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掌編小説 あおざめた翅

あなたは月の光のなか、彼女のもとを訪れる。小さな小さな箱のような部屋だ。その扉が静かに開くと、あなたは「おじゃまします」の代わりに「ただいま」と口にしてみる。そうすると、彼女はいつもうれしそうだから。あなたの予想通り、彼女は夕顔みたいな白い顔を、はにかんだようにほころばせて迎え入れる。その表情が一瞬翳ることに、あなたは気づかないでいる。

あなたの手には通りがかりの店で買い求めた赤ワインがある。彼女はそれを見つけて、華やいだ声を上げる。あなたは自分の仕掛けたサプライズに満足する。彼女は鍋のふたを開けて、小首を傾げると、戸棚からいくつかの缶詰と調味料を見繕ってきて中に加える。先ほどまでただよっていた出汁のにおいは、トマトとスパイスの香りに置き換わる。

あなたは彼女と食卓を囲み、洋風の煮込みがワインにぴったりだと賞賛する。その瓶がすっかり空いてしまうと、あなたはビールを欲しがる。彼女は冷蔵庫を開けて、奥の方から缶ビールを取り出すと、出番のなくなった酢のものの小鉢を押し込む。その様子は、あなたには見えない。

あなたはビールを待つ間に、彼女の部屋を眺める。壁にはいつの間にか額がかかっている。大学ノートほどの大きさだ。セピア色の紙に、なじみのある形がいくつか、こげ茶や澄んだ青、くすんだ緑で描かれている。
「蝶々の絵だ」
あなたが額を指さすと、グラスを手にした彼女は首を横に振る。
「あれは蛾だよ」
彼女は、十九世紀に出されたスペインの博物誌の一頁を古物商の知人から譲り受けたのだと話す。文字と線を印刷したところ、色を一枚一枚手作業でのせていく凝ったものだと知り、あなたは感嘆してみせる。

あなたは絵に近づき、納得する。描かれた個体の胴体はふっくらしているし、触覚もよく見る櫛型だ。大小五匹ほど、色や模様は違ってもすべて蛾なのだと。ひとつひとつを確かめながら、あなたは以前も、蝶を蛾と勘違いしていたことがあったと思い出す。

あなたはまだ幼かった。科学の本で見つけた虹のつくり方を試そうと玄関を飛び出したところで、初夏の庭先で光に目を細めていた。良さそうな向きを探してきょろきょろしていると、瑞々しい楓の枝に「それ」を見つけた。楓の葉よりもずっと大きくて、あなたの手さえ隠れてしまいそうだった。翡翠色のビロードのような翅をゆったりと広げて休む姿に、あなたは釘付けになった。
あなたは虹をつくろうとしていたことなど忘れ、「それ」に向かってそっと指先を差し出した。首尾よく「それ」が乗り移ってくると、翅をおさえて、抜き足、差し足で玄関先に向かい、間に合わせの虫かごに入れた。入れるにしても、モンシロチョウやバッタがせいぜいの、緑のプラスチックの編みかごに。広がっている翅を畳むようにして押し込んだら、指のあとを翅につけてしまった。あなたはそれでも意気揚々だ。
「でっかい蝶々をとったよ!」
あなたは勢いよくかごを母親に突き出した。母親は目を見開くとかがみこんで言う。
「うわあ、すごい。きれいだねえ。でも、これは蛾よ。せまいところでかわいそうだから、早く逃がしてあげなさい」
それから白っぽくなったあなたの指先に目をやって促す。
「おやつだから、手を洗っていらっしゃい」
蛾だと聞いて、なぜか「なあんだ」とあなたの心がしぼむ。だが、次の瞬間にはおやつのことで頭がいっぱいだ。あなたは洗面所へと急ぐ。

あなたが語り終えると、彼女が言う。
「それは、きっとオオミズアオだね」
「へえ、くわしいんだな」
「この仲間には、月の女神にちなんだ学名がついているみたい。風情があるなと思って覚えてた。逃してやったの?」
「……もちろん」
彼女は小さく息を吐きだして、どこかを見つめながら「よかった」とつぶやく。
それから、あなたは彼女と短く交尾をする。

翌朝、彼女に送り出されたあなたの目に、空は「それ」を捕まえた日と同じようにまぶしい。ふいに「それ」があなたの頭をかすめる。あの日、ほんとうに逃がしてやっただろうか。おやつを食べて、友だちと遊んで、それからどうしたっけ。首をひねるが、捕まえたあとにどうしたのか、どうしても思い出せない。だけど構わないと思い直す。語られたものだけが過去として残っていくのは、何であれ同じだ。それならば、彼女が安堵したあの結末でいいじゃないかと。「それ」はどこかに飛び去っていく。

あなたは陽ざしのなか歩みを進める。頭のなかはこれからのことでいっぱいだ。今日の打合せがまとまれば、仕事でさらに大きな実績を残せる。たまには家族サービスもしたほうがいいだろう。そうだ、次の休暇には子どもと一緒に虫捕りに行ってもいい。

あなたは振り返らず、大きな歩幅で真っすぐに歩いていく。そうして、彼女の翅が広がることのないまま崩れかけているのに、気づかないでいる。




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短い小説を書いています。よろしければ、こちらもぜひ。


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