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椅子取り合わない椅子取りゲーム。競うより助け合い公平性を目指す。

 通勤時間に読んでいる「リュッケ」という本。
 度々noteへ投稿するきっかけをいただいています。

 そこに面白いゲームが紹介されていました。

◆椅子取りゲームは世界共通?
 あれ?椅子取りゲームって世界共通なんだ!という驚きとともに競い合い、奪い合いの恐ろしさを想像しました。

 小さい頃ははしゃぎながら友達と楽しく遊んでいたゲームだが…。

◆残酷なゲーム?
 10人と9つの椅子。
 音楽かけてぐるぐる回り音楽ストップで椅子取り合戦。

 当然一人が座れない。
 その人はゲームから外れる。

 ひとつ椅子を取り除きまた再開。

 これの繰り返し。
 最後に残った人が勝ちという生き残りゲーム。

 奪い合い。そして排除…。
 よくよく考えると残酷。

最後の椅子を奪い合う(unsplash)

◆誰も落ちこぼれない。
 しかし、この本で紹介されていた椅子取りゲームは違いました。

 誰も落ちこぼれない。

 10人と9つの椅子で始める。
 音楽ストップで椅子取り合戦。

 ひとりあぶれる。
 ここまでは同じ。

 違うのはあぶれた子は、9人の誰かと"相席"するということ。
 落ちこぼれはいない。

 そして椅子をひとつ取り除きゲーム再開。
 つぎは2人が相席。

ひとつをシェア(unsplash)

 どんどん相席が増える。
 やがてひとつの椅子に3人も4人も相席になっていく。

 そうやって最後まで落ちこぼれを作らず上手く座れるようみんなで工夫を繰り返し、最後のひとつの椅子に向かっていく。

 数が少なくなるとシェアするのが大変なことを学ぶ。同時に独占することの儚さも知る。

 椅子取りゲームとは、本当はこれかなと感じました。

◆みんなに優しい社会は頂点を奪い合わない。
 落ちこぼれを作らない工夫。
 みんなに優しい社会はみんなが助け合う社会。

 自分は小さい頃から、頂点目指し最後の一人になる椅子取りゲームに興奮してきました。

 なんだか、大切な何かに気づかず大人になってしまった気もします。
 上下、優劣。競争はそんなものを生み出すでしょうか。

 まさか、そんな競争が知らぬ間にいじめの温床を作ってしまったのではないだろうか…。

 大人は真剣に考えねばならないね。

 椅子取りゲームだけじゃなく、身近にこうした事例はないだろうか。

 分かち合ってこその世界を共有しなければ。

幸せはわけあうと増えるもの(unsplash)

◆競争は行き着くところ孤独しか残らない。
 自分も気づかずに誰かを苦しめていないだろうか。

 自分の興味を掘り下げていくべき学びの時代に、興味の対象が競争に勝つことだった気もします。

 競争で奪い合うことでは誰も幸せになれないと感じます。

 一人勝ち抜ける椅子取りゲームは、行き着くところ孤独な勝者しか残りませんよね。

 勝者は孤独を避けるために敗者を支配し指示命令することで、己の孤独を埋めていないだろうかと。

 それが自分と意見合わない他者への攻撃に転化していないだろうか。これも、ハラスメント…。

奪い合う→助け合う(unsplash)

 みんなが幸せである社会。
 そこは奪い合うではなく助け合う。

 シェアや共有する社会。
 人生を振り返り、意識して改めていきたいと感じました。

              yoitenki4110

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