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味気ない世界で

自分的ニューノーマルは、大事だと思う打ち合わせにおいて相手との関係性をよく把握しないとおいそれと「ちなみに対面でって可能でしょうか?」と言えなくなったこと。人によっては「けしからん。すべからくWeb会議でよかろう」ということも十分にあり得るし、そしてその背景にある深刻な事態を自分自身も知っているのだし、非常に測りかねる。しかも、結構仲の良い間柄においてもそれを聞かなくてはならなくなったことが、ニューノーマルだ。あの人も自分と同じはず、と他の価値観においては言えた場合も、ことこの件に関しては感覚がそれぞれでよくわからないのだ。

それでも昨日は、3回のWeb会議を経てもラチが開かなかった件において勇気を出して「ちなみに対面でって可能でしょうか?」と聞いてみたところ、快諾してくださっただけでなく、あっという間に話が進んだ。わたし自身のWeb会議ベタが原因でないといいのだが…と危惧する。が、先方も別れ際に「やっぱり会わないと伝わらない一線ってあるんだよね。なんなんだろうね、これ」というので、「あはは。今そういうこと言うと《昭和のおじさん・おばさん》って揶揄の対象になりますよ」って笑ったけれど、立派に昭和のおばさんだわ笑。

正直にいうと、《昭和の人間》と揶揄されるであろう発想をいくつも大事にしていたりする。わたしはやっぱり営業は足でやるものだといまだに思っているし、それこそが一番に効果的と信じて疑わない。けれどそれは、革靴のつまさきが敗れたとか、血豆ができるまで歩き回ったとか、それを努力の証として尊ぶのでは毛頭ない。人に一番最初に対面したとき、平素の自分を評価されるのだと思う。清潔感、声のはり、基本的な礼儀。そういったものをベースに背負って商品を売り込む。今の時代、どんな商品だって世に出ている限り、ある程度の性能はクリアしているわけで、そうなると「誰から買うか?」ってこと、誰(企業)と商取引によって関係をつくっていきたいか?ってことだと思っているからだ。

とはいえ、自分の関係している仕事先、契約先も多くが顧客管理ツールを駆使したメールでのアタックだったり、営業代行会社を雇って機械的にセールス攻勢をしたりと、効率重視で数を打つことが常識になっている。

自分は出身が営業職で、新卒の頃はあまりの向いてなさに苦しんだ。毎週月曜日の会議前には通勤の電車内で「なんて報告したらいいのか」と吐きそうになっていたし、経験値のなさで気が利かずコミュニケーションもうまくいかなかった。毎日ぼろ雑巾のように怒鳴られ、コテンパンに自我を打ち砕かれた。あるとき、制作会社で入稿作業をしているときに「ほんと営業に向いていなくて…」と軽口でつぶやいたとき、いつも一緒に仕事をしているデザイナーさんがこう言った。「え?すごく向いてるけど」と、芯から不思議そうな顔をしていた。

その後10年以降は「まじ天才なのかもしれん」と思うほど売った。メディアバイイングは、天才ではなかったが天職ではあったと思う。何をどうしたら受注に至るのかのすべてが、最初に話をしたら瞬時に理解できた。あとはその道筋に従っていけばよかった。

この動物的なカンは、おそらくPC越しには機能しにくいのだと思う。相手の本当の望み、心のうちで思っている真実、可能性を感じさせる空気の変化、そういうものがわからない。これからの人たちはこの辺も巧みになるのだろうか。すべてが画面越しで体温のない関係なんて実に味気ない。こんな世界はいやだ。

photoby Ryan McGuire


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