【47】書かれなかったものに触れる

経験のある方も多いかもしれませんが、大学で文系の学部に入った場合、大抵は初年次の学生ための基本的なことをやるゼミというものがあります。

この種のゼミは多くの場合必修で、専門的な内容に過度に傾斜することなく、基本的な文献収集の技術や論文の作法について学ぶことになっているのが常です。

つまり、4年間、ないしそれ以上の期間に渡って重要になる技術の基礎を叩き込む機会として設定されているということです。

もちろん文系にも人文系や社会科学系というように色々あります。
人文系でも、文史哲と言われるように多様ですし、もっと細かく見ていけば分野は多様で、それぞれに応じて微妙な差異があり、また用いる言語によっても大きな差があるところです。

ですから、初年次に学ぶことは多くの場合本当に基本的なことで、場合によっては忘れ去られるべき内容も含むことでしょう。
私もそうしたゼミに出て、多くを学び、多くを忘れました。

しかし今もって私の心に強く残っている言葉があります。
それは、
「(論文は)何を書くかより、何を書かないかが大切である」ということです。

これは論文を書くにあたってしばしば言われることです。
おそらく理系でも似たようなことは言われると思います。

特に初年次のゼミでは、多くの学生は未だ関心といえるものを固めていませんから、大して関心のないことについて論文ないし、レポートを書かなくてはならない。書かなくてはならないという場合には、真面目であればあるほど、とにかくたくさん文献を集めて、たくさん読みます。

しかし、大量の文献のうち、自分の論を組み立てて提示するために使えるものはごく僅かです。
であるから、読んできたものの使えないことが判明したものを潔く切り捨てていけるかどうかということが、問題になるのです。
あるいは自分で思いついた議論の中でも、論文の全体の論旨に役立つものと役立たないものがあり、そのうち役立たないものについては、字数との兼ね合いから、またどんな運び方の都合から、バッサリと省略してしまうことを方が良いことがよくある。

このように、「何を書くかよりも何を書かないかが大切だ」ということで言われているのは、論文全体のエコノミー、論文全体の効率や効力を考えた時には、書けるけれども書かないことがあるし、寧ろ書けるはずのことのなかからいかに書かないことを捨てていくかが大切になるのです。


論文においてもそうですが、何をするにしても、何かをしないこと・何かを実践に移さないことの背景には、当然決断(意思決定)の瞬間がある。というより何を捨てるかが意思決定の核にあるとさえ言える。

どこかで一度書きましたが、決断というのは、切り離すことを意味します。
つまり何かを切り取って選択するということの背後には、捨てられたものもあるというわけです。

私たちは当然、複数の顔を持って生きています。
二つの顔を持つヤヌスでも良いですし、
三つの顔を持つケルベロスでも良いですし、
あるいはもっと多くの顔を持ってヒュドラーでも良いわけですが、
ともかく複数ある顔のうち一つだけをあったことにして、ひとつだけを文章という形で提示したり、あるいは自分の意思決定という形で表現したりする。

複数ある顔のうちのひとつだけを取って、他を切り捨てる瞬間、他をなかったことにする瞬間がどこかにあるのです。

他の顔にもきっと生命があったというのに、なかったことにして、ゴミの山に突っ込むという次第です。


さてこうしてみると、書かれなかったことにも一定の分があるように思えてきます。
 
つまり、ある文脈における最適解を目指すという観点から、書かれなかったものはたしかに書かれなかったかもしれないけれど、泣く泣く捨てられたものもあるはずですし、あるいは、私たちにとっては大きなものを含んでいるのに、書き手にとって重要ではないと判断されて捨てられたものもあるはずです。
 
最初に提示した、格言めいた言葉を繰り返すなら、
「何を書くかよりも何を書かないかが大切だ」
と言われている時には、
裏を返せば、
「書かれているものの背後には書かれなかったことがたくさんある」
とも言われていることになります。

書くうえで、
「何を書くかよりも何を書かないかが大切だ」
という論理を採用することは、おおいに結構でしょう。

しかし、そうした書く側の論理を身に付けた私たちが、改めて他人の書いたものを読むにあたっては、
「書かれたものの背後には無数の書かれなかったものがある」
ということを想定してみても良いのではないかと思われるのです。
なぜならそこにこそ、私たちの興味を引くもの、私たちにとって役に立つものが隠されている可能性があるからです。

妙なかたちで言い換えるのであれば、
「何を書くかよりも何を書かないかが大切だ」
というのが、書く者が共有すべき教えだとすれば、

「書かれたものの背後には無数の書かれなかったものがある」
というある種思想史的ないし考古学的な、読む側としての態度を改めて採用すること
も、極めて重要であるように思われるのです。
 

こうしたことを踏まえて、ネット上に広がる様々な文章を読むときにふと思われてくるのは、ある人が書くものを見てその人が本当に一貫した裏表のない人であるかのように思い込むのは、少々不健全かな、ということです。

ポジティブなことばかり書いている人がいる。あるいは自分の好きなことについてのみ書き続けている人がいる。
そういった人たちを見て、その人がポジティブなことしか考えていないとか、その好きなことしか考えていないとか思うのは、少々軽率ではないかと思われるということです。

その人自身が戦略的に他の要素を排除している可能性もありますし、
あるいは無意識のうちに自分の表現の中から関係のないものを切除しているのかもしれません。

ですから、書いているものの中にある「奇妙な」——と言ってよいような——一貫性があるということは、その書いているものを発信している発信者としての作者のアバターが一貫性を持っているということであるにせよ、その人自身が私生活においても、表現においても、内心においても完璧に一貫している、ということを意味しない、と考えられるのです。

つまり、書かれているもの・表現されているものは決断の結果であって、その決断んが切って捨てたものもある。
その切って捨てたものは当然、その人のパーソナリティの中に残っている可能性が高い。

そういった意味で、どれほど一貫性のある表現を取っている人であっても、その人本人が一貫性を持たないということは大いにあるのではないか、ということです


こうした事実に対する判断がいかなる意味を持つかというと、それは、こうした考えを持つことで、私たちは書かれなかった豊かさに目を向けることができるようになるということです。

もちろん自分が書くときには当然決断し、切って捨てる作業を続けることが不可欠になるでしょう。

しかし、自分がそうしたプロセスを踏んでいることを思えば、当然、他の人においてもそうしたプロセスが生じていると考えることになる。そしてそれは、他の人の表現の背後にある混沌とした豊かさ——切って捨てられてしまったものの豊かさ——に目を向けることにつながると言えるのです。
(論文であれば、そうした豊かさの片鱗は、脚注や、微細な表現の背後にすかし見られるものです。……)


ではこうして書かれなかった豊かなものに目を向けることで、より具体的には何を得られるのでしょうか。

——第一に、ごく単純に言えば、単により多くの情報を読み取れるようになる
これはもちろん当然のことです。

知るということは極めてプリミティブな欲求を満たすものでもあるわけです。書かれなかったものがある、常にあるのだ、という意識を持ってあるテクストを読むことで、書かれたもの以上のものを背後に想像し析出させ、実際にそれに触れることができる。そうした営みは、もっと知りたいという単純な欲を満たすものであるように思われます。

古い時代の日本の遺跡として全国にちらばる貝塚は、ゴミ捨て場のようなものでした。縄文人からすれば、全く無用のものでしょう。しかし、貝塚は私たちに多くのものを伝えている。もちろん貝塚に眠っている貝や、生活誌を伝える器物が、「役に立つ」かといえばそれは違うかもしれない。
けれども、何も伝わっていないよりは、よほど豊かであるように思われるのです。

——第二に、無闇な嫉妬を抱かなくなる。

知的に優れた、高いレヴェルの反省的精神を持つ人ほど、ひとつのことに専心するのは実に難しいものです。

しかしこの世界では当然、ひとつのことに専心する方がよほど高い成果をあげられますし、よほど楽しく生きられるはずです。

自分の知的能力に一定の自信を持っていても、熱意のある人間には到底かなわない面があることを思うとき、人は我が身をいたずらに呪ったり、あるいは相手の単純さを嘲笑ったりする。そのどちらも無益であることをわかっているからこそ、魂はどんどんすり減っていく。そういった成り行きは特段珍しいものではありません。

しかし、相手がただ単純な人間ではなく、選択的に決断した結果として単純な自己の顔のみを見せている、あるいは相手は本当は自分よりも反省能力が極めて高いからこそあえてひとつの側面しか見せないように細心の注意を払っている——そう思うと寧ろ、自らもこの生命を演じきってやろうという、単なる前向きとは異なる、しかし後ろ向きでもない心持ちになりうる。

——そして第三に、これは重要だと思うのですが、書かれたことだけが相手の考えていることではない、書かれなかった何かがある、という想定を行うことで、相手をむやみに裁かなくなる。つまり相手の表現に対してまた相手の人格に対して敬意を持つことにつながるのではないかと思われるのです。これはときりもなおさず、相手を裁くのに余計な精神的・時間的リソースを使う必要がなくなるということです
 
どういうことかと言えば、例えば相手の攻撃的な表現というものが一定の戦略に基づいているのだと考えれば、それは相手の表現に対する糾弾ないし反感を覚えることには繋がっても、相手の人格そのものとは差し当たって切り離された何かに対して、極めて限定的な意見を限定的に持つ、という態度につながるわけです。

相手はもちろん何らかの決断の結果として、決断の集積の結果として、一定の表現を行っているけれども、そうして切って捨てられたものだって重要でないというわけではない。たまたまその条件を一定の条件下においては表現に現れなかったというだけで、そうして切って捨てられたものも非常に重要な意味を持っているのではないか。

——そのように考えてみることで、もちろん極めて限定的なかたちではあるけれども、書き手に対して一定の多角的なありかたというものを認めることになる。

そうすることで得られるのは、相手をむやみに裁かなくなるという美徳です。

さらに言えば、相手の表現がたとえば過激であった場合に、こちらの心が動かされないようになる、という防具の意味合いも持っているというわけです。

つまり、相手が何かを決断の結果として捨てたのだろうと想定しておくことで、そうして出てきた表現は、切り取り方(=決断の仕方)がまずかっただけで、実はもっと豊かで節制のとれた内容を背後に持つのではないかと、相手の表現に苦しめられたり、相手の表現にむやみに感情を揺さぶられたりすることが減るのではないか、ということです。


最後に言えば、私がこのようなことをわざわざ言うのはある種の信仰告白です。

私は、人間が決定的な一貫性を持ったまま生き続けることなどない、と信じていたいし、人間が単線的でない存在だと信じていたい。

これはひょっとしたら、単線的な・一つのことだけを信じて生きることのできない自分や、現代というものに対するある種の絶望からくる態度かもしれません。

しかし、
虚構生産装置としての言語を運用する人間にとって、複数の生命を・複数のフィクションを生きることは本質的であるように思われますし、
また同時に、
ひとつの声しか救うことのできない言語を運用する人間にとって、複数の生命の中から一つの生命・一つの側面だけをとって表現をし、相手にそう淡く期待することも本質的であるように思われるのです。

人はヤヌスでありながら、一方の顔を覆わねばならない、そうした運命を持つのではないか、ということです。

平べったく書き直すなら、私が改めて意識したいと思うのは、一つの表現の背後にも何らか複数のものがあるということ、切って捨てられてしまったものがあるということであり、その点に目を向けることで、得られるものは多いのではないかということです。