見失いたくない私らしさ~noteを三ヶ月続けて

 寒気厳しき折、みなさまいかがお過ごしだろうか。私は仕事相手(今年は職場の方々を除く)の年賀状を来週中に書けるか不安に思いながら、仕事に忙殺されつつ、でもプライベートのこのnoteタイムだけはちゃっかりとって大事にしている今日この頃である。来週からまたぐっと冷え込みが増すそうなので、どうかご自愛くださいませ。

 昨日で、noteを始めて三ヶ月。たまたま、10日というきりのよい日に始めたので、覚えていた。といっても、二ヶ月前は忘れていた。忙しい時期だったのもあるけれど、それは今でも変わらない。noteさんからのお知らせがないと忘れがちだ。昨日はなんとなく覚えていた。
 ありがたいことに、たくさんの方にフォローしていただき、スキやコメントをたくさんいただけるようになった。こんなにいろいろな方々と交流することになり、交流が深まる間柄の方にも巡り会え、私は幸せ者だと思う。

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 三ヶ月前を思い起こそう。最初は、先日掲載した処女作の題名にもなっている作品名で、note公式企画「2000字のドラマ」に投稿した。最初に参加させていただいたのが、この企画で本当によかったと思っている。
 創作活動を本格的にしたことがなかった私。こどものときから、寝る前に物語を頭の中で繰り広げることはあった。いつかそのときの登場人物名も、別の形で登場させられたらいいなと思っている。今でも頭の片隅で生き続けている、大切な子たち。でも、人様に見せられるものではない、自分だけの物語。書くノウハウを学ぶことなどなく、ただ、彼ら彼女らが動くままに任せていた。今でも、夜眠れないときには、別の人物の人生を進めながら眠りについている。
 たまたま、その少し前から小説の読み方を学ぶ別の機会に恵まれている。小説が著者によってどんな風に書かれているから、そこに着眼して読むことで小説を読み深めることができる。読みというのは本来多様でかまわないが、それでも書かれていることから筆者の意図が自ずとわかる。だから、書かれていることに立脚して読むことが、読みというものだ。平たく言うと、そういうことを今、学ばせていただいている。恥ずかしながら、今まで、文学部に所属していたのに、感性の赴くままに任せていた。小説を書いた作家の思いを読み取ろうとしていなかった。文学部で、日本文学、ドイツ文学、英米文学に触れる機会が多く、時代背景や作家の人生、文学の生まれた文化的背景と作品のつながりを学んだ。大学で触れたものは文学作品に留まらず、音楽、映画、美術、演劇など多岐にわたる。多様な文化に触れ、それが生まれ愛されてきた所以を学んできたのに、現実と結びつけられていなかった。もちろん、大学での経験から、美術館、映画館に行く機会、本を読む機会、演奏会に足を運ぶ機会、演劇を観る機会が格段に増えた。しかし、味わうのには、感性ももちろん大切だが、勝手な解釈だけでは真髄を理解できず、作り手のメッセージを自然と読み取る力を鍛えることが必要なのだと悟った。それによって、感じられる世界の広がりが全然違うのだ。小説の読み方を学ぶことで、小説世界が五感でより豊かに感じられるようになったのはもちろん、大学で学んだことを再認識するきっかけをいただいた。
 そして書き手にまわり、今までインプットしてきたものを糧に、表現する楽しさを知った。ただ、まだまだ未熟で書き手のいろはも知らない私にとって、「2000字のドラマ」は本当に学びが多かった。それについては別記事で詳細を綴ったので割愛するが、あの企画に参加するのとしなかったのでは、その後の創作活動が全然違ったものになっていただろう。

 職場の先輩に勧められ始めたnote。プロフィール記事に詳細を綴っているが、その記事をありがたいことに今でも読んでくださり、コメントまでくださる方がいる。私は、作品へのバイアスや、私自身の漏洩を防ぐべく、自己紹介は今後もしないようにと思っている。それでも、noteを始めて一週間し、たまたまnote公式企画の「あの会話をきっかけに」を見つけ、先輩への感謝を忘れないように、自分というものをここまでは知っていただいてもよいというラインまで書いてみようと書き起こした。

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 noteを始めて一ヶ月後、noteでの私なりの書き方を認めた。今でもその書き方の根本や創作のスタンスは基本的に変わっていないと思う。その後に参加させていただいたいろんな企画、交流させていただいているみなさまの書かれる記事、コメントを通じて得た学びを生かし、好きに書いていく。
 ただ、創作で出会った方、エッセイで出会った方、写真で出会った方、日記・つぶやきで出会った方…いろんな方にフォローしていただいていて、最近迷いが生じるようになった。
 小説、エッセイ、日記・つぶやきの内容が、別ジャンルで出会った方に、どう映るのだろう。綺麗なことしか書けなくなりそうになる。この内容でいいのか。読者を気にして書くこと自体どうなのか、それはかえって読者に対して失礼なのではないか。でも、怖い…そう考えると、書く内容にためらいや悩みが生じるようになった。
 一番最初のほうからフォローしてくださっていた方の多くから、今、フォローされていなかったりする。それ自体は全然かまわない。いろんな理由があってフォローし、合わないと思われたのだろう。仕事でないので無理して関係を続ける必要はない。私も日常生活を優先し、マイペースにいろんな方々と関係を続けさせていただいている。今フォローしてくださっている方も、遠慮なく検討していただいてかまわない。でも、フォローしていただいていることに、心から感謝していることだけお伝えしたい。
 当初から、良い意味でも悪い意味でも、変わっているのだと思う。たとえば、エッセイの常体・敬体の違い、段落ごとの字下げ・改行の有無、テーマ、書き方、noteとの関わり方。悪い意味で変わっていたとして、そこを指摘されることは少なく、そっと去られるものだ。もし何か気に障ること、傷つけてしまうことを書いたり、失礼な言動をとっていたりしたのではないか、と不安になる。そうでなければよいが、そうでなくても、今後も気をつけたいと思う。

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 改めて確認用に作ったマガジンを覗くと、日記やつぶやき、作品語りを除いた純粋な作品は三十を超える。一ヶ月あたり、約十余りを書いてきた。それらの根底に流れる私らしさは、まだ失われてはいないように思う。
 私らしさってなんだろう。それに囚われる必要はないとも思う。私というものも、いろんな経験をもとに、日々少しずつ変わっている。しかし、育まれてきた感性や倫理観は大切にしたいし、学び、受容したり昇華したりすることを続けていたい。誰かに迎合したり、巧みな表現に酔ったり、受賞に躍起になったり、フォロワー数に萎縮したり、スキ数に敏感になりすぎたりはしたくない。誰でもないけれど、私にしか書けないものもあるのでないか。何番煎じであっても、一つとして同じ作品はない。『ロミオとジュリエット』だって、オマージュし、されながら、それぞれが作品としての価値を持ち、長く愛されている。私らしさを乗せた作品が、たった一人の心を揺さぶることができれば、それは本当にうれしいことだ。もしそれが多くの人の心に響けば、こんなにうれしいことはない。
 作品の評価と個人の評価は別。それは、作家にしろ役者にしろ芸術家にしろそうではないだろうか。人間だから、それに私は胆が据わっていないから、作品が評価されなかったとき、個人を否定されているように思い、どうしても怖くなる。でも、そうではなく、たまたま響く範囲が狭かったのだと宥めよう。礼節と配慮を欠かなければ傷つく人を減らすことはできるから、作品としての完成度と天秤にかけつつ、読者を信頼し、私らしさを見失わずに書き続けたい。

サポートしてくださる方、ありがとうございます! いただいたサポートは大切に使わせていただき、私の糧といたします。