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違国日記とシンパシー&エンパシー 〜尊重と寄り添いの距離について


いつも手すりの申請を出しに行く、近くの市役所のロビーには、市内でロケを行った映画などのポスターが掲示されている。

普段ならおっさんには区別のつきにくくなった、出るところの出まくったキャラが描かれたアニメのポスターなどが置いてあるのだが(おっさんのサガとして見てしまう)、先週はやつれた表情の背の高い女性(よく見たら新垣結衣だった)と、子供と大人の間くらいの女の子のポスターだった。

すっと素通りしようとした瞬間、その右上の文字が目に入り、足を止めた。

「わかり合えなくても、寄り添えることを知った ー」

とある。
常々、人間同士はわかり合えるはずもない、わかり合えると誤解しているから、世の中はどんどん面倒になるのだ、と考えている自分である。
だが、だからといって世界すべてに喧嘩を売りたいわけでもないので、どうやったら自分とその周囲にできるだけ争いがなく、幸せを感じることが多めに、丸く収まるかを考えて動いているのである。

そんな自分に、このキャッチコピーは訴えかけるものがあった。

そうそう、それだ、と。

映画はもう公開中なのだが、だいたいにおいて尺の都合で、映画は漫画原作をすべて拾い上げることができない。なのでまず原作からみてみようと、電子漫画と漫画喫茶をはしごして、昨日読了した。
漫画といいながら、文字の力で最後泣くわこれ。構成はニューシネマパラダイスだしさ。



で、この物語、出てくる皆さんがそれぞれの個性をなんとか乗りこなしている様がとても切実である。その多くはいまでは発達障害という言葉で括られているけど、これを個性の発露のカテゴライズにすぎない、と認識してもらえる世の中になってほしい、本当に。


これは治療を対象とするものではありません、乗り方を考えるものです、というふうに。なんの因果か、あてがわれた乗り物が違うのだ、各自。
現代ではそれは個性と呼ばれたり、一部は障害と名付けられたりしているが、大事なのは4輪車全盛の社会において、バイクを4輪に改造しようとするのではなく、素直にバイクの乗り方を試行錯誤して乗れるようになること、またバイクも一緒に走れるように環境を整えることではないかと考えている。


※以下、部分的にネタバレを含みます。


で、要所で出てくる、主人公の高校生、朝さんの未成年後見者となった、作家のこうだいさん(もう一人の主人公)の、未成年後見監督人を受任している弁護士の塔野さん。

彼はいわゆる空気が読めない、人の気持ちがわからない人として描かれている。今ならASD(自閉スペクトラム症)とカテゴライズされているはずである。
そして彼がその仕事につくまで、いろいろな苦労があったことを読者にも偲ばせるエピソードや、その彼と似たような部分のあるこうだいさんが、彼と打ち解ける様が描かれている。学校などで本当に苦労しただろうなあ。

noteにも彼の仕事について書いている方がいらっしゃいました。


そしてこの塔野さんは自分に共感能力がないことを自覚しているが、それでもちゃんと任務を果たしている。

ラストに近いところで朝さんに、相変わらず不器用な受け答えをしたのちに、家まで送りますと言って「今日は大丈夫です」と断られるシーン。
でもそれを継いで「そのうち 大丈夫じゃないときがあったら 少しだけ一緒に歩いてください」と言われたときに、彼の共感ゼロのアプローチは実っていたことがわかりほっとする。

彼は相手の気持ちを感受できないけれど、相手のことを考えていることを懸命に表現したのだ。それが相手にとどいたからこそ、そのような返事が帰ってきたのだ。

大事なのはこれだ、と思う。
共感がなくても、相手を大切に考えることができるし、それが相手の苦しい日々を支える力になりうる、ということ。


共感という言葉は、sympathy シンパシーとも、empathy エンパシーとも訳される。でもそれについて書かれたブレイディみかこ氏の著作を読んだあとだと、エンパシーに対して、この訳は必ずしも適切ではないな、ということがわかる。

なぜなら、本来のエンパシーの意味にはいくつかあるが、その中でもcognitive empathy 認知的エンパシー、他者の考えや感情を共に持つのでなく、自分自身の感情は巻き込まれずに、他者の感情などを想像すること、またそのスキルであるという意味が、1950年代から現在の主流になっているようだからである。
それに対して、シンパ(同志)という和製英語の語源でもあるsympathy シンパシーは、感情的な同調、同質な人同士の共感という意味合いである。だから、その対象も自分と似た立場や考え方の人々に限られてしまう。そしてその中で閉じ、外の人たちは敵と認識されていく。


最近の障害者論争や、男女の論争に不毛さがつきまとうのも、ここにどうやら原因がありそうだなと思っている。ひとことで言えば、論者が双方ともシンパシーでつながり、蛸壺のなかにそれぞれに閉じている。同質でない人とはシンパシーでは繋がれないから仲間割れすらする。

対してエンパシーは、共感は必要としない。寄り添い、その立場を我がことのように想像する技術がエンパシーであり、そこに感情が入らなくてもできるからだ。

塔野さんのふるまいは、実にエンパシー的であり、他人の気持ちがわからない人が、他人とつながるありようとして、救いのように描かれている。


以前、合理的配慮について、下のような文章を書いていた時は、必要なのは「慮」ではないもの、お気持ちでないもの、という表現であったが、今はそれこそがエンパシーと呼ばれるものなのか、と理解しつつある。


他人との関係を作ることが必須なケアの世界において、共感力を必要とするシンパシーよりも、空気を読めない、読まないエンパシーの方が、より広くさまざまな人と、ベッタリではないけれどつながり、関係を育てることができる。

塔野さんの振る舞いに、改めてそれを教わった夕方の漫画喫茶通いだったのでありました。暇を見つけて映画の方も見てみるかな。


※参考文献


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