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【短編小説 #29】東京で私はギターを強く抱きしめました


■読む前に

※1 このストーリーはフィクションです
※2 ストーリーの最後に喫茶店のBGMで「JUJUの東京」が流れます。そこからは「JUJUの東京」を小さなボリュームで聴きながらお読み頂くことをお勧めします。


■登場人物

真希:音楽家を目指して上京した路上ミュージシャン。
   個性的で前向きな性格。

達哉:売れないフリーカメラマン。
   優しい性格。
   大衆が好むものよりも”絵”になるような写真を好む。

安西婦長:帝都大学医学部付属病院勤務。
     仕事に厳しい。根は優しい性格。

秋山先生:各コンテストで審査員を務める有名写真家。
     観察眼と洞察力に定評あり。


■カメラを持った女性

「今月に入って、これで3件目となる事件になります。白昼に起きた不気味な事件現場には松島レポーターがいます。…(キャスターの声がつづく)…」

窓越しに設置されたテレビに映し出されたニュースキャスターの声が聞こえ、ゆったりと歩く一人の老人は立ち止まった。

ここ1か月の短い期間に、白昼散歩している主婦が何者かに背後から刃物で切り付けられるという不気味な事件が起きていた。そして、このニュースによれば、これで3人目の被害者が出たことになる。

事件の共通点は2つあると伝えている。

1つは被害者が白昼散歩中の主婦であること。そして、もう1つは3人ともミラーレス一眼レフカメラを所持していたということ。
 
きっと被害者は散歩しながら見つけた花や風景を気軽に撮影していたのだろう。そのことで何かしらの事件に巻き込まれた可能性があるということを伝えている。

老人は一歩、二歩とゆっくりと音の聞こえるテレビへ近づいていく。
画面に映った中継先は空港周辺で、画面下に流れるテロップの端に半分隠れた若い女性が映っているのが見える。その女性は黒色のカメラバッグを背負い、片手にはNikon D70のカメラを握りしめている。

“カメラ女子”という言葉が流行になった現代(いま)では、コンパクトでお洒落なミラーレス一眼レフカメラが女性のお洒落グッズとしては主流だ。ところが、女性はコンパクトとは言い難い大きめのゴツゴツした一眼レフカメラを持っている。それはカメラの知識がある人なら分かるほど、持ち歩くには”ピントのずれた”光景で、違和感のあるものだった。

画面の前で立ち止まっていた老人は、ボソボソと呟きながら頭を下げた。そして、ゆっくりと顔を上げると悲しそうな背中をテレビに向けると再び歩き始めた。


■夜の撮影

******(20年前の出来事)******


「カシャ~~ア」

ゆっくりとシャッター音が鳴る。シャッタースピードを遅くしてバルブ撮影という撮り方をしているからだ。

車が走り去って、少し間(ま)があってから、静かな空間に撮影が終わったことを知らせるシャッター音が聞こえてくる。

達哉はお気に入りであるNikon製の一眼レフカメラを片手に歩道橋の上にいる。そこから走りゆく車のライトの軌跡を追っていた。この場所からは光の軌跡がとても綺麗に撮影できるので、ここは達哉にとってお気に入りの撮影スポットの1つだ。

12月とはいえ、今夜はやや暖かく、時より頬に当たる風が生暖かく妙な心地良さだった。

ちょうどお気に入りの写真が撮れた。
達哉は道路沿いにスーパーのポール看板が消え始めたことに気づき、まっすぐに伸びた三脚の足を収納した。

カメラバッグのチャックを開ける。そして、レンズをバッグへ収納するためにひんやりとしたコンクリートの上に膝をついた。

こ慣れた感じでレンズにキャップをする。いつものルーティン作業だ。
それから顔を上げると、歩道橋の脇に目をやった。

何やら小さな黒い物体が見える。
達哉はその影におそるおそる近寄ると、そこには一匹の小鳥が横たわっていた。

ここへ来るときは全く気付かなかったけれど、おそらく小鳥は既に横たわっていたに違いない。

バッグのところまで戻ると、急いで片付けを終わらせた。達哉はカメラバッグを背負い、再び小鳥の死骸のもとへ向かった。達哉は、歩道橋の上は街灯だけでは薄暗く、ひょっとするとこの小鳥に気づかず、誰かに踏まれてしまうに違いないと思った。

小鳥をそっと両手で拾いあげる。
まったく動く様子もなく、柔らかい毛はとても冷たかった。小鳥が死んでからだいぶ時間は経っているのだろう。小鳥には不自然な切り傷があり、羽が使えなくなっていることが気がかりではあった。

すっと立ち上がると、歩道橋の上からぐるりと周囲を見渡した。

「あ、あそこがいいかな。」

この歩道橋を上がる階段の手前にある街路樹を見つめていた。

胸の前に両手で器を作り、すでに死んでいる小鳥とはいえ、風に当たって傷口が痛くらないようにしながら、小走りに階段を下りていった。

達哉は街路樹まで来た。ところが、穴を掘るためのスコップになりそうなものは近くに見当たらない。

とりあえず、柔らかい地面の上に小鳥をそっとおいた。そして、両手をスコップ代わりにして穴を掘っていく。時より大きめの石が指にぶつかる。達哉は小鳥がおさまるサイズの穴掘りのつもりだったが、意外にも時間が過ぎていった。

達哉の頭に小さな水滴が落ちてくる。
そして、それはしだいに小雨となり、パラパラと音を立てるくらいになった。

達哉は、もう少し深い大きめの穴を掘りたかった。けれども、小鳥がぎりぎり入るくらいの深さになったところで作業をやめにした。そして、小鳥をそっと横たえると、小鳥を圧迫しないように気をつけながら土を盛った。

墓石になるようなものは近くにはなかったが、とりあえず小鳥のためのお墓を作ることが出来た。どこかの誰かが暗い夜道でこの小鳥を踏んでしまう、あるいは誰からも気づかれずに雨風で風化してしまうことを避けることが出来たことに、達哉はホッとした。

達哉は近くのスーパーの外に備え付けの水道があるのに気づいた。思いっきり蛇口をひねった。勝手に使うことに気がひけたが、泥だらけの手で夜道を歩くと不審者のようにも見えてしまう、それだけは避けようとして必死に手を洗った。蛇口から水がドバドバと勢いよく出たことに少々焦ったが、きれいに洗い流すことが出来た。爪の中に入った細かい泥まではさすがに洗い流せなかった。

達哉は雨音が次第に大きくなるのが分かった。先ほどよりもひどく、ザアザアと降るようになった。天気予報ではここまで降るとは伝えていなかったので、傘を持たずに外へ出たことを少し後悔した。

達哉が駐車場まで戻る途中、先ほどの街路樹の前では立ち止まって両手を合わせた。そして、軽く頭を下げた。

達哉は雨に濡れないように帰り道を急いだ。雨に濡れた服は重く、急いでいる達哉の動きを強制的にスローモーションにしたのだ。靴の中も濡れてきた感触があった。

顔についた雨粒が気になり、手で目元についた雨粒をこすりながら除き、とにかく前へ進んだ。

そのとき、達哉は見えにくい視界の奥から道路の水たまりにパッと車のライトが反射していることに気づいた。

横断歩道に小さな子どもを連れた親子のシルエットが浮かびあがる。足早に渡ろうとして母親は子どもの手をぐいっと引っ張っている。あまりに焦っていたからか、不運にも子どもの靴が片方抜けてしまった。

「あっ」

達哉は自然と声を発する。
母親は子どもの靴を取りに行こうと後ろを向く。

横断歩道を渡る途中の親子に一台の車が向かってきている。車のスピードは減速する気配がない。おそらく車のドライバーもこの雨で、親子がいることに気づいていないのかもしれない。

達哉は頭で考えるよりも咄嗟に身体が動いていた。
カメラバッグを背中から降ろし、親子の元へ走った。

子ども靴を拾いあげると、子どもを両手で抱きかかえ、「早く渡りましょう」と母親に声をかけた。

ちょうど達哉と親子が横断歩道を渡り切った後、車は何事もなかったかのように走り抜けた。その車のテールランプはすぐに遠く景色と一体となって、見えなくなった。

親子は車にひかれることもなく、無事であった。

「夜道で雨もひどく、視界も悪いのでお気をつけてください。家はこの近くですか?僕は車なんです。良ければ車で送りますけど…。」

いくら雨がひどいとはいえ、親子は全く見ず知らずの人の車に乗ることはないとは思ったが、達哉は声だけはかけてみた。優しさが自然に出た感じだった。

母親はとくに怪しむこともなく、車の危険から守ってくれたことにとても感謝し、頭を下げた。けれども、帰るところはここからすぐ近くだから車には乗らずに帰るという返事だった。

子どもは少しびっくりした表情で達哉の顔をじっと見つめていた。

達哉は「もう大丈夫だよ。気をつけて帰るんだよ。」と声をかけた。

達哉は再び駐車場まで足早に向かった。


■ギターを弾く女性との出会い

(それから20年後)

達哉はフリーカメラマンとして、東京近郊を舞台に活動をしていた。風景写真を撮ることをメインとし、どちらかというとポートレート撮影は挑戦中といったところだ。

達哉は生活できるくらいの十分な収入はあった。けれども、売れっ子カメラマンでもなければ、人気カメラマンでもなく、名前は全然知られていない普通のフリーカメラマンだ。

達哉は田園都市線と大井町線の止まる東急電鉄「溝の口駅」に来ている。

達哉はあるコンテストに挑戦しようとしていた。コンテストに出すテーマに合った撮影スポットを探しに溝の口駅までやってきた。

溝の口駅のバスターミナルから駅構内へ通じる階段を上がったところにちょっとした広場がある。そこのベンチでギターを弾いている女性の姿が目に入る。

サラサラしたストレートの長めの黒髪。服装はジーンズにシャツとラフな格好でボーイッシュな感じ。女性は優しい音色でギターを弾いていた。どうやらオリジナルの曲のようで、達哉はこれまで聞いたことがない楽曲だった。

達哉はカメラマンとして、路上ミュージシャンを撮影することも過去にも何度かあった。もともと風景写真をメインに活動していたので、人物を撮る写真はどちらかというと苦手な方だった。

達哉は路上で音楽活動をする人たちを幾らか見てきたけれど、この女性には不思議と惹かれる何かを感じとっていた。

達哉は女性の視界に入らないように、遠いところでカメラを構える。そして、ファインダーを覗き、映った女性をしばらく眺める。

シャッターは押さなかった。いや押すつもりはなかったというのが正確なところだ。なぜなら、撮影するのであれば、きちんと本人に事前に断ってから撮ろうと決めているからだ。

達哉は覗き込んだファインダーから目を離し、女性の弾くギターの音にしばらく耳を傾けた。ギターの音色が心の中にスッと入ってくる。とても心地良いメロディーに安らぎを感じさえする。

きっと演奏が上手い、上手くないとかそういうものではなかった。達哉にとっては生理的に親和性のある音色とリズムが心地良かったのだ。サプリメントを飲んでいるような感覚に近いものだった。

達哉は次の曲を紹介する女性の言葉から、女性の名前が「真希」ということ、そして音楽家を志望して東京へ上京していることを知った。

達哉にとっては癒しの音色であったが、達哉以外で立ち止まる人は2人、3人とかなり少なかった。真希の演奏している目の前を行き交う人は、かなりいる。けれども、知名度の無い真希の曲を立ち止まって聞く人はほとんどいないのだ。真希の前を通り過ぎる人たちは、誰もがそれぞれの目的に向かって足早に通り過ぎているようだった。

都会には溢れるほどたくさんの人がいても、自分のことでいっぱいで他人のことへの関心が薄いことは、同じように地方から上京した達哉に何となく理解できた。

大半の人が地方から出てきているだろう。いつの間にかゴツゴツとした建物と明るいネオンに自然と溶け込み、中には自ら染まっている人も多いのではないかとさえ感じた。

達哉は真希とそのギターの音色に惹かれ、いつの間にか頻繁に足を運ぶようになっていた。

達哉は曲が終わり、次の曲へ移る短い時間に思い切って声をかけた。

「あ、あのう、話かけても大丈夫ですか? フリーで写真を撮っている、達哉と申します。路上ミュージシャンというテーマで被写体を探していました。ギターを弾く姿がとても絵になると感じたので撮影させてもらえませんか?」

真希は若手のカメラマンは話し上手でチャラいという勝手なイメージを持っていた。最初は少し戸惑った表情を見せた。けれども、真希は素っ気ない感じで答えた。
「いいですよ。うつむいていても大丈夫でしょうか?恥ずかしいので…。」

達哉はありがとうの気持ちを込め、ニッコリとした表情で見せ、「全然うつむいた状態で構わないです。ありがとうございます。自然体の絵が欲しいので、特にポーズなど意識せずにギターを弾かれてください。」と返した。

撮影できるようになったとはいえ、真希の気が散らないようになるべく視界から映らないところへ移動した。

「カシャっ」

「カシャっ」

「カシャっ」

動きのある被写体を撮影するため、シャッタースピードを上げて素早くシャッターを切った。

撮影後、カメラの液晶で確認する。

背景のネオンが良い感じで玉ボケしている。なかなかいい感じの写真が撮れた。達哉がイメージしていた光の明と暗が上手く表現できていた。

達哉は真希のところまで近寄ると、「こんなに素敵な写真を撮ることができました。ありがとうございます。」と言いながら、カメラの液晶に映っている被写体を見せた。

達哉は真希がどういう反応をするか楽しみだった。

真希が少しだけ笑顔になるのが分かった。

「素敵な写真ですね。まるで自分じゃないみたい…。なんだか嬉しいです。」
真希はそう答えた。

真希がほんの少しだけ心を開いてくれたかのような反応だった。

「あのう、良かったら、この写真をLINEで送りましょうか?画質は落ちてしまいますけど、スマホの画面で見るだけなら全然気にならないと思います。」
達哉は思わず、そんなことを口走った。

真希からの返事は早かった。
「いえ、大丈夫です。綺麗に撮ってもらえたから、それで十分です。それよりもこの写真を何かに使ったりしますか?」

真希の最初の言い方が素っ気なく聞こえたが、達哉は真希の瞳孔が大きく開き、きらきらとしていることに気づき、何となく嬉しかった。

達哉は逆に質問されたことが意外で少し慌ててしまう。
「あ、、えっと、今のところは…、無いです。はい、無いです。」

コンテストに出すつもりだったにも関わらず、達哉は本当のことを言いそびれてしまった。

達哉は“まいったなあ”という表情で首の後ろに右手をやって顔を傾けた。
すると今度は真希の方から話かけてきた。
「もし、もしもですけど…。この写真を何かのコンテストに出したりするなら、使っても大丈夫ですよ。」

達哉は真希に言われてしまったことが心を読まれているようで恥ずかしくなった。
「うわあ、あ、ありがとうございます。コンテストに出すといっても、そこまでの自信はないですけどね…。」

ちょうど6月の終わり。
知り合った2人のやり取りがほっこりと感じられる夜だった。

その後、達哉は定期的に足を運び、真希のギターを聴くようになっていた。
真希に少しでも気づいてもらいたいと思ったのか、聴くときは同じ時間帯に同じところから聴くようになっていた。


■突然の出来事

(それから6か月後)


真希は今夜も階段の傍でギターを弾いている。

駅構内の街路樹にはクリスマスのイルミネーションの飾り付けの作業が始まっている。

街路樹につけるための電球が道いっぱいに敷き詰められ、トラックの作業台には作業員の姿が見える。

「おーい、電球を取ってくれ。あの枝のところに落ちないようにかけた後、結束バンドで固定しておくようにだな。」

「わかりました、先輩。任せてください。それにしてもこれが全部光ったら綺麗ですよね。」

「当たり前だろ。俺も毎年ここのイルミネーションを見てるけど、綺麗だと感じて子どもと一緒に足を運んだことはあるんだ。まあ、俺らの仕事って誰から褒められるようなこともないからさ、息子には自慢げに話するんだけどな(笑)。このイルミネーションが綺麗なのは父さんが仕事を頑張ったからだってことを10回くらいは言ってるな。あははは。」

「ですよね~。うちらの仕事って裏方ですからね。主役はこのイルミネーションとそれに惹かれてくるカップルやファミリー、もちろん一人で来る人だっているでしょうけど…、その人たちですよね。まあ、そういう人たちが喜んでくれることが1番幸せに感じることなんですけどね。」


真希のギターを聴く人も少しずつ増えていた。今では20人程度の観客が聞いてくれるようになっていた。

芸能人や人気youtuberのようにファンで人だかりが出来るような状況ではなかったが、達哉にとって真希のファンが少しずつ増えていくことはとても嬉しいことだった。

達哉は真希に良い知らせを伝えるために少しだけウキウキしていた。というのも、以前真希を撮影した、あの写真を出品したコンテストで賞をもらったのだ。そして、賞金も手にしていた。

受賞したことで、達哉の名前は少しだけ有名になり、賞によって周りの達哉を見る目も違うと実感できるくらい、その差を感じ取っていた。受賞をきっかけに仕事の依頼も増えいて、達哉はそのことで真希へお礼を伝えたいと思っていた。

達哉はまるで告白するかのような気持ちで、いつもの定位置へ向かった。

今日に限っては真希の周りにはいつもの倍くらいの観客がいた。真希は観客からのリクエストにも応えるなど、達哉が声をかけるタイミングはどう考えてもなかった。達哉は次に来た時にでもお礼を伝えることが出来ると思った。達哉は真希の演奏が終わる前には、そっとその場を後にした。


次の日。
達哉は再びいつもの定位置に来た。

達哉はしばらく真希の演奏を聴いてから、コインロッカーにしまっておいたプレゼントを取りにその場を離れた。

曲も終盤になり、観客もそろそろ帰り始めたころだった。

「ドシャーン、パリンパリン」

達哉の後ろで大きな衝撃音が鳴った。

達哉は音のする方を振り向く。
悲鳴とともに真希の近くにいた人たちがドミノ倒しになっているのが遠目に見える。

ぶら下がっていたイルミネーション用の電球も落ちて割れている様子が見てとれた。ギターを弾いていた真希も地面に蹲ったように見えた。

何かが起きたことは分かったが、何が起こったかは分からなかった。
とにかく真希が大丈夫なのか心配になった。

真希の周りにはすぐに野次馬の人たちが覆いつくすように集まり始めた。

達哉も真希の元へ走り出した。
不思議なもので、先ほどまではギターの演奏にすら関心の無かったのに事故現場を見ようと多くの人だかりとなっていた。皮肉にもそれは真希の演奏を聴こうとさえもしなかった人たちがほとんどだ。

達哉は人込みをかき分けるように真希の元へ向かう。けれどもなかなか前へ進まない。

「すみません、通してください。お願いします。」

達哉は大きな声でそう言いながら人込みの中を進む。達哉の声は大勢の人たちにかき消されて届かない。

人だかりの中をなかなか進めないでいると、救急車のサイレンが聞こえてきた。

達哉は苛立つように、「何が起こったかだけでも見せてください。真希は大丈夫なんですか。」と心の中で叫んだ。

人だかりの先頭の前へ出て達哉が見たものは...、血のついた地面であった。

達哉にとって、この量が致死量なのか、そうでないのかまるで想像もつかなかった。そのことが余計に不安を煽った。

達哉は救急車のサイレンが現場から離れていくことに気づいた。

達哉はすぐさま走り出した。
達哉は搬送先がどこなのかさえも分からないまま、サイレンが聞こえる方向に向かって自然と走っていた。

達哉は走りながら考えた。
この辺りで救急搬送を受け入れそうな大きな病院といえば、きっと帝都大学医学部溝の口病院へ向かっている、そう考えた。

達哉はここから1駅くらいの距離であれば、走って間に合うかもしれないと思った。路地裏の細い道を使って、夜間搬送口へ向かった。

達哉は救急車が近づいてくる音に気づいた。

救急車から真希らしき女性が治療を受けながら病院の中へ案内される。

入口からは医師と複数の看護婦が担架のそばまで駆け足で近づいてくるのが見えた。

達哉は夜間受付の窓口で、女性の関係者ということを伝え、うす暗い灯りの待合室で待機させてもらった。



達哉は真希の容態について、近くを通った看護婦へ尋ねた。

看護婦は神妙な面持ちで、柱時計を見ては時間を気にしながら達哉の相手をしてくれた。看護婦自身で判断は出来ないということで、安西婦長という人が対応してくれると説明を受けた。

達哉の前に現れた安西婦長は眼鏡をかけていて、いかにも仕事が出来そうな印象の女性だった。

達哉は安西婦長へ話をした。
「どういう状況でしょうか?女性の命は大丈夫ですか?」

婦長は冷静に答える。
「あなたは関係者ということはお聞きしていますが、ご家族の方でしょうか?」

達哉は答える。

「いえ…。」

安西婦長が口を開こうとしたので、達哉は先に声を出した。
「真希の“彼氏”です。」

これは許される嘘だと自分を言い聞かせて、達哉ははっきりとした口調で「彼氏」と名乗った。

「女性は手を負傷していて、割れた電球の破片で指の幾つかが切断されています。それだけではなく、ドミノ倒しになってくる人たちからギターをかばったのでしょうか…、圧迫されたことで手が潰れてしまっているところもあるようです。」

「えっ」
達哉は一瞬言葉がつまる。

「彼女は治療したらギターを弾けますよね?彼女にとって手は大事なんですよ。どうなんですか?」

安西婦長は首を横に振って、残念そうな顔をした。

達哉はその表情が最悪の答えを返されているということを理解した。

興奮ぎみの達哉は安西婦長の両腕をつかみながら言う。
「彼女の手はギターを弾くために大事な手なんです。元通りに出来ないですか?ねえ、教えてください。」
そして、達哉には怒りと悲しみが入り混じった感情で涙が溢れてくる。

「ボクの手を彼女に移植してください。ボクはカメラマンですがシャッターは指1つでも押せます。でも彼女には5本の指が必要です。」
達哉は落胆しながらもはっきりとした口調で言った。

安西婦長は、興奮ぎみの達哉が落ち着くように両肩へ手を軽く添えて、「お気持ちは分かりますが…。」とまた首を横にふった。

「どうしてダメなんですか?お願いします。彼女がギターを弾けるようにしてください。お願いします。」
達哉はうなだれるようになりながら言った。

それから、「それともコロナ感染症で重症患者が優先されるから、この手を移植する手術をさせてもらえないというのですか?」と、達哉は自分でも何を言ってるのかさえ、分からないほど怖い口調で安西婦長に詰め寄っていた。

安西婦長は冷静に言う。
「そういうことではありません。とにかく落ち着いてください。今日のところは一旦お帰りください。」

「あなたじゃ話にならない。おい、担当医師に話をさせろ。医師はどこにいる?」
興奮ぎみの達哉は安西婦長が困るようなことを言ってしまった。

「いい加減にしてください。迷惑行為を続けると警察を呼びますよ。」
安西婦長は毅然とした態度を示しながら、厳しい口調で達哉を諭した。

達哉は壁にうなだれるように座りこんで、床をたたきながら、
「どうしてだ。誰のせいだ。」と何度もつぶやいた。

待合室から見える病院の廊下は暗く、出口の見えない道案内のようにわずかな電灯だけがぼんやりと見えた。

■病室での出来事

(それから数日後)

数日後、達哉は真希が普通病棟へ移ったことを知った。

病室へ行くと、少しだけうつむいた彼女がいた。達哉はきっと泣いた後だと思った。

これまでゆっくりと話などしたことの無い二人だったが、ずっと前から付き合ってきたかのように痛みを共有しているような感じだった。

振り返れば、真希自身はギターを弾きながら達哉のことを意識することがあったようだ。今日も達哉が聴きに来てくれているか、達哉を探すように目で追う自分がいて、真希はその気持ちに薄っすらと気づいていた。けれども、それを悟られまいと、達哉のことを目で追わないように意識していたようだ。

病室にはなったが、いま達哉と真希は二人きりになれる”個室”にいる。
二人はしばらく沈黙のまま、自然にお互いの手をぎゅっと握りしめていた。

そこには血の通った柔らかく、優しい温もりが感じとれた。

真希は少し元気なふりをするために笑顔を作りながら、「わたし…、ギター、弾けなくなっちゃいました。」と言った。

達哉は手を握りしめたまま、あのときに撮った写真がコンテストで受賞をしたこと、そしてその賞金でギターを買ったこと、そのギターを渡そうとした日にこの出来事が起こったことをゆっくりと話した。

彼女は話を聞きながら泣いていた。

そして、またしばらくの間沈黙が続いた。
真希が沈黙を破る。

「達哉さん。」

「はい。」

「私ね、実はギターを弾けなくなった悲しみが無いといったら、もちろん嘘になるけど…。こうやって一緒にいれる時間が出来たこと、そして、そのことが今の私にとってはとても嬉しいの。音楽家を目指して東京へ出てきたけれど、全然売れなくてね。路上でギターを弾いても聴いてくれる人はほんの僅か。都会の冷たい建物に囲まれて、私はきっと温もりが欲しかったのだと思う。ただ気持ちに正直になれずにいたんだ。」

「だから達哉さんが写真を撮るって声をかけてくれた時、実はとても嬉しかった。でもね、その嬉しさを表現できていなかったかも。私ね、音で表現することは簡単に出来ても、顔で表現するのはきっと苦手なんだ。」
少しだけ微笑みながら真希は言った。

「ねえ、達哉さん、もしよければまた写真を撮ってもらえますか?ここで。このプレゼントしようとして買ってくれたギターを持っているところがいい。指がこんなになっちゃったから…、実際には弾けないけれどね。弾いているような姿を撮って欲しいんです。」

達哉は驚いた。
けれどもすぐに「うん」と頷いた。

窓からの光を気にしながら、ベッドの上に座ってギターを持っている彼女の表情が2番目に輝いて見えるように写真を撮った。

「パシャ」

何枚か取り直しをした。構図は平凡なものだった。けれども、光の明暗で彼女の笑顔が輝いて表現されていた。

今度は達哉から口を開いた。

「この写真、なんの変哲もない写真だけど、コンテストに出してもいいかな?賞を取るためではなく、二人の想いの詰まった写真としてみんなに見てもらいたくて…。」

「どんな感じかな?綺麗に撮れているかな?」

カメラの液晶を二人で覗き込む。
じっくり見ようと二人の顔が近づく。

達哉は真希と目が合った。自然と二人はしばらく見つめ合った。そして、ゆっくりとした動きで達哉は真希の唇に優しく唇を重ねた。

病室で二人きり。
時間が止まる。

二人はまるで夢の中で気持ちよく眠れているかのような安らぎを感じていた。

しばらくすると、廊下から看護婦が歩いてくる音がした。

二人はハッとなり、唇同士が別れを告げることを惜しむように一度離れた唇を再びくっつけると軽く舌を絡めた。

「すごく笑顔なのが分かる写真に撮れてるね。恥ずかしいけどいいよ。」
真希の言い方が心の距離が近づけたように思えた。

達哉はそのことがとても嬉しかった。


■秋山先生の観察眼

(それから3か月後)

「審査員の先生方、今日はご多忙にも関わらずお集まりいただきましてありがとうございます。今回の写真コンテストですが、テーマは「優しさ」になります。応募のあった300点から10点ほどに絞りこみ、そこから5件に賞をつけたいと思います。選考委員会に先立って、先生方からの事前審査の点数で10点ほどに絞り込まれております。お手元にある10点の写真が絞り込まれたものになります。」

達哉の応募した写真はこの10点に入っていたが、最終的には受賞となる5点からは除かれた。つまり、あの病室で撮った写真は賞を取ることは出来なかった。

審査が終わった後、「先生方に総評として、一言頂きたいと思います。」と、事務局の牧田が言った。

写真家の秋山が口を開いた。
「えっと、私からいいですか。もう審査結果は出ました。審査基準を基に公正に行われたので、結果を覆すつもりはありません。10点に絞り込まれた中の写真で最終5点から漏れた写真の中に私の感性に触れたものが実はありました。」

「先生が惹かれた写真がございましたか?では、その写真にも別枠で賞を与えますか?」
牧田が言う。

「牧田くん、いやいや、そういう意味ではないよ。これは皆さんお気づきだったかどうか…。牧田くん、この写真をスクリーンに映してくれますか?」

スクリーンには達哉が病室で撮影した「ギターを弾く女性」の写真が映し出された。

秋山先生が解説を始めた。
「最初にこの写真の構図を見たとき、私は何の変哲もない素人が撮影したものだと思いました。ところが光の使い方を見ていると、この写真の中で表現された明暗が見えてきました。なぜ病室なのか、そこが最初は分からなかった。病気と闘う女性を明るく表現した写真かと思っていましたが、審査結果が出た後に気づきました。この女性の顔はとても素敵な笑顔で、それを光の明暗でうまく表現されている。ところが、皆さんも分かるように明暗の“明”を作るということは“暗”が出来ることになりますよね。つまり、明を作ることによって自然と出来た”暗”だと思っていたのです。」

秋山先生はここからが聞いて欲しいという感じで、声を大きめに続けた。「この写真が伝えたかったのは、一般的に考えているのとは逆で、“暗”の部分だったのです。ギターの弦にある彼女の手を見てください。光の影で手首より先が見えなくなっている。おそらく、この暗を作るために構図を考えたのでしょう。そして、それを作るには平凡な構図にする以外なかったのでしょう。特にスタジオのように自由に明暗を作れない病室では、出来ることに限界があったのでしょう。これは私が感じたことですので、今回の審査に配慮される必要はありません。」

解説が終わると、会場にはしばらく沈黙が続いた。


■東京巡り


真希は容態も回復し、生活の中でやや不自由は感じるものの、日常の暮らしが出来るようになっていた。

もともと達哉が上京したのは東京に憧れていたのではなく、都市化が進む東京に残る景色を撮りたいという思いだった。東京スカイツリーよりも東京タワーに惹かれたのだ。

達哉と真希は東京タワーを写真に撮るために出かけた。浜松町駅で降りた二人は、南口の改札を通りすぎ、貿易センタービル下にあるバス停の横断歩道を渡って大通りへ出た。

しばらく歩いては建物の間から時より顔を出す青空にレンズを向けた。達哉は夢中でシャッターを切った。

東京タワーが見えてくる。東京スカイツリーには無い、少しだけ色褪せたドラマを想像しながら東京タワーを眺める。東京タワーの赤色と青い空の組み合わせが綺麗だった。

浅草周辺の撮影も二人は楽しんだ。

達哉と真希は半蔵門線三越前駅で降りる。B6出口の階段を上がると、すぐに日本橋だった。

日本橋の“麒麟像”は達哉が行ってみたかった場所の1つだ。東野圭吾の書き下ろし推理小説が映画化された「麒麟の翼」のロケ地でもあった。

達哉と真希にとって、日本の道路網の始点となる、この地点に一緒に来ることは大きな意味を持っていた。迫力ある麒麟像の下で、通り過がりの観光客にお願いして二人は記念写真を撮った。

真希は事故によって手の自由を失ったが、達哉との楽しい日々を過ごすことを手に入れていた。そして、音楽家を目指してギターを弾いていた真希の記憶は良い意味で日常から遠く消えようとしていた。


■安西婦長との再会


真希は夕飯の食材を買いにスーパーへ出掛けた。その帰りに安西婦長と偶然にも再会した。

二人は買い物の後に公園で話すことになった。

二人は公園のブランコに座りながら、あれからの生活がどのようになったかなどを話した。

この時、真希が救急搬送された日に達哉が安西婦長とやり取りした内容を聞かされた。
達哉の行動に真希は涙がこぼれ落ちた。

安西婦長は話を続けた。
「あのとき、達哉さんは彼氏ではなかったんだ。嘘をつかれたけど、私が達哉さんの立場でも同じように言ったと思う。真希さん、私がね、あのときに達哉さんに優しい言葉をかけることをしなかったのは理由があるの。あの時、達哉さんは興奮状態でおそらく冷静な判断が出来なかったと思う。」

安西婦長は真希の手をそっと握りしめながら、話を続けた。
「近い将来には医療の発達によって、筋電位を使うことも出来るわ。埋め込まれた人工的な電極を使えば、脳で考えた意思どおりに指は動かせるようになる。つまり、指の形さえ無くならければ、先端医療によって元に近い状態へ戻すことは出来るようにきっとなるわ。」

安西婦長は真希の目を見ながら続けた。
「きっとそういう話をしても、あの時の達哉さんには伝わらなかったと思う。達哉さんは、自分の指を移植してくださいって泣きながら訴えたのよ。きっと真希さんがギターを弾けなくなることが辛かったのでしょう。あのね、私も本当のことを言うわ。ナースステーションに戻ってから看護婦と一緒に泣いていたんだ。仕事中にそういう姿は見せることはできないでしょ。とても辛かったわ。」

安西婦長は少しだけ微笑んだ。その目にはうっすらと涙がうかんでいるようにも見えた。

真希と安西婦長は揺れるブランコを止めるとゆっくりと立ち上がった。

「真希さん、もし今日私と話したことを達哉さんに伝えることがあれば、あの時は厳しい態度でごめんなさいと謝っておいてくださいね。」
安西婦長はそう言うと、軽く会釈をして公園を後にした。

真希は沈みがかった夕日を眺めた。
色んな人の優しさに包まれていることに胸が熱くなった。真希を照らす茜色の空がいつになく綺麗に見えた。

■秋山先生からの勧め

(それから2か月後)


達哉は写真家の秋山先生から連絡を受けた。
喫茶店で秋山先生と会うことになった。

喫茶店の店内には、ジャズが流れ、ゆったりとした時間が過ぎていく。少し大人の空間の中で、秋山先生はコンテストに応募された写真を見て、感じたことを達哉に話をしてくれた。

達哉は自分の表現に気づいてくれたことをとても嬉しく思った。また、それを審査員の皆さんにも秋山先生が発言されたことが何よりも救いだった。

秋山先生はカメラマンとして「明暗」の使い方に感服され、達哉にぜひ冬山の風景写真を撮ることを勧められた。

達哉は真希に秋山先生とのやり取りを話した。
そして、準備が出来次第、海外へ撮影に行くことを伝えた。

それから3か月後、真希は達哉がそのまま消息不明となったことを知らされた。登山グループが八分目まで到達したところまで分かっているが、その後連絡がつかなくなり、おそらく雪崩に巻き込まれたのではないかということだった。

真希は東京での幸せな日々の「明と暗」を恨めしく思った。


■薄れゆく気持ち


連絡が取れなくなり、1年くらい経とうとした頃には、真希自身は達哉のフリーカメラマンの探求心や自由なところに理解を示しつつも、達哉への気持ちも記憶もだんだんと薄れていくようになっていた。相手への気持ちとは不思議で、盛り上がった時のあのアドレナリンはそう長く続くことはなかった。

部屋の片隅に置かれたギターを眺める度、達哉のことを思い出してしまう。真希はそれが嫌で収納部屋のギターを見えない場所へ移した。薄れていく気持ちに気づき始めた真希は、新しいスタートを切る思いで、引っ越しを決めた。そして、あの達哉からプレゼントされたギターも楽器屋へ手放すことを決めた。

窓の外を眺めると、小雨がパラパラと降っている。

御茶ノ水駅から少し歩いたところに楽器屋がひしめいている。そこまで電車で移動する予定だった。ところが、雨が降ってきたので、真希はレンタカーで移動することにした。

真希はこれまでの感謝の気持ちは忘れずに、ギターを後部座席にそっと置いた。

車が走りだす。

カーナビのTVからニュースが流れてくる。

「若手のフリーカメラマンが戦争の悲惨さを伝えるためにアフガン入りをしたこと。そして、そのカメラマンの消息が途絶えてしまっている」というニュースの内容だった。まだ25歳と若く、真希と同じくらいの青年だった。

真希は車を脇に止めて駐車灯を出すと、バッグからスマートフォンを取り出した。達哉への気持ちも薄れていたが、つい名前まで入れてしまった。

検索欄に「フリーカメラマン 一眼レフ 達哉」と入力した。

「どこかで生きていてホームページでも更新しているかも」と思ったのだ。決してそんなことはないにも関わらず…。

検索結果をスクロールする。

あるホームページの掲示板のところで目が止まった。もう何十年も前に書かれたものだった。

ホームページの更新は随分前から途絶えていて、管理人はフリーカメラマンのものだった。それが達哉だということを真希はプロフィール欄を見て直感的に理解した。

その掲示板の中に、横断歩道から撮影をした帰りに小鳥を助けたことが書かれていた。その直後に横断歩道で靴の抜けた子どもを抱きかかえて、親子を助けたことが書かれていた。

もう20年以上も前の記憶とはいえ、真希は母親と横断歩道を渡るときに車にひかれそうになったこと、そしてその時に男性が助けてくれたことを思い出した。

真希は「ハッ」とした。

涙が溢れ出て止まらない。気持ちとか感情とか、そういうものがどういう状態か分からない。涙でスマホの画面さえも見えない。

上京してから偶然に出会った一人の男性、あのフリーカメラマンは真希の人生で2度も関係していたことに運命を感じた。押さえていた感情が、一気に溢れ出してくる。

車の窓ガラスもワイパーで雨粒を取り除いても取り除いてもすぐに視界が見えなくなるほど雨が降っている。

「達哉さんに逢いたいです。逢いたくて仕方ありません。」


真希は達哉に会いたくて会いたくて仕方がない。返事もつくこともないであろうコメント欄に、真希は震えながら入力した。
「あの時に助けてもらった親子です。いま25歳になりました。どうしてもお礼を伝えたいです。」

真希は後部座席のギターに目をやるとそれを引き寄せた。
そして、まるで達哉を抱きしめるように強く抱きしめた。


■秋山先生との再会


真希は抱き寄せたギターを助手席へ置くと、来た道を戻り始めた。

だんだんと真希から薄れかけていた達哉への気持ちが戻ってくる。
真希は秋山先生へすぐに連絡を入れた。人気写真家の秋山先生はすぐに繋がることはなかったが、3時間後に折り返しの電話がかかってきた。

真希は秋山先生と都内の喫茶店で待ち合わせをすることになった。

秋山先生は真希とコーヒーを飲みながら話をした。

秋山先生は達哉が消息不明になったのは、自分が海外へ冬の山を撮影に行くことを勧めたことが一因ではないかと、自責の念を感じていることを話された。

真希は達哉の使っていたNikon製の古いカメラが部屋に残されていたことを話した。そして、このカメラの簡単な操作方法を教えて欲しいとお願いした。

店内のBGMは「JUJUの”東京”」が流れ始めている。

秋山先生は言う。
「これはNikonD70の名機だよ。初心者の練習用にはぴったり。今では最新の機能が搭載されたカメラがお手頃な値段で手に入るようになった。けれども、そんな中で達哉くんはこの古いカメラを捨てずに大事に持っていたんだね。カメラの知識はおいておき、とにかくこのカメラで写真が撮れるために必要な操作のみを教えるとするよ。指を上手く使えなくても写真を撮れるような持ち方とシャッターの押し方も教えておくよ。」

真希は、丁寧に優しく教えてくれる秋山先生の顔をじっと見た。おじいちゃんが孫に接するような感じで大きな何かに助けてもらえるような安心感を感じていた。

「先生、ありがとうございました。」
真希は丁寧に頭を下げ、切り出した。

「先生、あのう、もう1つお礼を言ってもいいですか?」

「?」
秋山先生はきょとんとした顔で真希を見る。

「もう1つのお礼とは、私が先生にお礼を言いそびれてしまわないように、未来のことに対してお礼を伝えたいのです。感謝の気持ちを伝えることが大事だってわかっていても、いつか言えるからと思って、つい言いそびれてしまうこと…、ありますよね。ありがとうの気持ちを伝えたい人がこの世からいなくなって、そして伝えることが出来なくなったときの辛さに私は耐えれそうにありません。だから未来のことになるかもしれませんが、先生にお礼を言わせてください。」

「(未来のことになるかもしれません。私が先生と再会できないときでも後悔しないように言っておきます)ありがとうございます。」

真希はそう言うと喫茶店を出ていった。

真希は達哉の軌跡を求めて、あのNikonD70の一眼レフカメラを片手に持って空港へ向かった。

秋山先生はそれから3時間ほど喫茶店でコーヒーを飲みながら達哉のコンテスト受賞の写真を振り返る記憶の旅に出ていた。秋山先生の目にうっすらと涙が見えたが、涙が落ちるのをじっと耐えた。


喫茶店からの帰り道、秋山先生は窓ガラス越しに設置されたテレビからニュースを伝えるアナウンサーの声が聞こえてくる。

「今月に入ってこれで3件目となる事件です・・・。」

秋山先生は一歩、二歩と音の聞こえるテレビへ近づいていく。
画面に映った中継先は空港周辺であった。

秋山先生が画面下にあるテロップに目をやると、テロップの端に半分隠れた真希の姿が映っているのが見えた。真希は黒色のカメラバッグを背負い、片手にはNikonD70のカメラを握りしめている。

「達哉くん、真希さん、私の写真家としての人生の中で、写真だけではなく、“明と暗”のドラマチックな物語を見せてもらえたのは初めてだよ。きっとこれから先、同じものを見ることはないだろう。どうやら私の方は言いそびれてしまったようだ。」

「達哉くん、真希さん、二人ともありがとう。必ず再会しよう。」

秋山先生は画面越しに映った真希に向かって、そうつぶやいた。



【終わり】

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