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紅茶の感傷

 以前から何度か書いているが、自分のなかで夏から秋に代わる切替時に、無性に紅茶を飲みたくなる。もはや儀式さながらに紅茶を飲む。子どもの頃、コーヒーの解禁が小学校高学年以降だった家庭で、帰宅すると母が決まって熱く甘い紅茶を淹れてくれた。帰宅時、母は既に夕飯の支度をしており、コトコト鍋の煮える音やまな板と包丁がつくる音などと共に、台所に立つ母の背中を眺めながら熱い紅茶を飲むと、家庭にいる幸福を感じられた。

 母は今おもうと大した人で、教員免許を持っていたこともあり私が幼い頃から自宅で週6日、英語塾を主宰していた。当時は土曜日も学校がありましたから・・。にもかかわらず、家事もこなして3人の子育ても完全なるワンオペでやっていて、自分がいい年になると母の超人ぶりがわかる。食事など非常に手間のかかるものをすべて手作りしていたし、子どもが勝手に部活で忙しくしていて、朝練など出るのにも朝食を用意し見送ってくれた。7時半前に学校についていたから母が起きるのは5時台だったんではないか。夜遅くまで英語塾をしていてそれなのだから、本当に頭が下がる。

 私が秋の気配と共に熱い紅茶を求めるのは、きっとこの原風景も手伝っていると思われる。

 楽しいこと、うれしいこと、悲しいことや少し残念だったこと、小学生なりに1日はドラマに満ちている。30分ほどの帰り道も小さな身体には結構大変だ。それでも帰宅するとそこは常に完璧に安全だった。母がいたからだ。

 夕餉支度の匂いを漂わせながら台所に立つ背中を見るだけで、自分は守られている子どもなのだと思えた。どんなに忙しても帰宅すれば甘すぎる紅茶を淹れてくれた。そうか、紅茶には幸福な感傷が伴っているのか。

 うだるように暑く、心も身体もしんどい季節が終わりを告げるとき、やっとひと心地ついて自分にも心というものがあったのか、と足元を眺める余裕が生まれる。しのぐディフェンス一辺倒の日々にはない余裕だ。時間も心なしか穏やかに過ぎる。そんな折に季節と自分を切り替える調和、サインのように熱く甘い紅茶を飲むと何もかもリセットされる気がする。

 ある意味でこの儀式を介して新たな季節を迎える自分は、秋がセカンド新年という感じだ。節目として再度自分に向き合うタイミングなのだろう。考えてみれば、秋生まれなので意外に道理にかなっているかもしれない。

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