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とらなくてはならなかった賞

 準備体操モードとしてリビングに行き窓を全開にして空気を入れ替えてきた。コーヒーをたっぷり沸かしてベッドにクッションの係累をつくり、チャーリー・パーカーをかけながらPCに向かっている。なんの準備体操かと言えば本格的な起床のための、だ。

 ある広告賞で昨年自分のチームが担当した作品が入賞したという知らせが届いた。木曜日の夜のことで自分は家のなかで知らせを聞いて絶叫した。この入賞には意味があった。私たちには入賞が必要だったのだ。

 私のキャリアでも初となる大きな広告宣伝予算が組まれた大きな契約仕事で、昨年は本当に苦悩の日々だった。詳しくは当然書くことができないが、広告代理店をコンペで選定し(この時点で非常につらい。各社最高の提案をしてくれた中からもっとも最高を選ぶというつらさ)、その会社が3案だした方向違いのコミュニケーションプランのうち、もっとも冷静なのに極めて刺激的なコピーを私と相棒は選んだ。二人しかいないチームだったが二人とも意見交換もなく、それが最上だとわかった。そうして代理店は一蓮托生のチームとして、このプランを進めるべくスタートしたのだ。

 しかし内部の階層を上るにつれ激しく、その案への反対と懸念ばかりが下りてきた。そのたびに彼らの懸念を払しょくするためのリサーチ、グルインを繰り返し、それでもおさまらないので関係団体へ丁寧に解説とヒアリングを行った。意図を丁寧に話すと概ね理解してくれ、むしろ外部は背中を押してくれた。どんなに勇気を得ただろう!
 
 それでもさらに、もっとも許諾を得なくてはならないある機関がYESと言わない。けれど表立って彼らの意思を真に受ける必要性もないため(表立って、だ。真実は彼らの許諾なしには何もできやしない間柄である)、彼らはいつもいつの会議でも「本当にそれでいくのですか?」という問いだけを鳴らし続け、GOをくれなかった。するとまた私たちは彼らの口にした懸念をすべて解消するためにあちらこちらに出向き、ポジティブな説得材料を求めた。そうして起案して2ヶ月、入稿ギリギリのタイミングにやっと周囲はしぶしぶとOKをしたのだった。

 広告はすべての人がOK!という作品の方が少ないと思う。そして、今回の仕事の特性的に見ても、立場の近い関係者ほど「すべての人がOKという作品を目指せ」と考えるのも正しい見解であった。それもありだったと思う。担当者が変われば無難で誤解の少ないプランを選んでいた可能性は大いにある。けれど、それでは社会に波紋を起せない。この件は、社会に波紋を起さなくてはならなかったのだ。

 大変哀れを催す現状を言えば自分はプロ人材としてアサインされたのだが、その相棒だった正社員の方は一連の広告コミュニケーションがもたらした「波紋」が内部の上層部を刺激したことで懲罰人事をくらい、担当を外された。そして契約期間を2ヶ月残し、自分も先月末で終わりにしてもらった。社会人として耐性を鍛えるべきであったかとも思うが、さまざまな点で自分の居場所ではないと思ったからだ。そして二人して言っていた。

 「あの広告が、広告賞をとれたら、誰も思わなくたっていい。でも私たちが正しかったひとつの証明になるはず」と。そしてもたらされたのだ。皮肉なことにこれを世に送り出した人はもはや誰も関わっていないので、数ヶ月後の表彰式には無関係な現担当者たちが行くだろう。それはもう仕方ない。

 けれどあの日々、幾度も心が死んで血を吐き続けた苦しみは、ひとえに社会へ挑戦状をたたきつけるためであったし、私たちはこのアプローチが正しいと信じた。生み出し伴走してくれた広告代理店にはつらい思いばかりさせた。だから、彼らにこれでほんのわずかでも報いることができればと願う。

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