見出し画像

ピアノを弾くようにして

ときどき、PCのキーボードを叩く指の感覚が、ピアノを弾いていたときに似ているな、と気がつくとあえて「ピアノを弾くように」形をとって文字を打っている。8年も習っていたが、最後の最後までピアノを愛することのないまま演奏者としての旅を終えた。けれど今でも、聴くという点ではピアノの音をもっとも愛している。

三姉妹で幼いころの初の決定事といえば、大抵は長女の姉がもたらすのが常だった。当時もそのようにして、バレエを習いたかったわたしの夢はついえ、問答無用で三人ともピアノを習わされた。これは絶対的に、アップライト・ピアノを購入した親が、元を取ろうとしたに違いない。そしてやっぱり、自ら望んだ長女たる姉のみがピアノ演奏を愛し、よく長じた。

いやいや続けていても微々たる進歩はするもので、レッスンを終えた中学3年までの間には数曲の歴史に残る大作家の名曲などを弾く機会にも恵まれた。「エリーゼのために」や「トルコ行進曲」、「乙女の祈り」に「花の歌」などは今も時折「弾いてみたいな」と思うくらいには愛着を持っている。

さて、「ピアノを弾くように」してキーボードをタッチするのは、どういうことか?といえば、手のひらに卵がそっと入るほどの間をつくって幽霊のような手ぶりをする、ということだ。だらしなくぺしゃんこにしてしまうといつも怒られた。かたち、フォルムを守ることになんの演奏との関わりがあるのか?ということは、最後まで見つけることのできない中途半端さで終わったが、ふと考えてみると自分はそういうところがよくあった。つまりは、フォルムに異常に気を配るということが。

たとえば、これもまたずいぶん長く続けたバスケットボールでも、3Pシュートの際の手首と指の流れには非常にこだわりを持っていた。しかし、さらにこだわったのはレイアップシュートの際に背筋をそらすことだった。実はこれは、やってはいけないフォームとして知られ(腰を痛めるうえに得点率もさほどよくない)、実際にわたしがそうするようになったのは、あこがれていた先輩がクセの一つでシュート時に長い手足を持て余しながら思い切り背をそらしてしまうことをコーチが注意したためだ。この姿勢は彼女独特のものであったため、わたしはそれを模倣することに決めたのだ。実際、シュート時に背をそらすと見た目にはとても美しいと思う。けれど受ける恩恵はほとんどない。

他には何かあったかな?と考える。あった、あれだ。歩くとき。仕事をしていたファッション誌では、ファッションにまつわるさまざまなカルチャーショックを味わったが、「歩き方」においてもそういう学びがあった。7センチから9センチの高いかかとの靴を履いていても、相当な速足が求められる職だったので、ややもするとバタバタと醜く騒々しいばかりになってしまうのだが、そういうとき手や腕というのもリズミカルに大きく振れている。これを「美しい歩き姿」に近づけるには、腕の振りを後ろにもっていくことだと知った。加速するとき大抵前方へ大きく降り出してしまうわけだが、(衛兵の行進よろしく)これをあえて抑えて、後方時にのみ動きを持たせる。なれるまで苦痛でしかないが、実際にそれだけで多少なりともエレガントに見える不思議。

他にもいろいろある。タクシーへの乗り込み方、その際の脚の運び、コーヒーではなく紅茶を飲むときの指づかい、いろいろ。でも、中身が伴っていないとこれら全部をやっているとただの嫌味な女になってしまう。自分でもキモイと感じるのだ。教養や内側の美に目覚めていないままでフォルムだけ真似していることの猿真似感といったら…。それなので、あえてどたばたしたりする。これがホントの自分ですよーというPRのように。

それでも「ピアノを弾くように」文字を打つことだけは、あのころ随分先生に注意されたのでついやってしまう。こういうのが、第二の天性というのだと思う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?