置かれているお菓子を素通りする・買い物袋に放り込むのを堪えるぐらいならばなんとかできる、というわけですね。

最近では買い物は大体通販にしているので、そもそも誘惑に駆られることも少なくなってきました。街を散歩していて、パン屋でエクレアなどを買ってみたくなることもありますが、そうした誘惑に負けるのもせいぜい月に1度くらいになっているので、トータルでは勝てるようになってきたな、という感じです。

お酒についても似たようなことが言えます。良いお酒を然るべき人と飲むのは学びの機会ですし、実際ビールならUlmerやLemkeのピルスナー、赤ワインで飲んだことのある範囲ならLe Puyなどは感動的な美味さでしたが、ああいったものを飲むのはごく限られた場面にしようと決めています。酒の味のわかる人とともにあるときだけです。

私はアルコール中毒と言えるような状態ではないと思いますが(いや、強いて否認しているからには怪しいのでしょうか)、家にアルコールがあると飲んでしまいます。飲んでしまうと明らかに色々な作業の効率が落ちて、健康にもトータルでは良くない影響があるので、普段は絶対にアルコールを家に置かないようにしています。

家に置いておきながら飲まない、つまり誘惑者を手元に抱えながら誘惑に負けずにいる、ということは難しい、ということが、この数年の独居の経験から、私の目に明らかになってきたということなのですね。

このように自制心のない人間が、アルコールという誘惑者とうまく付き合っていくことはどうやら難しそうなので、そもそも家に入らないでお帰りいただく、というのが大切だということを確認するに至ったということです。


皆さんの周りにどのような誘惑があるのかは私は存じ上げませんし、その人によって本当に様々だと思います。

しかし、振り返ってみればよくないと思われる習慣とか、ついついやってしまうけれどもやらないほうが絶対に良いものは、どこかしらにあるのではないでしょうか。

もちろん個々人のパーソナリティにもよるのでしょうが、そうした明らかな後悔を引き起こす誘惑者と健全に共同生活を送ることは難しいのですし、そうした誘惑者を自分の理性によって生け捕りにして、適切に支配することは実に難しいのです。

もちろんそうした誘惑者に支配される道も捨てたものではないかもしれませんし、そのように生きたい・そのように生きても良いと(熟慮のうえで)思うのであれば、それも全く悪くはないと思います。支配されることを自ら選びとるのは、それはそれで尊いと思われるからです。寧ろそのように決断してこそ築かれる健全な関係もありうるでしょう。

しかし、また別にありうる決断は、誘惑者をそもそも追放してしまう・殺してしまうというものです。

牢につないでおいては、刑吏が誘惑されて、またその誘惑者が出てくる可能性はあるわけです。ただでさえ、現代の誘惑者たちは殺しても殺しても様々な姿をとって復活するのですし、また別のところからどんどん湧いてきて、認知を収奪し、金銭や時間を吸い上げようとしてくるのです。今の社会にあっては、誘惑者というものは際限なく出てくるわけです。

それらの一つ一つを繊細に統御することなどできない、というのはひとつのリアリズムであって、このように言うことが許されるのであれば、そもそも誘惑者が入ってこられないような心のセキュリティ作りをするとともに、既に部屋に入り込んでしまった誘惑者については、それを繋いでおく牢の数も枷の数も到底足りず、刑吏のほうが絆されてしまう可能性も高いのであってみれば、ガシガシ葬っていくのも悪くはないということです。

……例えば同居人がいるなら、逐一自分の身の回りを点検してもらうのも悪くはない方策でしょう。ボディチェックをしてもらって、誘惑してくる要素をいちいち追い払ってもらうということです。監視というと嫌がる人も多いのですが、望んで受ける監視は効率化のためにも極めて重要です。人間は自分には甘い態度をとりがちですから、他者に縛ってもらうということは実に有用だというわけです。

店に行くなら、そもそも酒や菓子が目に入らないルートで買い物をすることに決めておくというのもよいでしょう。私がやっている方法です。

ゲームであればデータを削除する、アルコールであれば台所に流してしまう、あるいはフィジカルなゲーム機であれば叩き折る、といった選択肢が出てくるのも道理ではないでしょうか。


もちろん、今すぐゲーム機を叩き折れとか、アルコールは全てトイレに流してしまえとか主張するものではありませんし、そうすることが万人において絶対に正しく最良であると申し上げるつもりは、毛頭ありません。当然のことながら人によって価値観は異なりますし、お好きにやっていただければよいと思います。

それに、万人において「捨ててみなよ」という提案が意味を持つとも思われません。捨てようと思って捨てられているなら苦労はしない、という場合もあるからです。そうした場合には捨てるための方策を、たとえば精神医学の専門家と一緒に考え・実践することになるわけです。

しかし、そこまで病理的ではないけれども、一緒にいて後悔するタイプの誘惑者については、うまく付き合ってみることを考えるのではなく、いっそのこと関係を断つのも十分にありうる選択肢ではないか、と思われますし、なんらかのかたちで一念発起して捨ててみる、ということが十分に可能なケースもある、ということを申し上げたいわけです。

実際、そのように誘惑してくるものを殺す、つまりなくしてしまうというのは、多少は惜しく思われるかもしれませんが、一瞬で済むことが多く、さほど苦しくはないこともあるのですね。

ものによっては、その直後に到来する禁断症状を脱することができさえすれば、今度そうした誘惑者と袖が触れ合うようなことがあっても、適切に逃げられる可能性は高まるでしょう。

反対に、いつまでも誘惑者が同じ部屋の中に、いつでも触れられるところにいれば、当然私たちは誘惑されるのです。私たちはその程度の、脆く弱い存在です。

そうした精神の弱さというものを認めたうえでなお何かしらの戦略を立てることを考えるのであれば、いっそのこと誘惑者を目に入らないところへと排除してしまう、という選択も現実的ではないか、ということを申し上げたいのでした。

実に冒頭に申し上げた通り、生け捕りにして手元に置いておくよりも、殺してしまうほうが簡単です。生け捕りにしておけば情報などを売ってくれるかもしれず、また交換材料にもなりうる敵対者とは異なり、誘惑者たる悪癖の類は私たちに何も与えてはくれない可能性が高いのですから。

■【まとめ】
・私たちを誘惑し、時間や認知(や金銭)を継続的に吸い取ってくるようなものとうまく付き合っていくのは難しい。ならば、そもそも手放してしまう・葬ってしまうのが良いケースもあるように思われる。

・手放し・葬るというのは、物理的な意味で捨てるとか、あるいはゲームで言えばデータを抹殺してアンインストールしてしまうとか、様々な方法が考えられる。

・ともかく、手元に置いておきながら誘惑されないように決心して頑張る、というのは、自らの克己心を過信した悪手である可能性もある。

・寧ろ自分の心の弱さ、誘惑への耐性のなさをはっきりと認めたうえで立てられる戦略もあり、そのひとつが、対象をそもそも視界に入れないようにし、また視界に入らないように抹消してしまう、ということではないだろうか。