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箱の中

 今夜もひとり、夜景の綺麗な特等席へ足を運ぶ。その特等席は、カフェでもレストランでもバーでもない。廻る箱の中。

***

 休日はカップルや親子連れで賑わいを見せるその乗り物も、平日は空のゴンドラをぶら下げながら寂しく廻る。案内人の彼もぽつんと佇む。
「あ、おはなさん、こんばんは。今宵もようこそお越しくださいました。23番、空けています。」
 彼が微笑みながら話しかけてくる。23番が私の特等席。平日は誰もいないし、休日は列をなし空けられない。初めて乗ったのがたまたま23番で、以来決まって平日の晩に赴くと、彼は23番を案内する。
 パスポートを渡すと、
「ありがとうございます。お返しします。それとこれ、よかったら。」
「え」
「次におはなさんがいらしたら、お渡ししようと思って、お待ちしておりました。さあ、今宵もどうぞ、空の旅をお楽しみください。」
 ちょうど来た23番に手をかけながら、駆け足で話しかけ、半ば押しつけるように小包を手渡される。戸惑いながらそれを受け取り、慌てて乗り込むと、ドアが静かに閉められた。座席で小包の中身を確認すると、小さな木の小箱が入っていた。

***

 その観覧車を初めて訪れたのは、一年前に遡る。その時から彼が案内人だった。
「こんばんは。ようこそ大観覧車へ。」
「こんばんは。これ、お願いします。」
「大人一枚、承りました。では、空の旅へ、いってらっしゃいませ。」
 赤い「23」と書かれたゴンドラに乗り込む。目の前に広がる波打つ黒い海が、少しずつ遠ざかる。それをぼうっと見つめる。だんだんと、地元ほど星が見えない黒い空が迫る。高層ビルが小さくなり、車は豆粒ほどだ。このまま、現実から隔絶され、黒い空に呑み込まれそうな気がした。
 どのくらい座っていたんだろう。
 コンコン。
「お客様、そろそろお時間です。」
 慌てて降り立つと、やわらかい笑みを湛え、彼は続ける。
「いかがでしたか。」
「えっと…ビルが、車が小さくなって、人が点々としていて、星はあまり見えなくて、月が丸くて、空も海も黒かったです。」
「そうですか。またぜひお越しください。よく来られるようでしたら、パスポートがおすすめですよ。」
 赤い「年間パスポート」と書かれた手のひらサイズのそれを、勧められるままに購入した。いつしか、早上がりの仕事終わりの行きつけとなっていた。行くときはいつも百合のブローチをつけていたから、「おはなさん」と呼ばれるようになった。

***

 見慣れた景色を眺めながら、握りしめた小箱のことを考える。開けるのが、いささか躊躇われた。ここを訪れたあの日は、銀婚式のはずだった。出張が続いたかと思えば、別れは突然に訪れた。それから半年。まだ心の整理もできていなかったその日、夫が予約していたプレゼントが届いた。封筒に入った二枚の観覧車のチケット。そんな気分じゃないのに。でも、銀婚式の日、夫は私とどんな景色を共にするつもりだったのだろう。気になって、気がつけば観覧車の前にたどり着いていた。
 あれからちょうど一年。なんとなく、今日はここに来なければいけない気がして。そしたら、なぜか馴染みの彼に小箱を渡されて。なんのつもりで。ここは、夫との銀婚式を迎えるはずだった場所。いつも空を見ては、夫との思い出が鮮やかに蘇って、人知れず涙する。夫との思い出で胸がいっぱいなのに。小箱を開けてしまうと、大切なものがこぼれてしまいそうな恐ろしさを感じ、なかなか開ける勇気が持てなかった。

***

 コンコン。
「箱の中身、ご覧になりましたか?」
「ごめんなさい、まだ…」
「どうぞ、もう一周。ぜひ、開けてみてください。今日は貸し切りですから、気の済むまでお乗りになってください。」

 開けずに帰ろうとしていたのに、そう言われては開けない訳にいかない。恐る恐る、蓋を開ける。

♪~

 曲が流れ出し、小さく折り畳まれた手紙が収められていた。

百合のブローチが似合う君へ

君は今日もブローチを身につけているのかな。
これを読んでいるということは、僕は君とさよならをしてしまったんだね。
君は今、幸せかな。
観覧車の彼に、君を託した。
僕は君と最後まで添い遂げることができないとわかって、最期まで君の笑顔を見ていたかったんだ。
涙に暮れる悲しい顔を見る勇気がなくて、突然消えゆく意気地無しの僕を、呆れて笑い飛ばしてほしい。
これは、君への最後の贈り物。
君がもし一年後の記念日にこの場所を訪れたら、渡してほしいと彼にお願いしたんだ。来てくれたんだね。
どうか、僕を忘れて幸せになってほしい。
ただ君の幸せを心より願っているんだ。
君に似合うと贈った百合のブローチをこれに収め、今日から新しい人生を歩んでほしい。
ゆりこさん、あなたと暮らした25年は、かけがえのない日々だった。
たくさんの幸せをくれた君に今できるのは、君のこれからの幸せを願うことだけだ。
末永く、自分のために素敵な人生を。

                  望

 手紙が濡れないように、十周年記念にもらった百合の刺繍が施されたハンカチで、目頭を押さえた。

***

 コンコン。
「降ります。」
 口パクに気づいた彼がドアを開ける。
「読まれましたか。」
「はい…」
「ご主人からお預かりしていました。ご主人は、私の大学の先輩で、生前大変お世話になったんです。最初で最後の願い事が、結婚記念日にチケットをあなたに送り、何も言わず、もし一年後の記念日にまた来られたら、このオルゴールを渡してほしいというものでした。」
「そうだったんですね。約束を守ってくださり、ありがとうございました。夫はあなたに何か言っていましたか。」
「手紙にすべて書いた。これを開けずに、一年経ってあなたが来なければ、処分してほしいと。」
「そうですか…」
「勝手ですよね。与えてばかりで、全然返させてくれない人だった。」
「本当よ。勝手すぎる。まだまだたくさん言いたいことも行きたいところもあげたいものもあったのに。言ってくれたら最期まで病院に通って後悔のないように尽くしたのに。」
「あなたの写真を見ながらいつも、この笑顔が続いてほしい。曇らせたくないんだ、と病床でおっしゃっていました。」
「ずるい。そんなことより、もっといっぱい話して、寄り添いたかった。忘れられるわけないじゃない。あまりに大きい、大切な人だから…」

***

 長い沈黙を破ったのは、彼のほうだった。
「僕、就職活動がうまくいかなくて。途方に暮れていたときに、望先輩、あなたのご主人が、ここを紹介してくれたんです。ゼミの先輩なんですけど、ここの上司と仕事の付き合いがあったそうで。おかげさまで、新卒からずっとここ全体の運営をしている会社で、正社員として働けています。会うといつも奢ってもらってばかりで、僕の方が恩返ししたいのに。ずっと、もうおかげさまで家族を養えるくらい稼ぎありますから、何か返させてくださいってお願いしていました。あなたへの大切な贈り物を託されて、悲しくて。でも、絶対全うしたくて。あなたが来てくれて本当によかったです。来られなくてもご自宅へお送りしようか、でも約束だしと迷っていたから。望先輩、いつもあなたとのこと、幸せそうに話していました。」
「そうだったんですね…」
「あなたの思いのままにしていいと思います。望先輩の願いを聞いても聞かなくても。でも、僕も、あなたに幸せでいてもらいたいです。」
「心の整理がつかないんです。手紙を読んでも、まだ。簡単に思い出はなくならないし、なくしたくない。」
「それでいいんだと思います。ゆっくり、考えられていいんじゃないですか。」
「…ありがとうございます。あの、ここのチケットを夫が手配したのはどうしてなんでしょう。」
「結婚記念日、ぎりぎりだったんですよ、余命まで。なんとかそこまで元気でいたいと、辛い治療も耐えておられました。たまの外泊が決まるとうれしそうに、妻と過ごすんだって、いつもの様子が嘘のように元気そうで。『ここじゃないけど遠くの遊園地で、観覧車でプロポーズしたんだ。もう一度、観覧車デートがしたい。』と。そんなささやかな願いは、叶わなかったですが…」
 涙が溢れ出して止まらない。ハンカチで顔を覆ってしゃくりあげる私を、彼は何も言わずに見守ってくれていた。しばらく経って、深々と頭を下げ、オルゴールを大事に抱えながら帰途についた。

***

 居間の棚の上に、昔観覧車で記念に撮った写真と、オルゴールが並ぶ。オルゴールの中には、結婚一周年でもらった百合のブローチと、夫の結婚指輪が横たわっている。でも、夫を忘れてなどいないし、これからも大切に思い続けていたい。箱の中で始まったふたりは、今も箱の中で、私の心の中で、仲睦まじく幸せに生きている。

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