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人生はそれなりにお膳立てで出来ている

小学生の頃、数年に一度、友達が何らかの都合で転校することがあった。
こんな前書きは誰でも実体験として書けるぐらいのありふれた話だと思う。
でも、引っ越し先が隣町であったり、隣県ぐらいであれば、またいつか会えるかもしれない。
そう考えてしまうのだ。しかし、小学生という身分。そこまで単独で遠出することも出来ないし、そもそも地名を言われてもよくわからない。
もう一度会うにも、親の力が必要とあって、結局、今までそれっきり見ていない。そんな事もよくある。
もちろん、大人になってもそれは同じで、転職や進学をきっかけに一生の別れといっても良いくらいの疎遠になるケースもある。もちろん、大人なんだから、連絡先も解るだろうし、会いにいくこともできるはずだ。
それでも会いに行かない。それは結局、会いたいと思うこと気持ちが少ないからなのだろうけれど、
他人ではない、知り合い。友達とまではいかないけれど、「知り合い以上、友人未満」の関係。そんな心の関係は、物理的なもので簡単に切れてしまう。
切れてしまうという言葉だと軽いのかもしれない。
死と同然の扱いとも言えるのかもしれない。

それを容易に受け入れることが出来るのは、どうしてだろうか?

こうやってつらつらと長ったらしい文を考えてみたけれど、よくよく考えれば、自分自身もそれを普通に受けとめている。というか、その存在に苦しむわけでもないし、どちらかといえば、自然に忘れている。

何かのCMで「人生は選択でできている」みたいなメッセージがあった。たしかにそうなんだけれど、選択の中には必ず付随するものがあるのだ。今日のモーニングはコーヒーしようか、オレンジジュースにしようか、そんな小さな選択は毎日あったとしても、人生を大きく変える選択をする機会はそうそうない。でも、たまにある大きな選択には必ず、付随するものがある。例えば、就職先の選択という大きな選択を選んだとしても、同僚や上司は選べないし、フリーランスになったとしても、あるタイミングで付き合いする人間はある程度固まってきたりする。それも無意識が生んだ小さな選択によって生まれてきている物なのかもしれないけれど、如何せん無意識が生んだ産物だ。どれだけ挑戦しようが、保守的になろうが、「これは当然こうなるよね」といった。流れが発生するのだ。

要は大きな一つの選択は、その後の小さな選択を包括してると言える。お膳立てが出来ているのだ。

「人生はお膳立てで出来ている」そう言うと、とても不自由に聞こえると思うし、少し違う気もする。でも、「人生はたくさんのお膳立てで出来ている」ならどうだろう。少し現実的に聞こえるのではないだろうか。

だいぶ話しが横道にそれてしまった。元に戻ろう。そうだった、転校の話しだった。でも、折角なので、横道はこじつけでも上手く使おう。

クラスメイトが転校することが決まった時点からをお膳として捉えてみよう。

まず先生は保護者から、いつ仙台へ。。。
みたいな話を受ける。
ちなみに、official 髭なんちゃらのstand by youって曲のサビが「いつもの仙台へ」としか聞こえない。どれだけ仙台好きなんだと思いながら聞いていた。

・・・そんなことはまぁ、どうでもいい。それで、先生は書類手続やら、お別れ会を2限分ぐらいで計画するわけだ。

そして、先生がクラスのみんなに発表する。 
「佳代子さんがお父さんの仕事の都合で、2月で仙台へ行くことになりました。みなさんと勉強できるのもあと少しですが、残りの時間も楽しく過ごしましょう」的な話の後、
「1月の最後の金曜日にお別れ会をします。」
クラスから沸き起こる歓声、特に50m走はくそ速いくせに、テストの点はお父さんの年齢ぐらいの健太くんは盆正月が一緒にきたぐらい騒ぐ
おいおい、歓喜しちゃ駄目だ。言わんばかりに先生が制止する。その後、なんかグループとか組んで、グループ毎に出しモノをするんだろうけれど、おまえらはクイズ研究会と言わんばかりに7割ぐらいのグループがクイズだ。あとの3割は知らんけど、いいところ、マジカルバナナとかするんだろう。マジカルバナナ知らんやつは、ググれ。

・・・んで、催し物の最後には、
「佳代子ちゃん、新しい学校でも元気でね」と心のこもってない挨拶を健太のグループらへんがする。多分男子の99%は佳代子には興味がないのだ。
そもそも、ほぼ永遠の別れに気づいていない。良いところ、佳代子の親友の佐和子が、マジカルバナナの途中で感極まって、泣きだすぐらいだ。寂しいのはわかるが、マジカルバナナの途中で泣くな。そしてマジカルバナナがわからん奴はググれ。

んで、最後はサプライズで先生が音頭をとって合唱するのだろう。んで、佐和子はまた泣く。絶対泣く。佐和子がないてどうする。泣くべきは佳代子だ。

この流れが教育のテンプレートのなってるんじゃないかと思えてきた。結局、佳代子の親が決めた一つの決断が生んだお膳立てなのだ。

ただ、散々泣いた佐和子にとっても、感情のピークはここまでで、あとは、引っ越し先の住所を聞くぐらいだろう。多分引っ越しは平日だからな。佳代子のアパートから、出ていく引っ越しのサカイのトラックを、最後に貰ったクマのぬいぐるみを抱えながら追いかけることは多分ない。

おそらく翌年の年賀状はとどくかもしれない。
そこからは、いままでの2人の関係が問われるのだ。

もし、佳代子と佐和子が無二の親友だと思えているのであれば、
10年後ぐらいに再開しているかもしれない。今であれば、もっと早い段階でLINEとかでやりとりしてるだろうし、物理的な距離はSNSとかが埋めてくれる。

問題は、「知り合い以上、友人未満」であった場合だ。
この関係はどちらかが、そう思っているだけで成立してしまう。
この関係の場合、翌年の年賀状は届くだろうけれど、そのうちやり取りが0になり、またまた佳代子が父親の仕事の都合で、仙台から島根に引っ越ししたあたりで、佳代子は行方不明になる。

その瞬間に、もう会うことは出来なくなる。

言葉にすると少し重いかもしれない。でも、これが当たり前のように人生では繰り返されているのだ。

お別れ会で、はしゃいでいた健太なんかは、そもそもこのプロセスすら踏んでいない。佳代子が居なくなった2月の時点で、リセットされている。
健太も佳代子と話したことぐらいあっただろう。算数の時間にコンパス忘れて借りたことぐらいあるだろう。赤の他人よりは、知ってることもあるだろう。でも、そんなの関係ねぇ。おっぱっぴーだ。リセットだ。
ただ、こうやって書くと、健太がクソのように聞こえるが、多分、佳代子も同じようにリセットしてる。

でも、佐和子も健太もプロセスは違えど、結果は同じだ。
「のり弁」と「デラックスのり弁」ぐらいの違いしかない。

こうやって、「知り合い以上、友人未満」の関係は無意識のうちに終わるのだ。

でも、よくよく考えると、今まで生きてきた中でも、友人と「知り合い以上、友人未満」どちらのほうが多かっただろう?少なくとも僕は後者だった。

友人は赤の他人に比べて、自分のことを理解してくれる。そもそもお互い居心地が良いから友人なのだ。
でも、「知り合い以上、友人未満」はどうだろう。なかには少し苦手な奴もいる。腹たってミンチにしてやろうかと思うこともあるかもしれない。

だからこそ、大切なのだ。

みんながみんな、ありのままの自分を受け入れてくれるワケがないのだ。
それはアナ雪が証明してくれている。

そうじゃなくて、その関係だからこそ、社会は回るのだろうし、自分自身も考える。そうやって成長していくのだ。

今年こそは、もう少し人との関係を見つめ直そう。
たぶん、そう言っても結果は変わらないだろうけれど、こうやって言ってみることが、戒めなのだ。


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