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#書く

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#ライティング

最近、投稿ボタンまでの距離を遠く感じる

※無料で一通り読めます ついに、自分にもその時がやってきたのかもしれない。 決して書けないわけじゃないし、現にこうして毎日書いているわけだし、明日も明後日も書こうと思えば書けるのだけど、何だか投稿ボタンを押す元気みたいなものがない。 (もしかして、ダークモードが反映されたついでに、投稿ボタンまでの距離も遠くなった…?) 冗談はさておき、毎日投稿を「一旦、辞めてみたい」と思っている。 ずっと考えていたことではあったけれど、言葉にしたら本当にそうなってしまいそうで、言わ

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たとえ汚い文章だったとしても、世に出し続ける

「毎日文章を書いて公開する」 と決めていると、正直なところ、雑然としていてあまり納得のいかない文章を不本意ながら公開する時も多々ある。 ただ、「毎日書いて公開する」と決めているから毎日文章を書けているし、継続して世に公開することができている。 もっと時間をかければ良い文章を書けるのかもしれないし、もっとリアクションの集まる文章を書けるのかもしれない。 そんなことを言っていたら、キリがない。 就職活動も恋愛も、多くの人生の選択は「期限」があるから成り立つ。 期限があ

【もう書けない】1月は、noteを始める人も辞める人も、多そうな予感

新たな年の始まりはSNSが希望に満ち溢れていて、見ていて少し心地が良い。 各々が今年の抱負や目標を宣言していたり、やりたいことリストを発表していたり、見ているこちらも前向きな気持ちになれる。 2022年の始まりとともに、noteを始める人も少なくないだろう。 勝手ながら、良いタイミングということで、新たにnoteを始める人が多いのではないか、と思っている。 どんな目的であれ、文章を書いてアウトプットをすることは良い行いだ。 自分自身が、去年まさに「書くこと」を継続し

誰かにとっての「ちょうど良い」でありたい

自分の書く文章に寄せられるコメントに対しては、無条件で嬉しさとありがたさを感じるのだけれど、その中でも特に嬉しいコメントがあった。 Eileen_あやの さん おがたのよはくさんの文章、優しくてあたたかくてちょうど良い温度のお湯のような心地良さがあって好きです(失礼な表現であればすみません💦)。 「ちょうど良い温度のお湯のような心地良さ」 「僕の書く文章ってこうなんだよね」と今までうまく表現できなかったものが、一言でうまくまとめられていて、気持ちが良かった。 何よりも

余裕のある時に書く文章って、薄っぺらいんだよな

「丹精込めて書いた文章ほど伸びない」なんて感覚は、何も文章を書くことに限った話ではない。 かけた労力や時間に比例して、成果の質が高まるわけではないのだけれど、「余裕の有無」に注目してみたい。 例えば、心の余裕。 何かに追い込まれていたり、心に余裕を持てないほどの衝撃的な体験をした時ほど、案外頭の中にあるありのままを書けたり、すらすら書けたりする。 時間の余裕がない時も同様のことが言えるかもしれない。 「やばい、時間がない」 というのは、ある意味心の余裕にも関わるの

「書く」に飽きたんじゃない、「自分のために書く」に飽きたんだ

ここ1ヶ月ほど、「書くこと」に全くが身が入らない。 どこか浮ついていて、書き切った後の達成感、書いている途中の徐々に高揚していく感覚、言語化できた時の安堵感、それらを感じられない。 自分のために書くことが誰かのためになると信じているし、それを原動力に書き続けているけれど、最近は、誰かのために書きたい衝動を我慢している気がする。 「誰かのために書く、それは自分のためになる」 という感覚を欲している。この感覚が「間違っていない」と確かめてみたくなっている。 前に、こんな

たとえリアクションがなくても、誰かに届くと信じて書いてる

コメントをもらったり、スキがついたりしたら嬉しい。 その数が多ければ多いほど、比例して嬉しさも増していく。 どうして嬉しいのだろう、自分の書いた文章が確実に誰かに届いたと分かるからだろうか。 けれど、実際は、読んでも何もリアクションしない人がほとんどだと思っている。自分の知らないどこかで、自分の書く文章が消費され、自分も知らない何かを感じているのだろう。 時には不快にさせてしまうこともあるだろうし、ほんの少し背中に温もりを感じてもらえる時もあるだろう。ただ、ほとんどの

心に余裕がないと良い文章は書けない、のだろうか?

こう見えて、毎月末にnoteの振り返りをしているのだけど、11月の数値や記事に対するリアクションが面白かった。 振り返りをする時はいつも、 ・先月の数値との比較(ビュー、コメント、スキ、フォロワー) ・良かったこと ・改善点 これらについてざっくり考えている。 11月は後半から一気に忙しくなったのだが、忙しさに比例するように、公開した記事へのリアクションが悪くなっていた。 それもそのはず。 明らかに文章と向き合う時間(=自分と向き合う時間)が減ったし、そもそも一日

「何でも書く」は、結局「何も書けない」

余裕のない日々が続いていて、なかなか腰を据えて文章を書けていない。 「書くテーマが決まっていたら、書きやすいのかな」 なんて考えてみたりした。 「書くテーマが決まっていないから書けない」といった言い訳にも聞こえるけれど。 ・〇〇について文章を書く ・毎日の日記を書く のように、書くテーマやスタイルを予め決めていたら、もっとスラスラ書けるのだろうか。 自分は、noteを始めた時から漠然と「人生のモヤモヤについて書く」と決めてはいたものの、実際、「人生」というテーマが

「書きたい時に書く」を信用できない

僕が毎日投稿を辞められないのは、正直なところ、「◯日連続で記事公開」というインセンティブに完全に依存してしまっているからだ。 創作を続けるために設計された機能が、僕にとっては、創作を義務づける機能になってしまった。 何だか、すごく申し訳ない気持ちになっている。 ただ、このインセンティブのおかげで間違いなく「文章を書くこと」を習慣にできたし、noteのおかげで文章を書くハードルが格段に下がった。 文章を書くことを「習慣」と呼べた時期もあったし、「惰性の取り組み」としか思

なんか違和感。気持ち悪くない文章を書くコツ

僕は、昔から文章を書くということがたくさんあったのですが、書くということを続けているうちに、分かりやすい文章と分かりにくい文章の違いを解説します。 ・ ・ ・ 何か、気持ち悪くないですか? 上の文章はやや誇張して書いていますが、note然り、チャットなどのコミュニケーションやフォーマルな文章において、上記のようなパッと分かりにくい文章を見かけることがあります。 それもまた個性や味と言ってしまえばそれまでですが、誰かに何かを伝えることが目的の文章を書くなら、注意して文章

文章を通して、結局何を表現したいのだろうか

noteで毎日文章を書くようになって、早いものでもうすぐ半年経つ。 ここまで特に「これ」と決めず、思うがままに、様々な形式や内容の文章を書いてきた。 自分は、文章を通して何を表現しているのだろう 書き続けているということは、きっと、自分でも言語化し切れていない“表現したい何か”があるはずだ。 160を超える文章の数々を思い出しながら、自分自身の表現したいものが何か、考えてみた。 - 『自らの生き様』 これまでの人生における選択、決断、その時のモヤモヤや葛藤。

毎日文章と向き合って、たいして考えていないことが分かった

「人は考える生き物」だから、過去の後悔から未来への不安、今日の晩御飯に至るまで、常に何かしら考えている。 実際「無」になろうとすると、そう簡単には「無」になれず、日々どれだけ雑念にとらわれているかが実感できる。おかげで、「マインドフルネス」という言葉もかなり普及した。 人は常に何かしら考えているし、そこに毎日大量のインプットがあるから、脳内を整理できていない、アウトプットが追いついていない、だから何となく、常にアウトプットもできるんじゃないか?という気がしていた。 しか

書きたいことはないのに、書けないことならたくさんある

書きたいことがない、何を書けばいいか分からない。 ほとんど毎日そんな状態だけれど、皮肉なことに、書けないことならたくさんあるし、その書けないことが何かははっきりと分かっている。 文章にできるほど思考が整理できておらず「書けない」、そんなものもあれば、「書きたくない」という明確な意思のもとに「書けない」ものもある。 連日こんな文章を書いているけれど、自分のためだからとか、ありのままで良いからといって自分の丸裸を晒せるほど、僕は強くない。 書きたいこと以上に、書けないこと