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10年後の今と私の3.11




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 気が付けばもう10年。

 当時、私は東京で仕事をしていた最中に地震にあいました。確か19階のオフィスにいたはず。揺れた瞬間に私の頭をよぎったのは


「この揺れなら電車は止まるだろうし一時的に停電するかもしれないけれども、水道もガスも大丈夫なはず。暗くなる前に歩いて帰れたら生活は何とかなる」


 ということでした。ほんの一瞬で、そう思いました。自分は大丈夫。阪神大震災を震源地のすぐ側で経験していたからか、だいたい今の震度がどれぐらいで、その揺れならどの程度の被害になるかが分かるぐらいには身体と頭に地震の揺れが染みついていたのです。

 そして同時に「サイドの棚から離れてデスクの下に入って!」と叫んでいました。地震を経験したことがない外国籍のメンバーが棚の側でどうすればいいか戸惑っていたのです。日本って地震大国なんだと感じた瞬間でもありました。日本人のみんなは揺れた瞬間に物が倒れてこない場所に移動するか、デスクに捕まるなど自分が怪我をしないように体制を整えていたからです。これもまた小さいころからの経験と訓練なのだと思いました。

 ひととおり揺れが収まったと感じた時点で、スマホを片手に念のため屋外へ出る為、19階から階段を下りていきました。途中壁が剥がれ床に落ちているのをみて、揺れの大きさを改めて感じ、1階について外に出ると高層ビルがまだ左右に、隣のビルとぶつかりそうな勢いで揺れているのをみて、揺れの大きさを実感しました。そして「まずい」という言葉が頭の中をよぎります。


 「東京でこの揺れならば、震源地はどうなっている?」


 ・・・間違いなく大変な状況になっているはず。頭の中をさまざまなことがよぎりました。少し落ち着いて余震が来ないことを確認してから、もう一度降りてきた階段を19階まで登り、上司と暗くなるぎりぎりまで翌日以降の対応をどうするのか話し合い、そしてメンバーを明るい間に帰れる人は帰ってもらって、自分も帰る身支度をして、上司に帰ること告げて同じ方向に帰るメンバーと共に会社を出ました。家まで歩いて2時間ほど。偶然にも数日前に運動がてら家まで歩いて帰っていたので道は覚えていたのです。10名程度の後輩の女性たちと歩き始め、住宅街の中を迷いなく進んでいたら、振り返ると大勢の人が後ろに続いていました。

 その日は本当に寒くて寒くて。1時間ちょっと歩いた時点で寒さにみんな凍え、地震の緊張で身体が相当疲れていたからか「晩ご飯を食べれないか」という話になり、普段は超人気店で予約も取れない鍋屋さんがガラガラなのを見つけてみんなでご飯を食べみんなで暖まり、ほっとしたのかあっという間に鍋をたいらあげてしまった自分たちのたくましさに笑い合い、そしてまたそれぞれの歩いて岐路につきました。私は自分の家には帰れない後輩と一緒に家に帰ったのを覚えています。家のドアをあけると、棚の上にあった物が落ちて、観葉植物の鉢が転がって、大変なことになってはいたけれども、それでも壊滅的な状態ではなかったので後輩に手伝ってもらって片づけ、ガスも水道も止まっていないことを確認して、眠りについたのを覚えています。



 そして、翌日から怒涛の日々が始まりました。

 当時、私は既にwebプラットフォームとなっていた楽天市場のクリエイティブチームにいました。サービスを止めるわけにはいきません。一方で被災地域の出店店舗様も多くいらっしゃいました。みんなサービスを止めないように守り、そして被災地の方々の安否を確認し、を手分けして必死にやっていました。念のため半数が出勤、半数が自宅待機。当時はまだテレワークの仕組みなんてなくて、ごく一部のマネージャーだけが遠隔でも仕事ができるように設定されたパソコンを持ち帰っていました。私もそのうちの1人。だから数十名でやっていた業務を半数ちょっとの人数でカバーするために取捨選択をし、家にいるのにご飯が食べれないぐらいに忙しくて、起きてパソコンに向かってそして寝る、そんな過ごし方をしていました。

 その自宅待機の日に、遅いお昼ご飯のために一度パソコンを閉じて、そしてもう一度開いたときに会社にいたはずの人たちと社内ネットワークで連絡が取れなくなっていました。そこで初めてテレビをつけて知るのです。福島の状況を。頭が真っ白になり「やばい」としか思えませんでした。家にいても仕事が忙しすぎて必死すぎて、テレビをつける時間さえなくて情報のキャッチアップが遅れていたのです。

 不安に襲われながら、窓を全部閉め、カーテンを閉め、一歩も外に出ないようにしてから仕事を続けて、そして夕方近くになって上司から一通のメッセージが来ました。「限られた人数だけで大阪に向かう」。それはもしもの時に、東京で仕事ができなくなったとしてもバックアップが出来る様に、と。そういう意味です。

 必死に仕事をしている中で、安否確認のメッセージが飛び交います。連絡が取れていない人のリストが更新されていきます。もう、必死すぎて、実はあまり記憶があまりありません。ただ、「やるべきことがあった」、それが唯一の救いだったように思います。


 それから様々なことがありました。私も地震の3週間後には上司と入れ替わり大阪に入り、ホテル暮らしをしながらサービスを止めないために働きました。気がつけば季節は冬から春に、そして初夏に。そして、心痛む知らせと向かい合いながら、仕事をすることしかできない自分を責めながら。


 ボランティアに向かう友人を見つつ、どうしても私は現地には行けませんでした。もちろん仕事もあったのだけれども、それよりも、怖かったのです。阪神大震災の時の記憶と闘うことになるのが怖かったのです。自分が死んでいたかもしれない経験をして、未だ忘れることのない音と揺れを、目に焼き付いた景色を、また、目の前で見ることが怖かったのです。




 やっと、行くことができたのは、一年ほど過ぎてからでした。



 その時にみた景色は忘れられません。町の8割以上が流された南三陸にいきました。かなり内陸に入ったところまで、山の木々に津波の跡形が残っていたことに衝撃を覚えたことを忘られません。それは阪神大震災とはまた違う衝撃でした。そこで聞いた言葉は忘れられません。

「地震だけならばそこにいるはずだ。でも流されてしまったらどこにいるのかさえ居場所が分からない。」

一年過ぎてなお、そして今でも、探し続けている方々がいるのです。


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 なぜか、宮城にはご縁があります。

 また落ち着いて訪れたい場所でもあります。



 当時みた景色は言葉にすることができません。

 当時感じた感覚は言葉にすることができません。

 それでも、忘れては行けないと、そう思っています。



 10年目の今日。心から祈りを捧げたいと思います。



 そして3.11だけではなく、阪神大震災も、熊本の地震も、長岡、北海道の地震も、岡山の水害も、熊本の水害も、、、多くの自然災害で被災された方々のことを忘ず、心から祈りを捧げようと、そう思います。黙祷と共に。


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「日々の徒然:阪神大震災から26年過ぎて思い出したこと、そして今思うこと。」阪神大震災で震源地5キロの場所で被災したことを綴った記事です。







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