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切られたカード

お願いしたわけでもないのに、あのひとが本を薦めてくれた。しかもなんとなく、薦めた理由を深読みしてしまいたくなる本を。読んでいる途中、幾度も「もしかしたらこの箇所に書いてるこういうことをわたしに言いたくてお薦めしてくれたのかしら…」と思わなくもない内容が書いてあったが、とりあえず最後まで読んでしまおう、と決めて読み進めると読後に存外何も感想が残らなかった不思議。

わたしは自分のこだわりや思い込みを結構愛して生きている人間だ。なぜってこだわりというのは先天的でない限りは、自分の体験から生まれた「こうしよう」という意思によるものだからだ。そしてこのこだわりを、もっとも惜しみなく見せた相手こそ、あのひとだった。非常にプライバシーを重んじる人間なので、仕事上であったり普通の友人くらいであれば、このわたしのこだわりなんかは滅多に露呈することはない。そんな自分をご開帳するようなことは、絶対にできない性質だからだ。

おそらくは彼は、そうしたわたしのこだわりや思い込みに対して一家言持っていたのだろう。それだから、自分の口からではなく(彼の考えだということにならないように)書籍の体を借りて、かつ「脳による仕業」に過ぎず、あなたが後生大事にするまでの信念ではないのだよ、と言いたかったのだと思う。わたしはあのひとの、こういうところがきらいじゃないのだ。

わたしがいつも、大切に抱え込んでいる狭く小さな世界を、彼はいつも手をくだすことなく壊しにかかる。冷徹な批評家の目で。しかも一般論などの多数派理論でからめとるのではなく、彼だけのゆるぎない物の見方で一突きにするのでたまらない。出逢った当初はその度にたじろいで、軽くアイデンティティを揺らがせていたけれど、さすがに今ともなれば勝負のカードを切られたかのような高揚とたまらない愉悦を感じる。一個と一個の、自我の闘いなのだから。

本の内容にまったく触れないのもなんなので、申し訳ばかりに記しておく。ひとつ自分が驚いたことには、著者自身による体得した研究成果などを著したものではなく、いろんな研究者が行った研究結果を引用することで書籍ができるんだ、という驚きだった。これは嫌味ではなく、著者の豊富な知識と適切な解釈力が資産なのであり、自分が研究者になる道ではなくて、有益な研究成果をメジャーなところで一般に汎用していくことの媒介としての担い手に、この方の存在意義があるのだと思う。それなので、「このことを裏付けるのにはあれそれの研究結果がある」ということをポンポン引用してこれる幅広い記憶、知識だけで一冊の本にできてしまうってすごいことだな、と思った。まるで口頭でしゃべっているかのような気安さで一冊完読できてしまう。でもなんだろう、記憶にはまったく残らなかったな笑

いいのだ、それで。

これはあのひとからの、ある意味で切られたカードなのだから。

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