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#書く

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衣食住書。
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#ひとりごと

言葉が出てこない、言葉が追いつかない

ただのBGMでしかなかった店内に流れるジャズが、さっきからやけに聴こえてくる。 外が少し暗くなったからだろうか、店内の照明がダウンライトのみに変わったからだろうか、ゆったりとしたトランペットの音が、滑らかに体の中をすり抜けていく。 窓際の席で、何を考えることもなく、かといって何を考えないわけでもなく、ぼんやりと目の前を通る影を眺めている。 音楽や照明にあっさり揺さぶられてしまうほど、思考は上の空で、感情もどこか地に足がついていない。 言葉が出てこない。 最近、定期券

誰かにとっての「ちょうど良い」でありたい

自分の書く文章に寄せられるコメントに対しては、無条件で嬉しさとありがたさを感じるのだけれど、その中でも特に嬉しいコメントがあった。 Eileen_あやの さん おがたのよはくさんの文章、優しくてあたたかくてちょうど良い温度のお湯のような心地良さがあって好きです(失礼な表現であればすみません💦)。 「ちょうど良い温度のお湯のような心地良さ」 「僕の書く文章ってこうなんだよね」と今までうまく表現できなかったものが、一言でうまくまとめられていて、気持ちが良かった。 何よりも

余裕のある時に書く文章って、薄っぺらいんだよな

「丹精込めて書いた文章ほど伸びない」なんて感覚は、何も文章を書くことに限った話ではない。 かけた労力や時間に比例して、成果の質が高まるわけではないのだけれど、「余裕の有無」に注目してみたい。 例えば、心の余裕。 何かに追い込まれていたり、心に余裕を持てないほどの衝撃的な体験をした時ほど、案外頭の中にあるありのままを書けたり、すらすら書けたりする。 時間の余裕がない時も同様のことが言えるかもしれない。 「やばい、時間がない」 というのは、ある意味心の余裕にも関わるの

「書く」に飽きたんじゃない、「自分のために書く」に飽きたんだ

ここ1ヶ月ほど、「書くこと」に全くが身が入らない。 どこか浮ついていて、書き切った後の達成感、書いている途中の徐々に高揚していく感覚、言語化できた時の安堵感、それらを感じられない。 自分のために書くことが誰かのためになると信じているし、それを原動力に書き続けているけれど、最近は、誰かのために書きたい衝動を我慢している気がする。 「誰かのために書く、それは自分のためになる」 という感覚を欲している。この感覚が「間違っていない」と確かめてみたくなっている。 前に、こんな

たとえリアクションがなくても、誰かに届くと信じて書いてる

コメントをもらったり、スキがついたりしたら嬉しい。 その数が多ければ多いほど、比例して嬉しさも増していく。 どうして嬉しいのだろう、自分の書いた文章が確実に誰かに届いたと分かるからだろうか。 けれど、実際は、読んでも何もリアクションしない人がほとんどだと思っている。自分の知らないどこかで、自分の書く文章が消費され、自分も知らない何かを感じているのだろう。 時には不快にさせてしまうこともあるだろうし、ほんの少し背中に温もりを感じてもらえる時もあるだろう。ただ、ほとんどの

「何でも書く」は、結局「何も書けない」

余裕のない日々が続いていて、なかなか腰を据えて文章を書けていない。 「書くテーマが決まっていたら、書きやすいのかな」 なんて考えてみたりした。 「書くテーマが決まっていないから書けない」といった言い訳にも聞こえるけれど。 ・〇〇について文章を書く ・毎日の日記を書く のように、書くテーマやスタイルを予め決めていたら、もっとスラスラ書けるのだろうか。 自分は、noteを始めた時から漠然と「人生のモヤモヤについて書く」と決めてはいたものの、実際、「人生」というテーマが

「書きたい時に書く」を信用できない

僕が毎日投稿を辞められないのは、正直なところ、「◯日連続で記事公開」というインセンティブに完全に依存してしまっているからだ。 創作を続けるために設計された機能が、僕にとっては、創作を義務づける機能になってしまった。 何だか、すごく申し訳ない気持ちになっている。 ただ、このインセンティブのおかげで間違いなく「文章を書くこと」を習慣にできたし、noteのおかげで文章を書くハードルが格段に下がった。 文章を書くことを「習慣」と呼べた時期もあったし、「惰性の取り組み」としか思

noteを書き始めてから半年、今思うこと。

2021年の始まり、新鮮な気持ちで初めてのnoteを書いた。 誰しもにとって特別だった、いや、図らずも特別になってしまった2020年。 自分自身を知るために、思い切って仕事を辞めた2020年。 「あの日常が取り戻せるかもしれない」と心躍ったし、新たな環境や人生のスタートにワクワクもした。そんな自分の人生や気持ちを、文章として残していくと決意もした。 しかし、思い通りにはいかなかった。 日常はそう簡単には取り戻せなかったし、自分のやりたいことはいつまで経っても分からない

文章を書いていると、写真を撮りたくなる

日々文章を書いていると、何だか物足りなさを感じる。 つい半年ほど前まで、日常に「文章」の「文」すらなかった自分が、一丁前に物足りなさを感じるなんて、半年前に想像できただろうか。 例えば、文章中に写真を挿れてみたくなったり、音をつけてみたくなる。 きっと、こういう感覚が大切なんだろうな。 ひょんなきっかけで始めたブログ、気づけばもっとカスタマイズしたくなって、コーディングやデザインの技術を身につけたくなったり。 YouTubeで動画を観ていたら、自分でも動画を撮影した

なんか違和感。気持ち悪くない文章を書くコツ

僕は、昔から文章を書くということがたくさんあったのですが、書くということを続けているうちに、分かりやすい文章と分かりにくい文章の違いを解説します。 ・ ・ ・ 何か、気持ち悪くないですか? 上の文章はやや誇張して書いていますが、note然り、チャットなどのコミュニケーションやフォーマルな文章において、上記のようなパッと分かりにくい文章を見かけることがあります。 それもまた個性や味と言ってしまえばそれまでですが、誰かに何かを伝えることが目的の文章を書くなら、注意して文章

言葉は、拠り所にもなるし、自分を縛るものにもなる

日々言葉を使っていると、言葉を使っているのと同時に、言葉に使われている、と感じることがある。 言葉に救われている、と感じると同時に、言葉に縛られてしまっている、と感じることもある。 自分ではうまく表現できないモヤモヤを言語化できたとき、他の人がまさに同じようなモヤモヤを言葉にしていた時、拠り所が見つかったような、そんな感覚になる。 「ああ、自分のモヤモヤってこういうことだったのか」 少し安心する。 決してモヤモヤしていたのは自分だけではなかったんだ、と。 例えば、

承認欲求って、面倒くさい

スキとかフォロワーとかどうでも良いなんて思いつつ、実際そう簡単には意識をコントロールできない。 表示されてしまう以上、気にしたくなくても気になってしまう。 「リアクションを気にせず文章を書きたいから、紙のノートに書こう」なんて割り切れるわけもなく。 誰かが見てくれる安心感、誰かに見てほしい、あわよくばたくさんのリアクションが集まってほしいという願望、それらに依存しているからこうして懲りずにnoteで文章を書いている。 ありがたいことにそれなりにフォロワーも増え、一定以