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応援するというのは、伝えるということ


最近、「反応」をするようにしている。


とあるYouTubeが最近更新されないなぁと思って、チャンネル登録している人から探してホームページに飛んだら、すべての投稿が削除されていた。

プロフィール写真も消えていて、きっと自分で削除したんだと思うけれどそれを見たときにすごく後悔した。

元々更新頻度は高くなかったけれど、ノルウェー語についてアップしている方で勉強だけではなくて雰囲気もすごくすきだった。
ノルウェーに行くことがちゃんと決まったらコメントしよう、なんてことを考えていたけれど、その夢はもう二度と叶わなくなってしまった。


こんな経験がある。

いま勤めている会社で扱っているサービスがひとつ、終了することになった。
そのサービスは、サービス開始になった際に部署異動することになったもので、サービスが終了するにあたってサービスの最初から最後まで対応したことになる。

いまの会社に勤めて半分以上が、その部署に在籍していたことになる。
わたしにとっての会社での思い出は、どうしたってそのサービスに関わることなのだ。

そのサービスが終了することになった時に、お客様からの反響は様々だった。
それでも、「使ったことなかったけど続けて欲しかったなぁ」という言葉を見たときはすごく虚しさを覚えた。



このYou Tuberさんのチャンネルが消えてしまった時に、すきだったのになぁ…と思った途端にこの自分自身の出来事を思い出した。

すきだったのになぁ、なんて伝えてさえもいないわたしに言う資格もないような気がしてしまった。


毎日noteを続けていく中で、時々「書かなくても誰にも影響なんて出ないよね」なんて思うことがある。
勉強だってそう、筋トレだったり、サボったり怠けたり、やめてしまったとしても誰にもなにも関係ないことだと思えてしまう。

なにかを継続することは、それほど時に苦しいときがある。


それを支えてくれる自分自身の「発信欲求」「行動欲求」とでも言えるような気持ちが枯渇した時に、だれかからの「反応」というものがとても支えになる。

なにを書きたいか思い浮かばない時に、それでも…とnoteを開いた時に通知が来ているだけで嬉しくなる。今日も書こう、と思える。
誰かひとりにでも届いているのなら、書く意味があると思える。


好きだと思うならば、それを伝える。
対象がお店なら、そのお店に行く。サービスならそのサービスを使う。すぐに行ったり使えないのであれば、せめて「好きですよ、応援してますよ」と言うだけでも違う気がする。
(経営者の方からしたら、応援してますって言葉だけでお金を使ってもらえなかったらそれは応援とは呼べないのかもしれないけれど…)

食べた後にもごちそうさま、美味しかったです、と伝えたい。
面白いnoteならスキの反応やコメント、シェアすることもできる。TwitterやinstagramなどのSNS関連はそう。
CDやDVDは買わない時代で、映画館にも行かなくてもいいのかもしれないけれど、応援したい気持ちや今後も続いてほしい活動や文化は自分たちが続けていくくらいの気持ちや支援が必要なんだよね。


「続けて欲しかったなぁ」と思うなら、せめてサービスを使ってほしかったなぁと悔しい気持ちになった。
使ってもらえなかった理由もきっとあるはずで、使った上でお客さまが離れてしまう理由もきっと絶対ある。

もっと頭を使って、気持ちを使って、もっとできることがあったはずなんだって悔しく思ったサービス終了の日。
それなのに、わたし自身も傍観者になってしまった。


自分自身が応援している人に、ちゃんと気持ちを届けるためにも、その人の活力に少しでもなってもらえたらいいなと思いながら反応をしていきたい。

それは相手のためだけではなく、自分自身の「スキ」と思える存在が持続的であり続けてほしいと思うからこその行動。



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