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【自分を知る】何かを達成した時に得られる「よい気分」とは

以前ネット上で、願望実現をしていて「もっと」「もっと」に陥って行き、やがて疲弊して勢いを失っていく…という現象をよく見かけました。

ひとつを達成すると、次はそれ以下でもそれと同じでもダメで、もっと大きなものを…となって行くのが人間の我欲のようです。

下の引用は、達成感の裏側について新しい視点を持たせてくれるように思えるのでシェアしますね。参考までに。😊

目標を達成したり、努力によって何かを手に入れたりすると、かなりよい気分を味わいます。

そして、よい気分を味わっているのは求めていたものを手にしたからだと考えます。

ところが実際には、内部の深いところでよい気分を感じるのは、なにかを手に入れるために努力をする必要がなくなったからなのです。

完全な無為という小さな空間が生じて、その空間が歓び、やすらぎ、満足感で満たされます。

けれど、私たちはやすらぎの性質を誤解しているために、その空間をさらに多くの行為で埋め尽くそうとします。

目標を達成すると、間髪をいれずにそわそわし始め、登るべき別の山を探すのです。(「ユーフィーリング!」 フランク・キンズロー著 より)

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達成した!という喜びに思えるものは、実は「何とか達成しなければ」の頑張りから解放された安堵感。

人生、時には勘違いして、「達成感を得た」と思うのも良いかもしれません。

「無為」の定義はgoo辞書から。

む‐い〔‐ヰ〕【無為】 の解説
[名・形動]

1 何もしないでぶらぶらしていること。また、そのさま。「せっかくの休日を無為に過ごす」「無為な毎日」「無為無策」

2 自然のままに任せて、手を加えないこと。作為のないこと。また、そのさま。ぶい。「日頃忘れていたゆったりした―の歓喜が」〈宮本・伸子〉

3 《(梵)asaṃskṛtaの訳》仏語。人為的につくられたものでないもの。因果の関係を離れ、生滅変化しない永遠絶対の真実。真理。⇔有為 (うい) 。

本当の私の心は「もうこれ以上やりたくない」「頑張ることから解放されたい」「自然のままでいたい」。

本当の私は、「もっと」が幸せではないことを知っているのに、その勘違いに気づかないで「達成感」と思われるものを何度も味わいたくて次の目標を探してしまう。

せっかく解放されたところなのに。😮‍💨


…という視点ですね。

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これを、「勉強」という分野に当てはめてみると…

私は仕事で英語を教える時には目標達成というのはしなくて、「自分なりにやって行けるところまで行こう」という考え方で指導していました。

それに対して、「次のテストの目標は◯点」と目標を定めて達成していくように指導するという考え方があります。

塾などでは、指導の成果を示す為にそうした指導方針を打ち出している所も多いと思います。

私がいた塾でもやっていましたが、私は点数より何が分かったか、何ができるようになったかを見るように、生徒にも親御さんにも話していました。(なかなか理解してもらえないこともありました。😢)

見ていると、中には、ひとつの目標をやっと達成した途端に、生徒自身、または周囲から「次は◯点を!」というより高いゴールを設定されて、そのうちに疲れて心折れてしまう…というケースがあります。

達成できない状態が長く続いて心折れてしまうこともあります。

これは、どんな場面にも当てはまりそうです。子育てもそうですね。

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本当に欲しいのは安らぎであって、目標達成ではない…かもしれない…というお話でした。

時には立ち止まって、自分で自分を(または他人を)追い詰めていないか振り返ってみるのも良いですね。

私も振り返ってみて色々思うところがあります。

目標設定や目標達成が正しいとか間違っているとかではなくて、ひとつの見方として、勘違いのフィルター外しのヒントになれば嬉しいです。

目標達成するのが本当に楽しい方は、それが本当の自分のやりたいことだと思うので、どんどん達成してください。

また、自分責め、他人責めの材料にしないでくださいね。

最近は「気づいたら笑おう」を【自分を知る】シリーズのキャッチコピーにしています。😄


10月も残りわずかです。秋も深まってきました。🍂朝晩ヒーターが必要になってきました。🔥日々、秋を楽しもうと思います。😊

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