「合理的配慮」に「慮」の意味はない?
そのうちお蔵出しするつもりの、デリケートな連続投稿のための補助線として、まずはこの単語を深堀りしてみようと思う。
障害をもつ方向けの仕事をすることや、介護福祉士の学校で教える立場になっていることもあり、障害者に対する政策についての最低限かつ、ひととおりの知識は持っているつもりではある。
それを考える際、いまは「合理的配慮」という言葉と常に向き合わなければならないのだが、これが曲者だとおもう。
まるで憲法に記された「公共の福祉」みたいな、シン・錦の御旗的な存在である。
そもそもこの言葉は障害者権利条約に記されたものの訳語であり、では、と原文を引くと、Reasonable Accommodationとある。ちなみに条約の中でも定義はされていて、その和訳だと
「障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。」
とある。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinken/index_shogaisha.html
問題は、これが冗長でわかりにくいことで、自分の中でもっとすっきりしたくてモヤモヤする。なんとか腑に落としたいのだ。いちいち定義を引かずともスッとわかりたいのだ。
というわけで、まずはその単語レベルの意味から掘り下げてみる。
reasonable リーズナブル、これはまだいい。
reason リーズンは理由、だから理に適った、というニュアンスでOK、これは腑に落ちる。
ではAccommodation アコモデーションは?
ひとまずそのまま訳してみる。
・・・手強いにもほどがある。君は多様性か。
こういう時は動詞形を探る。accommodate アコモデート、君からだ。
なるほど、まず「必要なものを提供する」という意味があるのね。
融通する、便宜を図る、適応させる、調停させる、適応させる、などなど。
こう出てくるとニュアンスがなんとなく腑に落ちてくる。要はうまいことやる、みたいな。つまり、理に適うようになんとかする、もともと英語ではこのくらいの意味合いなのだな、とわかる。
それが表題の日本語訳だと、そこに相手のお気持ちをも意味する配慮という言葉が使われる。
その言葉が入ることで、障害持ちの行動に振り回されたり、また恐怖感を持つひとのハレーションを生む余地が出てくるなあ、また障害者の側からしても、慮(おもんばか)ってよ!という気持ちが乗っかる可能性もわかってくる。
どうやら「慮」、君の存在が問題だ。少なくとも先の英和辞書の訳に君は居なかった。完璧に避けられていたぞ、君。
ここで自分は提案したい。
「合理的配慮」という文字を見たとき、「合理的配■」と読み替えてほしい。合理的配ナントカである。その■に何を当てはめるかは、それこそ各自うまいことやってほしい。
真面目にやれ、との声が聞こえてきそうである。
これでは読めない?たしかに。
言葉の伝達ツールとしての役割を放棄していた。
では日本語における第三の画期的発明を使おう。
リーズナブルアコモデーション、と表記しよう。
カタカナという、外来語のフレッシュさを保存するための素晴らしいツールがあってよかった。可読性を維持しつつ意味はまんま輸入、これで宜しいですか?
なぜそこまでして「慮」を避けるのか。
こいつに罪があるわけではない、ただ本来の輸入語である、この言葉の意味に乗せられる質のものではないからだ。なぜか。
気持ちとしての慮りは強制されるものではないし、他者に対して法で強制するものでもない、というのが自分の意見である。
これ、理解しろ、わかれ!が他人に対して不可能なのと同じことだ。わかるは自動詞、自発的な心の動きでしかありえないからね。
慮る、についてもそうで、内心は自由だし、本質が自発的なものは他人に対して強制できない。
自分はこれが自由というものの核心だと、確信している。
そこを侵される恐怖感が、いわゆる健常者の側から、合理的配慮アレルギーのように噴出することがありうる流れにあるように見えて、ちょっと怖い今日このごろ。
ここのnote世界でもそうですね、ホワイトなおまんじゅうさんやら青い人やらがそういう反応に見えます。
彼らの立ち位置なら無理もないけど、これ、こじれる前に皆さん一歩引いて落ち着いてほしい。
前提として、合理的配慮は気持ちとは切り離して成立するものだ、という理解が必要だと思う。たぶん英語の世界では自明のことなのだけれども。
気持ちがあっていいのですよ、ただし強制されるものではなく、それがなくても成立するという、割り切りができるものである、と。
いつか自分が身体介護を必要とするようになったとき、屁理屈の多い面倒なクソジジイになっている予感はある。予感しかない。
でも、そのときにこのクソジジイが~、と思われながらも、必要な支援を、にっこり仮面を被ってやってもらえる世界のほうがありがたい。なんなら冷ややかな目つきでもいい。それもご褒美かもしれない。
おじいちゃん大変ねえ、とか慮らなくても別にいい。あったら嬉しいがそれは贅沢というものである。
だから、リーズナブルアコモデーションという概念がまだ真新しいこの時期に、あくまでその人に対する配慮とか遠慮とか嫌悪とか、感情を刺激する言葉を前に押し出すのではなく、もっと淡々と、それぞれに合わせてうまいことやるよ!くらいの意味合いで皆さんには捉えて欲しいし、自分はそれを上手に使いこなして世の中を調整していきたい。
そのことだけが、障害持ちだけではなく、個々の人それぞれが暮らしやすい世界の実現に、ちょっとずつ繋がっていくのじゃないかな、とも考えるのである。
余談
ちなみにこれ、果たして普遍性がある解釈なのか、生徒さんに開陳してもはたして大丈夫なのか、という一抹の不安はあったので、学校の教職員会議のあとで、歩きながら社会学の先生にぶつけてみたら、
「むしろそういうお気持ち寄りの解釈をしたことがなかったです」とのことでした。
ニホンゴ、ムズカシイデスネー。
6/12 追記
続編のような記事、書いてました。
ハンチバックの作者、市川さんの話も絡めて。
この記事、すごく役に立った!などのとき、頂けたら感謝です。note運営さんへのお礼、そして図書費に充てさせていただきます。