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帰省からかえる飛行機の中で書いた文章

*帰省日記は交換日記のほうで書いていたのだけれど、最終日はあまりに長いので自分のnoteに載せることにしました。すいません。
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8/22

午前中は恒例の両親との一万歩お散歩。暑くて大変である。母が横に広がって歩くので後ろから自転車きたらと思ってそわそわしてつい危ないから寄りなよと言ってしまいそうになる。我慢する。
そのかわりに、むかしから父方のばあちゃんはもうすぐ死ぬからやりたいことをやっておきたいと言い続けてたことを話す。

ばあちゃんは20年以上もうすぐ死ぬと言い続けて(それをわたしとばあちゃんは死ぬ死ぬ詐欺だねと冗談で言い合っていた)その度にいろんなところに連れて行ってくれて、ディズニーランドにもみんなで行った。温泉にはわたしといとこのななちゃんと3人で何度も行った。さすがに腰が痛いから動けない、ご飯も作るのが大変だ、と言い始めてからも何年も生きた。

母方のばあちゃんは60歳を過ぎている母に「いいねえあんたはまだ若くて」と言っているらしい。みんな年をとっているから若い人の基準がだんだんずれてきている。母方のばあちゃんは80歳を超えると体にガタが来ると言い、父方のばあちゃんは90歳を超えると体にガタが来ると言っていた。どっちも桁が大き過ぎて笑ってしまいそうになるがそれが実感なのだろうと思う。

散歩をして駅で休憩しようとするといとこのゆうきくんが向かいから歩いてくる。ゆうきくんだ!と母が言ったときにはゆうきくんはまだ豆粒くらいのサイズで遠くにいて、親の勘の良さのようなものに驚きを隠せない。ひさしぶり〜と言ってすこしだけ立ち話をする。元気そうでなによりだった。
ゆうきくんはふたり?さんにん?の父になっていて、でも、わたしには全く変わっていないように見えておもしろい。いとこのななちゃんの家の近くまで行ったので、ななちゃんにもこどもたちにも会いたかったが、コロナでみんなダウンしていて会えなかった。残念だった。
でもゆうきくんには会えた。久しぶりに会ういとことの距離感みたいなものはちょっと面白かった。

売店でジュンドッグという中身にチキンカツの入った細長いおにぎりが売っていて、わたしはそれが好きなのでちょっと見ていたら父に「なに?ほしい?」と聞かれる。ほしい、と答えて、ここでお父さんにジュンドッグを買ってもらって、こないだわたしのためにいちご大福を買ってくれようとしたら季節柄なかったので和菓子屋さんでがっかりしたという優しさをここで昇華する形として、ジュンドッグを買ってくれてお父さんありがとう!!をやろうと思ったが母がすっと売店に入っていって買ってしまう。ちがう、お母さんちがうよ〜〜〜〜と思ったがわたしがなんかいうのはもっとちがうなと思って黙っている。

ジュンドッグは手に入った。母は持ち歩き時間を実際よりめちゃくちゃ長く言ったので店員さんが保冷剤をつけるか悩んでしまったが「歩いて帰るのでいらないです」とまったく理由になってないことを母が言って説得して、そのままもらって帰った。

家に帰ったら暑さに負けてしまって氷枕で頭を下と上から挟むことになった。しばらく休憩して荷物をつくる。機内持ち込みできるような大きさに調整するのに苦労する。

そしてすこし眠る。

眠りながら昨日のことを思い出す。

昨日は何も予定がなくて、午後、母とふたりで駅前のカフェに入った。アイスコーヒー1杯が900円くらいする店で、どひゃ〜と思ったが母が奢ってくれるというのでラッキーと思っていただく。スペシャリティコーヒーをうたうだけあってとてもおいしい。なんかわかんないし適当に言うけどサードウェーブって感じもする。華やかな風味、軽み、中煎りから浅煎り。
おかあさんはりんごジュースを飲んでいる。2人でのんびり話をした。母は天気が気になるよう。黒い雲がやってきているらしい。洗濯物が濡れないうちに帰ろうということで話がまとまった。

わたしはぽつぽつと話しはじめることにした。

この帰省にはわたしは覚悟を決めてきていたということをまず言った。
父の状態がどれだけ悪いかもわからなくて、家の空気があまりよくないと弟から聞いていた。それに祖母も祖父もおじも亡くなったことを墓参りという形で受け入れなくてはならなかった。祖母とわたしのふたりで住んでいたこともある家がなくなっていることを知っていた。それらがいっぺんに来ることを思うと憂鬱でしかなかった。

そして体調も悪かった。ほぼ2ヶ月寝込みきりで、微熱と胃の不良と全身のだるさに悩まされた。家から出ずに過ごす日がほとんどだったので、どうにかたどり着いた羽田空港でも人が多いことにダウンしてしまって過呼吸と熱中症を起こした。

その状態で帰省したらどうなるか、寝込みきりなのではないか、と思ったら毎日両親と1万歩散歩して、軽い昼寝をしたりともだちと出かけたりして、母方の祖母にも会えて話せて、祖母祖父おじの墓参りもできて、祖母の家も見てきて(アパートが建とうとしていた)、おばとも会い、中富良野に行ってモトマチデリでランチを食べ古着を買い、歌会にも行って石井僚一はじめみんなが元気であることがわかり、いいことばかりがあった。

考えたこともなかったが、わたしが来るだけで喜んでくれる人がいて、思ったことを話すだけで笑ってくれて、それはとても貴重なことだと思った。ありがたすぎる。

可奈はようやく自分のことを話してくれるようになったと母に言われて、そうだな、と思う。可奈はつらいことを隠すのが上手だったね、と言われて、そうだと思う。35歳にしてようやくわたしはひとにほんとうの気持ちを伝えられるようになった。遅すぎた。でもこれからやっていくしかないと思った。

想像していたより父の身体の麻痺は軽かった。けれど失語はそれなりにあって、でもだいたいのコミュニケーションはとれた。だから、わたしは毎日母がお風呂に入っている時間、父とテレビを見る時間を作って、ちょこちょこだけれど話すようにした。会話の内容は「おいしそうだね」「おいしそう」とかそのくらいで、でも対話になっていた。明らかにそれは対話であった。それが嬉しくて仕方がなかった。

母と父のコミュニケーションにはわたしが口を挟むべきか悩む部分もたくさんあった。でも、それが母のやり方なのだろうと黙っていることにしようと思った。
一度母に「いま父に日付のことが伝わらなかったのは、祝日だから混乱したんだと思うよ」と進言したら、母は珍しく怒って、言い間違えることがあるから、と返事になっているんだかいないんだかわからないことを言った。
ただ、正解は誰にもわからない。だからわたしは、そうだね、と答えた。それから父と母のやってゆきかたには口を挟むのはやめようと思った。

脳梗塞を起こした本人と家族がストレスなくやっていけるような暮らし方がいい、と脳の病気に詳しい人間から聞いた。そのことを言ってもらえて安心した。
父は脳梗塞を起こしても父だった。家族で出かけるときはいつもわたしが助手席に乗っていたので助手席を譲ってくれたり、重い荷物を持ってくれたりした。

というような話をしていたらめちゃくちゃ泣いてしまって、母にティッシュをいっぱいもらった。最終的に袋ごともらうことになった。
とにかくわたしは帰省で野菜の多いご飯と散歩とどこにいくにもイヤホンをしなくていいストレスのない暮らしのおかげで元気になったことをありがとうと思っている、と伝えた。
母はいつでも疲れたら帰ってきなさい、と答えた。旭川にお笑いライブと出版社がたくさんあればいいのにねえ、と母は言っていたがそれは無理な話なので無理だねえって2人で笑った。

のが昨日だった。

きょうは早めに晩ごはんをたべて空港に向かった。おみやげを近く会う予定のあるともだちの分と応援している芸人さんの分だけ買った。ほんとうは徳原旅行に本場(?)のとうもろこし茶を飲んでほしかったのだがティーパックのものしかなく、ティーパックで淹れるかわからなかったしペットボトルで買うと密輸みたいな重さになっちゃうのであきらめた。ガクヅケ船引さんの好きなロイズのポテチにチョコをかけたやつを買って行こうと思ったが溶けるだろと思ってそれもあきらめた。
ずいぶんあきらめて、それでも母と父には買いすぎだと言われた。重たいだろ、と、母には荷物を、父にはお土産を持ってもらう形になって、申し訳ねえ〜60歳をすぎている人間たちに〜となったが、とりあえずラウンジでお土産の収納をどうするか相談した。わたしはものの収納が苦手なので母にかなりの部分を任せていたが、父が指さしで合図してこっちの荷物をこっちに入れたらどうかと提案してくれたのでそれに従った。たしかに綺麗におさまった。

検査場でQRコードをかざしてくれと言われたがなかったので「ないです」と答えたらちょっと揉めたが、バーコードのことを指していることがわかり(わたしのチケットが特殊だった)、バーコードですか?と聞いたら「そうです!すいません!!」と怒られてごめんな…わたしのそういう厳密さがいけないということは重々わかっている…と思った。

父と母にいつまでも手を振りながら、父も母も歳をとったなと思った。その分わたしもとっている。
そのことはわかっている。この帰省であらためてわかった。

父が亡くなった場合にどうするかという話を、母はわたしと2人になると何度もした。わたしは、お母さんが先に死ぬかもしれないんだよ、といちおう言わなくてはならなくて、それはすごく嫌な言葉だなと思ったけれど、あまりに母が自分は80とか90まで生きるものだと思い込んでいるのでいちおう人の死というのはいきなり訪れるということを説明しなくてはならなかった。わたしにも。弟にも。くるかもしれないんだよ、と言うのは嫌なものだなと思った。みんな急に死ぬかもしれない。わからない。
でもわたしが家族で一番早く死んだ場合父が混乱するだろうと思って、それはほんとうに避けたいから、長生きしなくてはと人生でたぶんはじめて考えた。

もともと30歳で死ぬと思っていた。それより先は想像がつかなかった。気がついたら35歳になっていて、人生がちがう形で回り出しているのを感じている。

いまこれを書いているのは飛行機の中で(機内モードです)、書きながら色々を思い出してしまってぼろぼろ泣いてしまって、キャビンアテンダントさんに若干心配されている気配がある。

機材の変更により、なぜかポケモンジェットに乗っている。エアドゥのポケモンジェットにはロコンばかりがいる。ふと先ほどサービスされた飲み物のコップを見たらロコンジェットと書いてあって、この飛行機はロコンジェットだったとわかる。

全然意味わからないだろうけれど人生ってそういうことだよなっていま思っている。

あしたはやることがたくさん詰まっている。きょうは早く寝なくてはならない。眠るときには散らかった西荻窪の家にいるはずだ。

今思い出してしまったけれど西荻窪の家のクーラーをつけっぱなしにしてきた気がする。2週間近くつけっぱなしだったクーラーの電気代について考えてられないのでわたしは羽田空港まで寝ます。おやすみなさい。

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