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受験日本史の攻略術

初めに

高校教員をしている高校時代の友人に歴史科目が歴史総合に変わったという話をされました。果たして日本史に特化したこの内容がどこまで届くのか定かではありませんが、もしも需要があれば地理など他科目も書きます。上の写真は私のお供だった教科書です。

私の日本史経歴

さて、私は地歴が一番の得意科目でして、本番は地歴でやらかした大問があったものの結果的には地歴のおかげで合格しました。あと数学。また、大学入学後も採点バイトであらゆる大学の日本史には触れており、採用試験の点数が良かったためMARCHレベルの私大の入試解答作成にも携わっていました。ですのでそこらの人よりか受験日本史には詳しいと自負しております。受験で日本史を使ったのは慶應文東大です。早稲田政経法文はセンター利用でした。

日本史第4問でやらかしまして8割に乗りませんでした。
この時の数学は浪人1年間で一番低い成績でした。

共通テスト対策

日本史は、基本的には無味乾燥な暗記の権化のような科目であり、得意な人はオタクばかりで、苦手な人の方が圧倒的に多いのではないかと思います。ただ、私なりに日本史が苦手な原因を考えると日本史の一つ一つの単語を無機物的に覚えようとすることにあるのではないかと思っています例えば、皆さんが知人の名前を思い浮かべたときには名前だけでなく、その人の顔や性格、属性などその友人を構成する多様な要素も一緒に浮かぶはずです。
しかし、こと日本史となると「その人物は何をした人間なのか?」「その人物の性格は?」「その出来事の意義は?」といったその人物や事件を構成する多様な要素は捨象されてしまい、単なる無機物的な単語になってしまうのではないでしょうか?
私だって興味のない英語や法学が全くできなかったように、単なる無機物の暗記なんて興味も湧かないものができないのは当然です。

そこで暗記が無機的にならないように私はwikiや参考書などを調べて人物や事象のイメージを掴むようにする癖をつけていました。時間の多寡に応じて付随的な情報について調べてみてください。間違いなく記憶の定着具合が変わります。

また暗記科目を1時間かけてやるのは間違いなく苦痛です。ですから私は20分のお風呂時間で暗記科目の教科書を読むようにしていました。毎日15ページも読んでれば1ヶ月足らずで教科書は1周できます。頑張って3周してください。人間3周して覚えられないものは何回やっても覚えられないし、それで暗記できない部分は他の受験生も覚えていないので合否に影響しません。
共通テスト対策まではこれで充分です。
また、受験テクニックなのですが過去問で80〜90点ほど点数が取れる程度に知識量が増えた後で、選択肢が絞りきれない問題に出くわした場合には不適当な選択肢(誤答)であるか確信が持てない選択肢は残しておくようにしてください。経験上、正解である可能性が高いです。

二次試験対策

この拙作を読んでくださる皆さんにとってはこちらが本番でしょう。日本史で二次試験対策を課す大学はあまり多くありませんが、私が添削をしていて独特の対策が必要だと感じた大学は東大、一橋の2校だけです。東京外大や筑波大も長い字数の問題を課しますがやること自体は他の大学と変わらないと感じました。

対策総論

どの大学にも共通する日本史論述対策について触れたいと思います。

(1)一問一答


まず、いわゆる一問一答については、共通テスト対策だけで構いません(ただし、80%は安定して取れるレベルは欲しい)。参考書や資料集が必要なレベルの大学は国立には存在しないと添削をしていて感じました。もし早慶MARCHを受ける場合でも教科書レベルを逸脱した悪問の成否は合否には関わらないので対策する必要は無いと個人的に思います。そんなことする暇があったら英語の対策した方がいいです。

(2)論述

さてこちらが本番だとは思いますが、基本的に論述では一つのトピックについてミクロに記述することを求められます。例えば

天武天皇による天皇親政が開始する経緯 
②天保の改革の内容と結果 

などがありがちな問題です。そしてこのようなトピックに関して教科書において「何ページも紙面が割かれる」だとか「何ページも離れたところに分割して記載されている」といったことはありえません。せいぜい400ページの教科書に数万年の歴史を詰め込むのですから、ミクロと言ってもその分量なんてたかが知れているし、ミクロだからこそ集中的に記載されているはずだからです。

天智天皇が亡くなると、翌672年に天智天皇の子で近江朝廷を率いる大友皇子と天智天皇の弟大海人皇子との間に皇位継承を巡る戦い(壬申の乱)が起きた。大海人皇子は美濃に移り東国豪族達の動員に成功して大友皇子を倒し、翌年飛鳥浄御原宮で即位した(天武天皇)。乱の結果、近江朝廷側についた有力中央豪族が没落し、強大な権力を手にした天武天皇を中心に中央集権的な国家体制の形成が進んだ。

山川出版社「詳説日本史B」p.39

さて①の答えとなる教科書の記載はこれで全て、わずか半ページ弱です。そして、壬申の乱の当事者と結果、近江朝廷側の有力豪族の没落、天武天皇への中央集権化を落とさず書けば満点でしょう。

幕府は12代将軍徳川家慶の下で老中水野忠邦を中心に幕府権力の強化を目指して天保の改革を行った。忠邦は享保寛政の改革にならい大奥も含めた断固たる倹約令を出して、贅沢品や華美な衣服を禁じ、庶民の風俗もまた厳しく取り締まった。ついで江戸の人別改めを強化し、百姓の出稼ぎを禁じて江戸に流入した貧民の帰郷を強制する人返しの法を発し、天保の飢饉で荒廃した農村の再建を図った。印旛沼の干拓にも再度取組みがなされた。また物価騰貴の原因は十組問屋などの株仲間が上方からの商品流通を独占しているためと判断して株仲間の解散を命じた。幕府は江戸周辺の在郷商人や株仲間外の商人の自由な取引による物価引き下げに期待したのである。しかし、物価騰貴の実際の原因は生産地から上方市場への商品の流通量が減少して生じたもので株仲間の解散はかえって江戸への商品輸送量を乏しくすることになり逆効果になった。また物価騰貴は旗本御家人の生活も圧迫したので幕府は棄捐令も出し、札差などに低利の貸出を命じた。一方幕府は相模の海岸防備を担わせていた川越藩の財政を援助する目的から川越庄内長岡3藩の封地を互いに入れ替えることを命じたが領民の反対により撤回された。また、1843年には将軍家慶が67年ぶりの日光社参を実行して幕府権力の起死回生を図ろうとしたが、大出費による財政悪化と夫役に動員された農民達の不満をもたらすだけの結果となった。さらに水野忠邦は1843年に上知令を出して江戸大阪周辺の合わせて50万石を直轄地にして財政安定や対外防備の強化を図ろうとしたが譜代大名や旗本に反対されて上知令は実施できず、水野忠邦は老中を退いた。

「詳説日本史B」p.239,240

②の答えとなる該当部分です。一つのトピックについての記載量としては最長レベルで教科書約1ページ半でした。そして、この問題はほとんど同じものが上で示した第2回東大入試実戦模試日本史第3問で出題され、平均点は4.3点/15点程度、私の点数は10/15とかでした。そして私が現場で書いたのは、水野忠邦、天保の改革、株仲間の解散、人返しの法、棄捐令、上知令。教科書の太字部分だけを論述しただけです。それだけでも日本史全受験生のトップレベルにはなれるし、東大受験生でも天保の改革については水野忠邦と株仲間の解散くらいしか高3秋段階では書けないことが分かります。

そして、これらの事実から分かるように

日本史論述の最大の対策はこのような頻出トピックを教科書太字部分を中心に自分なりに要約すること

であると私は考えています。
そこで、自分の受験生時代の経験から出題されがちなトピックを以下に30個まとめました。これに模試や問題集で出題されたトピックを付け加えていけば余裕で合格点に乗ると思います。重点的に該当部分を読み込むだけでも意味があるはずです。

古墳時代のヤマト政権の大陸進出
白村江の戦いの経緯結果
天武天皇の天皇親政
唐による高句麗攻撃から桓武天皇期までの支配地域拡大(蝦夷、隼人)
聖武天皇が大仏造立に至った経緯
桓武嵯峨天皇の政策、薬子の変
摂関家が権力を握った理由
戸籍計帳制度の崩壊と受領による租税徴収体制
御恩と奉公とは
承久の乱の経緯結果
執権政治と北条氏による他者排斥
元寇襲来の対策と結果
御家人の困窮と永仁の徳政令
建武の新政の内容
惣領制の解体、守護大名の誕生
足利義満の業績
日明貿易の内容
惣村の内容
戦国大名の統治手法
幕府と大名の関係性
幕府のキリスト教弾圧政策
対朝鮮・琉球・蝦夷地政策
享保の改革、寛政の改革、田沼時代、寛政の改革
開国による国内産業への影響
松方財政の内容
大正政変の経緯結果
政党内閣の誕生
協調外交の内容
金融恐慌、昭和恐慌
統帥権干犯問題

以上、皆さんの日本史学習の一助になることを願っています。長文にお付き合い頂きありがとうございました。

東大日本史の対策について需要がありましたらこの記事をスキしていただくか、yohefc12@gmail.comにご連絡いただければ、書かせていただきます。もちろん地理の記事でも承ります。



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