チャカ・カーン、2011年ヨーロッパ&中東ツアー(後編)
前編のヨーロッパに続きやって来たのは中東クウェート。
クウェートというと湾岸戦争で初めてその名を聞いたという人も多いでしょう。僕も石油がたくさん出るんだろうなというイメージくらいしかありませんでした。
ツアーに出る前にチャカのマネージメントから送られてきた日程表を見て「アレ?」と思いました。ヨーロッパでのショーがスイスとオランダの2ヶ所だけだったのに対してクウェートでの滞在がたっぷり1週間もありました。なのに会場や細かい日程などは一切書かれていなかったからです。
その謎は目的地に着いた時に明らかになりました。
なんと着いた場所はクウェートに駐留する米軍基地。
着いてすぐ軍服を着た人が僕らの前で説明を始めました。今からお隣イラクにある米軍基地に行ってもらうとの事。
この時アメリカの大統領はオバマでしたが、前政権のブッシュが進めた米軍のイラク駐留が続いていてイラク国内には米軍基地が点在していました。
米軍はこの時点で翌2012年にイラクから撤退する事が決まっていたので徐々に兵力を減らしているタイミングでした。まだイスラム国が台頭する前の話です。
米軍はこの時アフガニスタンにも派兵していますが兵士の士気向上と慰問を目的にアーティストが訪れ様々なエンターテイメントを提供するのはごく普通に行われているようです。それは戦闘が行われている地域にある基地でも例外ではありません。
僕がクウェートで1週間の滞在だと思っていたのは実はイラク駐留米軍慰問ツアーだったのです。ツアー前に詳細が明かされなかったのは軍事関連のため情報が漏れないよう意図的に秘密にしたからです。
メンバー全員驚きながらも今さら帰る事も出来ないので準備をして軍用機でイラクへ移動。
着用するヘルメットと防弾ベストのサイズ合わせ。出発前はまだ元気。
7月の夏真っ只中、砂漠の気温は暑い時は摂氏50度近くにまで達するので重いベストを着けて歩くのはかなり大変です。
軍用機は貨物の運搬にも対応できるようにちゃんとした座席は設けられていなくてネットのようなシートを壁から倒して座ります。
上空から見下ろすイラクの風景。
イラクで回った基地は4か所。当然ですがクウェートからイラクまでは直接米軍基地間を移動しイラク政府の移民局などは一切通していないため僕のパスポートにはイラク入国の記録は残されていません。
僕らの基地内での移動には常に兵士がエスコートとして付きます。見た目20代前半くらいの若い兵士数人がアサルトライフルを手にして付き添います。
最初の基地に着いて食事のため一同食堂のある建物に移動すると入ってすぐけたたましいアラーム音と共に「Incoming! Incoming!」というアナウンスが流れました。敵襲の意味です。食堂にいた100〜200人ほどの兵士は一斉にダッシュで出て行き僕たちメンバーとエスコートの兵士数人のみが残りました。床に伏せながら耳を塞ぎ口を開けておくよう言われました。爆風から身を守るための知恵だそうです。しばらくすると遠くの方でミサイルが落ちたような爆音が聞こえてきました。そのままどれくらい伏せていたでしょうか。恐怖に怯えたシンガーの女の子のすすり泣く声も聞こえてきました。被害の詳細はわかりませんが少なくとも僕らは事無きを得てその場は終わりました。
砂嵐の時は視界が悪いのをいい事に敵が近づきやすいので攻撃を受ける事も多いそうです。
基地内の建物はコンサート会場も含めて全て区別がつきにくい目立たない色です。明らかに人が集まってるような目立つ建物は狙われるからです。
僕らが寝泊まりするのはプレハブ小屋。共同トイレとシャワーは外にあり「絶対飲まないように」との注意書き付きの水でさっと体を洗います。
基地内はコンクリートの壁があちこちに置かれ爆風の被害を最小限にとどめる役割りを果たします。
壁には所々に絵が描かれていました。
サダム・フセインの出生地に近いティクリートにある基地内にはサッカー場があり、かつてフセイン政権下では国際試合でヘマをしたナショナルチームの選手がそこで処刑されたらしいです。
基地も場所によってまちまちで大きな基地にはレクリエーション用の建物があり兵士はそこで映画を観たり食事したり卓球したりビデオゲームしたりして羽を伸ばします。たまたま見かけた兵士がプレイしてたビデオゲームがコール・オブ・デューティーという戦争ゲームでした。果たして息抜きになるのでしょうか。
訪れた基地のひとつではショーの開始時間が何度も変更され、しかも行ってみるとステージも無い小さな建物の一部屋を使い20〜30人ほどの兵士の前で演奏しました。後で知りましたがその日攻撃を受けるかもしれないという情報があり何度もコンサート会場となる建物が変更になったので最終的に仕方なくその建物になったそうです。
マップで自分のいる基地を確認。
訪れた基地のいくつかでは感謝状をもらいました。向こうもバタバタの中で作ったのでしょう、僕の苗字と名前がひっくり返ってるものもあります。
イラク最後の基地での演奏を終えクウェートに戻る日、飛行場で待機していると何十人もの兵士が2列に並びその間を星条旗が掛けられた一基の棺が運ばれ僕らが乗る輸送機に積み込まれました。機内に仕切りはないので僕らが座るすぐ横にその棺が置かれました。
僕らがほんの2〜3日前にいた基地が僕らが去った翌日に攻撃を受けてその時に亡くなった兵士の亡骸だそうです。一日ずれていたら自分も犠牲になっていたのかもしれないと思うと背筋が凍ります。
僕らの前座として一緒に回っていたバンドはこの後アフガニスタンに行くと言っていました。当時ウサマ・ビンラディンが殺害されて間もない頃ですがアフガニスタンはイラク以上に戦闘が激しいと聞きました。そのバンドのドラマーとベーシストはイタリア人でした。自分の祖国の戦争でもないので愛国心からではなく単純に仕事があるから行くのでしょう。
僕は正直2度と行きたいとは思いませんが、とても貴重な経験が出来て良かったと今は思えます。
誇りを持って戦地に行く人もいれば戦争に反対の人もいれば奨学金や生活のために軍役を務める人もいます。人それぞれ思う事はあるけれどいつか争いが無くなるよう願いつつ僕は音楽を発信し続けていきたいと思います。
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