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8. 《interview》イスラエルのジャズドラマー、オフリー・ネヘミヤの両親:ナオール&オーリィ 前編

イスラエルジャズ界を代表するドラマーのオフリー・ネヘミヤ。ある日、オフリーが出演するライブ会場で、彼の両親と話す機会があった(イスラエルではそういうことがよくある)。母のオーリィは「私の両親は、まだ12歳の頃にイエメンから1942年に船でイスラエルにやってきた」と言い、父のナオールは「僕の両親は、1950年にインドからイスラエルへ移住してきた。インドにコチンという小さなユダヤ人コミュニティがあったんだ。オフリーの姉で歌手のハダールは、アルバムにコチンに伝わる歌を2曲収めている」と何とも興味深い話してくれた。もっと詳しく聞きたい!と両親の家に足を運んだ。オフリーとハダールも同席してくれた。


コチン(Cochin) とは

まずはじめに、「コチン」というのは何なんだろう。イスラエル南部のコチン遺産センターに説明がある。
 インド南西部ケララ州に居住していたユダヤ人コミュニティ。1950年代に大半の約2500名がイスラエルに移住し、今インドに残るのは数名のみ。歴史的には紀元前10世紀に商人としてインド南西部に到着し、やがて現在のコチン市に根付いたとされる。(by Cochin Jewish Heritage Center)

1950年、移住の波にのって、オフリー・ネヘミヤの父ナオールの親族はインドからイスラエルにやってきた。

「来年はイスラエルが建国されますように」とお祈りしていた

ーーナオールの両親はインドではどんな生活だったの?

ナオール(父):両親の実家は布の店を経営していた。裕福ではなかったけど、地元に根付いた店でうまくいっていた。インドではユダヤ人であることでの問題もなく、状況は良かった。彼らは基本的に宗教家で、いつもお祈りをしていた。「来年はイスラエルが建国されますように」ってね。そしてある時、イスラエルが建国されたって聞いたんだ。若者はイスラエルに行きたがった。父はまだ20代だった。

ーー両親はいつイスラエルに移民したの?

ナオール:1950年。母のお腹には3人目の子がいた。自分は7人兄弟(男5人、女2人)の末っ子で、今はみんなイスラエルで家庭を持って、子ども、孫がいる。父は80歳で亡くなったけど、生誕100周年のイベントをホテルでやったんだ。イスラエルの北や南から家族がみんな集まって、いいイベントになった。そのイベントは映像にまとめてある。そのイベントで僕の母が歌っていた「ピユート」をハダールが2曲歌った。

ピユート(Piyut) :ユダヤの祝日や結婚式等の儀礼で歌われる歌。コチンは、世界のユダヤコミュニティとの交流を維持していたので、ユダヤ教の宗教儀礼を維持しつつ、祝日や儀礼にはコチン特有のメロディによるピユートを歌っていた。


オーリィ(母) : 数えてみたら、ネヘミヤ・ファミリーは孫を含めて現在74人いたわ。

ーーそのピユートはいつも家で聞いていたの?

ナオール:ピユートは特別な催事や祭日に歌うもので、日常的なものではない。長い間、父はこれは保存すべきものだと思っていて、結婚式やユダヤ教の成人式、祭日に歌われるピユートをカセットで録音していた。大量のカセットだよ。それから、母に頼んで歌ってもらって、それも録音した。母は歌手ではないけど、とても正確に歌っていたから。
こちら↓がナオールの両親が次世代に残そうと録音したピユートの一曲

オフリーの姉ハダールがアレンジしたピユート

2500人のコミュニティ、ほぼ全員が移住した

ーー両親はイスラエルに到着してすぐ仕事はできたの?

ナオール:父はインドにいた頃からヘブライ語を勉強していて、イスラエルについた時にはヘブライ語を話せた。大半の人はヘブライ語を知らなかったけど、父はとてもインテリだったんだ。それで少し研修を受けて小学校の教員になった。クラスの担任をして、英語と聖書と地理を教えていた。そしていろんな地域の学校に赴任した。
 父以外の家族、母自身や両親の兄弟たちは簡単にはいかなかった。父は派遣された場所で働いていて、他の家族はモシャブ(農業主体の集落)にかたまって住んでいて、最初の2年はあちこち転々として落ち着くまで大変だった。高齢者はヘブライ語を話さず、祖母もそうだったから、僕は祖母とはほとんど話しをしなかった。祖母はインドにいた時と同じように伝統的な服装で過ごしていた。

ーー 1950年というのはコチンの移民のなかでは前半、真ん中、終わり?

ナオール: コミュニティは小さかったから、短期間の間に移住した。
オーリィ(母): コミュニティ全体が2500人で、ほぼ全員がイスラエルに移住した。インドには数人が残っただけ。

ーー コチンを訪問したことはある?

ナオール :一度、兄弟全員でルーツを辿る旅をした。僕が50歳の時だから、12年前かな。

オーディションに受かってアメリカツアー

ーー最初は北部の方に住んでいたんだよね。テルアビブで働き始めたのはいつ頃?

ナオール:僕は、1980年に軍隊を終えて(イスラエルでは18歳から男性3年、女性2年の兵役が義務)、翌年テルアビブ近郊に住み始めた。北部でも結婚式などで演奏していたけど、プロでやるにはテルアビブに出るしかないと思った。テルアビブには知り合いは一人もいなくてね、それでジャズドラマーのアラレ・カミンスキー(Arale Kaminsky)のところに行った。彼はイスラエルのジャズ・ミュージシャンの先駆けの一人で、今でもシャブルール(テルアビブにあるライブハウス)などでいい演奏を続けている。最初の1、2年はカミンスキーが僕のドラムの先生だった。イスラエルの歌を歌うライブハウスで仕事を見つけて、そこで1年演奏した。お金もなかったし、収入があるだけで十分だった。ドラムセットを買って、家賃を払えれば。他は本当に何もなかった。

オーリィ(母):花を咲かせたのは私(笑)。
ナオール:そう、そう。あるバンドがアメリカツアー前にドラマーが辞めるので代わりを探している、とオーリィから電話があった。それでオーディションを受けたら合格して、2ヶ月間アメリカに行った。ボーカル8人にギター、ピアノ、ベース、ドラムで伝統的なイスラエルの音楽をやる大々的なツアーだった。一年後にも声がかかって、もう一度アメリカに行った。その後はプロデューサーをやったり、俳優と一緒に仕事したり、いろいろやった。

アラレ・カミンスキー(2023年12月3日 支援コンサート)

ーーダニエル・ドール(Daniel Dor 来日経験もあるイスラエルのジャズドラマー)の両親とも演奏したんだよね?

ナオール:結婚してから、ハコール・オベル・ハビビ(hakol over habibi)でね。ダニエル・ドールの両親と一緒に7年やっていた。世界中をツアーしたよ。ダニエルも一緒に行って、空港でオムツを変えたのを覚えている。よく食べさせたりもした。
オフリー:その赤ちゃん、大きくなったな(笑。ダニエルの身長は190cmほど)ダニエルは、お父さんから音楽の影響を受けたんじゃない?
ナオール:ありうるね(笑)妊娠中もドラムを聞かせからな。今はダニエルのお父さんは音楽から離れて別の仕事をしているけど、バンドは3、4年に一度くらいリバイバルしている。彼らと一緒に演奏するのは楽しいよ。

イスラエルポップで世界を回る

ーーやってたのはイスラエル音楽?

ナオール:それまでは、イスラエルでよく聞くのは古いロシア的な音楽だったけど、ハコール・オベル・ハビビは、モダンでポップな音楽だった。はじめは60年代の歌の真似をしていたな。プラターズ知ってる? ♪オンリーユーとか、そういうの。それで大成功して、その後次々にオリジナル・ソングを演奏し始めた。7年間、南米、オーストラリア、香港、欧州、アメリカ、世界中をまわった。基本的にユダヤコミュニティ、時にイスラエルコミュニティ、英語のショーもあったし、ヘブライ語のショーもあった。楽しかった。

ーーバンドの他には?

ナオール:収入のために結婚式などのイベントでも演奏した。少しずつハレディ(宗教的な)コミュニティでの演奏が多くなっていった。

ーー宗教的な音楽に繋がりを感じる?

ナオール:聖書の言葉が歌詞だったり、違いは少しあるけど、それまでジプシーソングとかロシア音楽とかさまざまなジャンルの音楽を演奏したから、そこでもうまくできた。イベント、ハコール・オベル・ハビビ、その他もイスラエルの著名なアーティスト達と一緒に仕事をしたけど、一番大事なアーティストは、(妻の)オーリィだよ。オーリィは歌手で、子どもの頃は合唱団、従軍時代はバンドに入って歌っていたんだ。

後編に続く

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