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輸入語と介護界隈 ~言葉の定義足らず、認識足らず



不覚にも本日まで気づかなかったが、こういう記事があったのね。


市川沙央さんの芥川賞受賞作「ハンチバック」、作家の燃え殻氏のツイートを見て、本屋でざっと読んだだけなのだが(大変失礼な話である)、エロのコタツ記事を想像力たくましく書くライターである障害当事者という切り口から始まる話である。障害を持っていても、貴方の隣りに私はいるのであるよ(空間的にではなくても)、ということが伝わる設定である。
また、障害者女性の生殖という、これまたデリケートなところも攻めている。この小説を読んだことをきっかけに、例えば1996年に廃止された、優生保護法により不妊手術を強制された女性が、今も何人も国家賠償請求訴訟を起こしていることなどが、世の中にもっと伝わるとよいのではないか、と思う。この話は、自由とはなにか、平等とはなにか、のど真ん中の話でもあるからね。

日本国憲法

第十三条
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 要はここの話である


しかし、小説はちゃんと読み込んでんでないので、語れるのはこのくらいかしら。正直、最後の方は本屋で読むにはいろいろと厳しかった。
noteを書き始めてから、とんでもない速度で積読本が増えているので、それらを消化しつつどこかでちゃんと読もうと思います。


で、そんな内容を書いている彼女が、「合理的配慮」ってほぼ誤訳よ、「合理的調整」って私は書くよ、という話をしているということにホッとした。自分も4月にこういう記事を書いていたのだが、そのポイントは当事者の方からみても当たらずとも遠からずだということを確認できたからだ。

特にここ。

「作家としてここは『言葉』について語ります。『合理的配慮』という訳はほとんど誤訳と言ってよく、今からでも『合理的調整』とするべきだと考えています。例えば『rights』は『権利』ではなく『権理(権理通義)』(by福沢諭吉)と訳すべきだった、つまり『利』という字のネガティブな印象のせいで人権を理解できない国民になってしまったという話もあるように、こうした言葉の誤選択は国民の精神性に悪影響を及ぼし尾を引いたりするので、私は意地でも『合理的調整』と書いていこうと思います」

https://shohgaisha.com/column/grown_up_detail?id=3038


ことば、というのはある概念の額縁のようなものなので、それを間違って使うと本来の絵柄も変わって見えてしまうのだ。上にある、「利」の字の話が、合理的配慮という言葉の「慮」の持つネガティブさを指しているという理解で間違いないだろう。

ただ、調整ということばも原語の”accommodation” アコモデーションとは違うよう(adjustの意味が強そう)に思えるので、本来なら新しい言葉をつくって当てるほうが良いのでしょうね。自分はそれは面倒なんで、「リーズナブルアコモデーション」でいいじゃん、という書き方をしましたが。



そもそも、海外の人々と接してきた古の日本人、特に幕末から明治時代の人は、それらの言葉をどのように日本語に変換していたのだろうか、ということに興味が湧いたのは、この仕事でたまたま幕末の通訳さんの末裔の方のお仕事をさせていただいたからかも知れない。そして、そういったことから興味を持って語学系の歴史の本を少しずつ、しっかり積んでいるのだが(読んでない)、その中でも面白そうなのがトップ画像のこれである。



「社会」も「個人」も「近代」も「美」も「恋愛」も「存在」も、
幕末までは日本語には存在しなかった言葉だということを、この本のまえがきで知った。


特に、「社会」については奥が深い。こんど鴻上尚史の話を書こうと思っているのだが、そうするとこの言葉に触らざるを得ないので掘っておく。

この言葉、幕末当時も翻訳が非常に困難だったとのこと。"society"という英単語に対応する日本語がそもそも存在しなかったからだ。societyの広義の意味には、"individual"(これも適切な訳語がなかった)の集合体という意味があるが、そもそも身分の概念はあっても個々の人という概念が茫漠としていた時代だったから、それの集合体という概念も日本に存在しなかった、ということらしい。藩や国は各種身分の集合として認識されていたようだ。
ピンと来ない向きは、アリの巣を思い出すと良いかもしれない。あの1匹の働きアリは、果たして個と呼べるものなのであろうか、という話である。
(実は現代も大差ないような気がしてくるが。)


ちなみに、そんな困難な言葉を、福澤諭吉さんは「人間交際」と訳していたそうな。随分クローズドな認識に見えますが、諭吉さんを持ってしてもその全体性、広域性は掴みきれていなかったということだろうか。

そして、「社会」という言葉だけがその新しさ故に(格好いいとかそういうニュアンスです)訳語として定着し、でもソサエティの意味を誰もちゃんと理解できていないままなので、日本古来のその意味の乏しさもまた保存されているような状況、ということらしい。要は誰もよくわからんまま、これはだいたい社会と言っておく類のものである、みたいな雑な扱いを受けている。
そもそも個人の定義が出来ていないのだから、基礎工事無しで家を建てているようなものである。それじゃ社会の意味もしょっちゅう倒壊するよね。

社会主義、という単語ひとつとっても、自分はぱっと正確に訳せていない自信がある。公的所有主義みたいなニュアンスなんでしょうけど、それだけだと社会正義や平等追求みたいなニュアンスは出ないもんね。難しい。



また障害や高齢者、介護などの業界では、「福祉」という言葉も同じように問題児だと思う。
”welfare”はそもそもwell で fare、つまり上手に旅する、転じてうまくやっていく、という意味であるらしい。それが日本語の「福祉」という言葉になると、現実では違う意味で使われている。特に高齢の方からすると、施しを受ける、みたいなニュアンスが強いように思う。なので、その言葉を使う方(福祉のお世話になります、みたいな)には、自分の不甲斐なさを突きつけられたような痛みを伴っているように見えたりもする。

そんな福祉という言葉を使っている「福祉用具」という言葉。自分の仕事のど真ん中であるが、そのまま”welfare equipment”と訳すと海外の人には通じないそうな。下手をすると、語源から旅行用具として認識されるかも知れない。
本来は、メガネなどに例えられるような、人体の能力不足を補う機能的な補助具であるから、”assistive technology(AT)” 補助技術(補助器具)が英語の訳になるそうで。以前は ”technical aids” という言葉も使われていたが(今も日本のテクノエイド協会などに残っていますね)、免疫不全症候群の通称と似ているので、という理由で敬遠されたそうです。


ざっくり、輸入語を日本語にして使うことの難しさについて概観してみた。単語をいちいちその意味まで遡って調べて使う人はあまりいないのだろうけど、どんな目的であれ、意図を伝えるための言葉を記している人間としては、市川沙央さんにならって、違和感を感じたときには、積極的に掘っていくようにしたいなと思う。

そこに様々な誤解の種を植えてしまうと、それが広がった後では刈り取るのがとても大変になりそうだ、という危機感が共有できたので。

世の中のトラブルも、その言葉の意味のすり合わせをちゃんとやっておけば回避できるものも多いのでは?という気もしますね。「恋愛」とかさ。



※参考文献(Amazonアソシエイト・プログラムに参加しています)



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